6・
友達からメールが届いたのは、計算してみると、一年半ぶりのことだった。この街に越してきてから、新しいアドレスに変更したこと、引っ越したこと、新番号などをメールで何人かに告げて、誰からも返事がなかった(正確に言えば、癌になったという知人からの電話が一本あった)ことと、その当時それなりにしょげたことを思い出した若葉だった。
友達は、新天地で生活をはじめたという若葉が、数ヶ月経った今も元彼とヨリを戻さず、ひとりで頑張っているのかを確かめてきた。恋人とは縁を切ったし、今もひとりで暮していると伝えると、彼女は電話をかけてきて、「会いたい。ランチでもしようよ」と甘えた声で言ってきた。高野豆腐が出汁を吸うように、その声は若葉の胸に染みた。
誰かに会って話をしたかったのだ。
特に、矢内原との出会いについて、矢内原の風貌について。矢内原の振る舞いと謎めいた私生活について。矢内原本人とは決して話せない事柄を、女友達と話したかった。矢内原が自分をどう思っているか、今後二人はどうなるだろうか、について、客観的な講評をもらいたかった。
女友達は、若葉の暮す街を観光したい、と言ったが、若葉は上り線で二駅先の(いつも通帳記入する銀行と小振りではあるが百貨店もある)街で会うことを望んだ。女友達とはパスタの店でランチを食べ、フルーツケーキで有名なカフェでお茶をした。その移動の間に、駅ビル百貨店の婦人服売場を通って、あれがいいね、これなんか似合いそう、などと言い合った。女友達はハンガーにかかった服を身体にあててはみるが、鏡の前までは行かず、目に付いたものをとりあえず指先で触る、という調子だった。若葉はいくつかじっくり見たい服や小物があったが、友達に合わせて「話す」ことに重点をあてることにした。
結局、友達には最後まで矢内原の話をできなかった。友達は仕事のことで悩みを抱えており、転職するかどうか迷っているようだった。仕事をすっぱり辞めた若葉の様子を見たかったのだと言っていた。
別れ際、彼女が若葉に、「なんか、きれいになった。おいしい空気吸っているからかな。すごく、透明感があるよ」と、そんなことを口にして上り電車で帰っていった。その言葉を受けた余韻で、若葉は百貨店に戻りひとりでめぐった。友達といる時には立ち寄れなかったランジェリーショップにも足を踏み入れた。
一時間近く迷って、若葉は胸元から肩ひもにかけて、野ばらの刺繍が繊細にほどこされた黒のブラジャーと、透け感のあるシフォン素材でベビーピンクのスリップを買った(それぞれ、最後まで迷ったのは色だった)。会計の途中で、やっぱり、と引き返して白に限りなく近いピンクの、ヒップラインが花びらのように波打っているショーツも追加して、合計9,100円になった。淡いオレンジの薄葉紙でラッピングされたランジェリーは手持ちの布鞄にも収まりそうなコンパクトな紙袋で渡されたが、若葉は指先にひっかけるようにして、ぷらぷらと提げて帰った。そのまま帰るのがおしくて立ち寄った駅中のドラッグストアで、薔薇の香りのボディパウダーを、ついで買いしてしまった。
その晩、女友達から無事に帰着したというメールが届いた。
そこには、本当は今日、若葉に謝りたいことがあった、実は今自分は、既婚者と付き合っていて、のっぴきならない状態に陥っている、ということが書いてあった。若葉に会って、不倫の結末が悲惨だとこの目で見たら別れるふんぎりがつくかと思ったけれど、若葉の血色がよかったので、なんだか自分が恥ずかしくなった、というようなことも書いてあった。こんな私を軽蔑しないでほしい、と締めくくってあった。
「また、遊びに来てね。今度は観光案内します」と返事を打って、「追伸 わたしも、これからはきれいになれる恋をしたいものです」と追加してメールを返した。
翌日、『Blanco』へ行って、一日空けてまた訪れて、若葉はようやく店内に矢内原の姿を見つけた。
「すいません、プリン、今日はなくなっちゃいました」
女性店員に済まなさそうに言われると、L字ソファで合い席になった矢内原が、「僕も、さっき」と八重歯を見せた。矢内原の顎には無精ひげが生えて、もみあげも伸びていたが、怠惰によるものではなく、管理された上での様子らしかった。
「お久し、ぶりです」
責め口調にならぬように、言ったつもりだが声がうわずった。一度飲みに、という話題が出てから、もう十日は経っていた。あの日以来、浴室の小窓から矢内原の部屋を覗かないと決めた若葉は、毎日家事(洗濯してアイロン掛けをして、雑巾で拭き掃除をしてシンクを磨いて米をといで炊いて煮物やきんぴらを拵えて、というような)に丁寧に取り組んで過ごしていた。
若葉の誕生日は来週末だった。矢内原にさりげなく伝えて、飲みに行くならその日か、その前に一度飲むなら、二度目の食事の理由ができる、と思っていた。
「そうだ、これ、あげる」
矢内原は吉田鞄のリュックから、手のひらサイズの紙バッグを出した。ちょうど、ジュエリーギフトなどが入るサイズだった。
「え、いいんですか、こんな」
中には紅茶のティーバッグが五つほど、透明な袋にラッピングされていた。ジュエリーではなかったことをかすかに失望しそうになっている自分を、そして贈り物をされたことの意味を早速検証しようとしている自分を、若葉は「どう、どう」と静めなければならなかった。
「中味はともかく、外側のペーパーバッグが、一応僕のデザイン」
ティーバッグを眺めていると、矢内原に言われて始めて、紙袋の方のデザインを、若葉は壷を見るように眺めてみる。
紙の手提げバッグは、細い水色のストライプと手描きっぽいフランス語の組み合わせの、シンプルなデザインだった。
「すごいですね、なんか、おしゃれ」
「この辺で手に入るのって、そのくらいだったんで。申し訳ない」
矢内原は額にシワをよせて興味なさげに言ったが、尚も若葉が紙袋を手にしたままでいると、さらにこう続けた。
「まぁ、とにかくその文字に行きつくまでは、ラフをいくつも起こして、試行錯誤したんでね、苦労しました」
矢内原はそれきりコーヒーを飲んで黙った。テーブルに置かれたカップの中は、もう三分の一ほどになっている。
「あの、おじいさん」
若葉がそう口にすると、矢内原が座りなおすのが分かった。
「化粧品を選ぶ時、私がすすめる業務用みたいな、カバー力の強いファンデや医薬部外品扱いの化粧水より、どちらかと言うときれいでかわいい容器やボトルに入ったものを欲しいみたいでした」
「ああ、そうだろうね」矢内原は満足そうに頷く。
「デザイナーさんがそれだけ頑張って作ってらっしゃるのなら、それも納得だなぁと思って。パッケージのイメージって、もしかしたら商品本体よりも大事なのかもしれませんね」
「いや、僕らデザイナーは単にクライアントのニーズで仕事しているだけで」
矢内原が失礼、と席を立ち、携帯を耳にあてながら店の外へ出て行った。しばらく経って、外から太鼓や囃子の音が近づいてきて、大音量になった時、矢内原が店内に戻ってきた。携帯を手にしたままだ。
「だから、君が来たって、どうにもならないんだから」
トイレ前のスペースで、矢内原は携帯の相手に告げている。
「だって、向こうサイドはもう、弁護士たてて、そういうつもりなんだから、今はそんな段階じゃないって」
その日は近くの神社の祭りらしく、小振りの神輿をかついだ半被にサラシ、鉢巻姿の男衆と、そのミニチュア版の子供神輿がにぎやかに、うねりながら少しずつ進んでいるのがガラス越しに見えた。後から、和太鼓と囃し方を積んだ軽トラックが続いている。
「うん、え、どこに。近くって、どこにいるの。今、建物か何か付近に見えるもの言ってみて。迎えに行くから、え、なに、聞こえない」
矢内原は携帯を持ったまま再び外へ出て行った。祭りの集団の最後部に割り込むような格好で、その姿は人ごみに消えてしまった。
一団が完全に通り過ぎてしまうと、後は余韻のように、遠くなるお囃子と歓声が聞こえるだけで、取り残されたような、それでいて別世界へ一瞬ワープしてきたような感覚なのだった。店内にハワイアン音楽が流れていると気付くころには、祭りの気配は完全に消えていた。
矢内原が席に残した吉田鞄のリュックが、若葉の目に、急に幼く見えていた。自分のデザインだからと渡された紙バッグも、どこかで見たような、二番煎じのシロモノに思えてきた。
矢内原が戻るのを待たずに店を出て、食料品と日用品の買い物をしてから部屋に戻り、うがいと手洗いをする前に、若葉は浴室に向かっていた。窓から覗いたが、矢内原の部屋を見ても、ふぅん、としか思わず、その隣室に視線を移していた。雑音としてしか聞いていなかったベースの練習音が、今は待ち遠しいくらいだった。
部屋は、その日、着ていく服をどれにしようかと、あれこれ迷った衣装ケースの中味で満開になっていた。
矢内原に対して、ついさっきまで、ある期待を持って行動していた自分が、その光景にあらわれていた。棚の一番上の引き出しには、この間買ったランジェリーが丸く畳んだ状態で入れてある。薔薇の香りのボディパウダー(の宝石箱のような容器)は未開封のまま、その隣に置いていた。
小動物を扱うように、若葉は三種の下着を手のひらにのせた。
頬を寄せてから、そっと胸に抱いた。