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真夜からのメールを見てすぐに、僕は別居中の妻に電話をした。
「今、何してた?」
「何って・・」
僕の詰問口調に気圧された風だったが、妻は「まぁちょっと、書き物」とこたえた。
「書き物って、パソコンで?新しく買ったの、プロバイダと契約したならアドレス教えてよ」
「後でいい?今は、パソコン起動させてないから」
かすれた声は平坦で、感情は読み取れない。
「なんかね、最近、ブログを始める知り合いが多くて、あれ、一度見に行くだけじゃなくて、しょっちゅう覗かないと、またせっつかれるんだよね。でも、ブログって、結構簡単にはじめられるらしいよね。マニュアルにそって選択していけばいいんでしょ?あれって」
妻は何も言わない。
「そういえば昔、君の誕生日会に招待してくれたことがあったよね」
「でた。昔の話シリーズ。最近のブームなわけ?」
ようやく、妻はくだけた調子でこたえた。
「あの時、いろいろめずらしい料理とかお菓子を食べさせてもらったよね。君のおうちにいる間、別の国にいるような気分だった」
「なにそれ」
「タイ風のココナッツ味のカレーとか、紅茶味のシフォンケーキ、ロシアンティも、あの当時はポピュラーではなかったものだし」
真夜のブログのプロフィール欄にあった「好きな食べ物」は、その時のメニューだったのだ。口にしながら思い出していた。
「そう?」
「今になって聞くのも変だけど、どうして僕を招待してくれたの」
「どうしてって」
「僕、誕生日会に寄せてもらうほど、仲よかったのかな」
「あなたは覚えていないんでしょうけど」と前置きして妻が口にしたのは、転校してきた当初、ワンピースの背中のリボンのちょうちょ結びを、ある男子に引っ張ってほどかれそうになっていた時に、僕が通りかかってかばったという話だった。
「その時から、しゃべるようになったのよ、私たち」
そうだっただろうか。覚えがなかった。
「リボンを引っ張ろうとした男子っていうのは、誰?」
イシダマコトくん。妻はあっさり言った。
「石田って、もしかして誕生日会に、あいつも来てなかった?」
「だって、私が呼んだから」
「なんで。いじめられて困ってたんじゃないの」
「それは、誤解だったから」
「誤解?」
石田君はただ、糸くずがついているのを取ろうとしてくれただけだって、後になって分かったの、と妻は言った。
「でも、糸くずじゃなくてほつれ糸だったらしくて、私にしたらぐっと引っ張られた感じになって。あの人、体格がいいから、余計に誤解しちゃったんだけど」
石田は掃除の時間に、たとえば黒板掃除など、手の届かない場所を代わってくれたりもしたという。ただ、その時も黒板消しをいきなりもぎ取られて声をあげてしまったらしかった。
「キングコングの映画の女の人が、コングを怖がって最初、悲鳴ばっかり上げていたでしょう。その例え自体、どうかと思うけど、要するに親切に対する思い違いがあったっていうか。そういう申し訳なさがあって、中学の林間学校のレクリエーションの時も、石田君にわたしの洋服を貸したの」
妻との電話を切って、僕はすぐにパソコンに向き直った。
Outlook Expressを開いて、文字を打つ。
真夜さま
あの時、文化委員だった僕は、夜のレクリエーションを任されていたものの、アイデアが浮かばずに困っていた。女子の提案で「男子に女装させよう」となったとき、君は嫌がる僕の背中を押して、一緒に舞台に立ってくれましたね。担任の水無瀬はバスタオルを巻いた姿(胸にみかんを入れていたんだっけ)で登場したものの、スネ毛丸出しで皆、どん引きだったけど、君は最後まで舞台上で後藤さんのスカートの、ジッパーをこわさないかと気にしつつ、場を盛り上げてくれましたね。
今まで思い出せなくてごめんなさい。
そして、あの時はありがとう。 臼井 章文
そう書いたものの、送信せずに下書きフォルダに入れたままになった。
真夜のブログは翌日、更新されていた。
今日、仕事帰りにデパ地下の総菜コーナーでお弁当を買って帰ったんだけど、残業で遅くなったから閉店前ぎりぎりで半額で、ラッキーってな具合だったのに、部屋に戻ってきて食べ出してアレ??
から揚げだと思ったメインが、魚のすり身にごぼうとかにんじんを混ぜたさつま揚げだった。表面のキツネ色に騙されたぁぁ。あとは椎茸とかにんじんとか、高野豆腐の炊き合わせ。メインはどこよ。疲れて帰って来てコリャナイゼベイベー。
でも、明日はようやくRに行ける。
Rはスーツで凝った心と身体のコリをほぐせる場所。武装している自分を解放できる感じ。そこでレースやフリルのついた服に身を包むと、自分の世界が広がるし、何より穏やかな気分になれる。
うちの親は忙しかったせいか、誕生日は「これで好きなもの買っといで」とお金を渡されることが多かった。景気がよかった頃は、ステーキを食べに連れて行ってもらったりもしたけど、一番欲しかったのって、きれいに包装されてリボンのかかったプレゼントだったんだよね。たとえば、リボンをほどいて包みを開けたら箱が出てきて、箱を開けたらまた箱が出てきて、っていうのをずっと続けて、最後にちっちゃな箱を開けたら空だったっていうのでも、別に構わないから。
女の子の洋服って、何重にも包装された、開けるのに手間がかかるプレゼントに似ている気がする。
原点は後藤さんのふわふわしたスカート。
後藤さんは元気だろうか。今も素敵な女の子だろうか。
石田誠とは、同窓会で顔を合わせてからグループで食事をしたり、年賀状のやりとりも何年かはあった間柄だ。真夜からの賀状が届き始めたのと石田と音信が途絶えた時期は、そういえば符合する。
石田は大学を卒業後、カーテン・壁紙メーカーの企画室に入ったが、就職三年目に兄が急死したため、実家の家業を継ぐべく会社を辞めた。そこまでは年賀状(あるいは喪中はがき)に添えられた近況報告で知っていた。
その後、会社員時代からの彼女との結婚話が流れたとか、兄に代わって実家で仕事をするようになったものの親と衝突したらしく結局再就職したらしい、という噂は、風の便りで聞いた。
石田と疎遠になったのは、どちらからともなくだと思っていたが、あれは僕から遮断したものだったと、思い出した。
僕は石田に、「結婚しました」の一文を入れた写真つき年賀状を出さず、それ以降フェードアウトしたのだ。
今から七年前、僕はかつての同級生だった後藤さえらと結婚した。
結婚何年目からだろう、僕たち夫婦は、あの、もっちゃりしたスケートデートのように、会話もなく同じところをぐるぐる回っているだけになった。
その輪を先に妻が抜けて、僕はひとり残された。
妻が実家へ戻ってから数日間、家に帰ると灯りが消えているのを確認して、「今日もひとりか」とコンビ二へ向かう僕の足取りは、思いの外軽かった。スケート場でリンクから上がって、もとの靴に履き替えて歩き出した時の、しばらく続くふわふわ軽く幸せなあの感覚というか。
ひととき開放感を味わったことが後ろめたさとなって、家を出た妻にかけるべき言葉を飲み込んでしまったままだ。
石田はそんなことを、すべて知っているのだろうか。
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