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Powder パウダー
5P
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5・

 Y字路で衝突事故があったのは、体調が戻りつつあって、明日は散歩にでも出ようかと考えて、日付がその「明日」に変わった頃だった。普段からトラックが通るたびに横揺れするハイツは、その衝撃で床が抜けそうなほどぐらっと来た。救急車のサイレンが真下に聞こえて、パトランプの赤い光が室内まで届いた。若葉は部屋着にカーディガンを羽織って外へ出ようとしたが、黒に小さな水玉のフレンチスリーブシャツに着替え直してからサンダルを履いた。そして、電話とガス料金の払込用紙(風邪の間に期限が過ぎていた)を鞄に入れて外へ出た。
 カーブミラーは膝を折ってあらぬ方角を向いており、ガードレールは割り箸の袋をねじったようになっていた。車同士の接触事故ではなく、カーブを曲がり損ねた自損事故らしい。フロントガラスの破片によって、ビーズで飾ったみたいに道路が場違いに輝いていた。
「ぴんぴんしてた。救急車にも歩いて乗ってたし」
「エアバックって、本当に膨らむのね」
「あすこ、何度目かな。またブロック直さなきゃならんわな」
野次馬の中に、矢内原の姿があった。彼が頭ひとつ抜きんでているのは、周囲に年配者が多いせいだろう。くすんだ色のTシャツにジーンズという組み合わせは初めてではないが、少し見ないうちに髪の毛が伸びて微妙にウエーブがかかっていたので、イメージが違っていた。
コンビニに向かおうと現場を離れて歩き出した時、後ろからじゃり、と足音がした。呼びとめられる前に誰だか分かったのは、街灯に照らされて伸びた影が、若葉の足元まで届いていたからだ。

「事故、年中なんだってね。だから、あそこのガードレール、アシックスの安全靴みたいなラインが入っているわけだ」
 コンビニの前に御影石風ベンチがあり、たぶんそれは駐輪を防ぐための置石なのだが、そこにハの字状に腰掛けて若葉があずきバーを、矢内原がアイス最中を食べている。
「そこ、融けてる」
 矢内原の人差し指があずきバーの持ち手すれすれのところまで接近していた。
「こっちも、ほら」
 融けるアイスに翻弄されて、若葉が下から舐めたりかじったりしているうちにバーの中央に残ったアイスが膝に落ち、それを矢内原がつかんで若葉の口に押し込んだ。
「三秒ルールで、セーフ」
 そう言って矢内原は自分の指を吸っている。アイスで麻痺していた若葉の唇には、そこだけ判子を押したように、いつまでも指先の感触が残った。

「明日の昼は、カレーを食べに行く」と矢内原が宣言するように口にしたのは、帰り道でのことだ。行列で有名な店の名を挙げて、若葉があそこの店ですかと訊くと、
「土日は近づけないけど、明日ならマシでしょ」と腕を振りながら言い、Y字路に差し掛かったところで若葉に、「ほら、もうカレーの口になったんじゃない」と笑いかけた。それを誘いの言葉ととっていいのか、ただの軽口か、判然としないまま別れて歩き出すと、背中の方で「1時ね」という声がした。

 翌日、1時間際になって出かけると、矢内原はすでに行列の中ほどに並んでいた。
「そんなにかからないでしょ、これなら」
という矢内原の言葉どおり、前に8人の客が待っていたが、それから5分もしないうちに、若葉たちは席にありつけた。というのも、店内での相席を求められたカップルやグループ客のほとんどが「パス」したために、相席を厭わない矢内原と若葉がごぼう抜きで店内に案内されたのだった。
四人掛けの対面席には50がらみの女性客が一人座っており、隣の席に猫のワンポイントの手提げと紀ノ国屋のバッグを置いていた。矢内原は奥の席を若葉に勧め、隣に並んで座った。出窓の部分に鞄を置いた若葉が
「よかったら、それも」
と手を出すと、矢内原は無言で吉田鞄のリュック(持ち手に体温が残っていた)を寄越してきた。向かいの女性の視線を感じた若葉は、それを、ややぞんざいに自分の鞄に重ねた。

「ほら、キューリのQちゃん、おいしいから」
矢内原は自分の皿に取ったトングで若葉の皿にも3切れほど乗せてきたが、ご飯を鮮やかな緑色に染めるそれは、Qちゃんではないと思う、なぜなら東海漬物のQちゃんはもっと一切れが大きくて、くすんだオレンジ色の液に漬かっているから、と若葉が思ったままを口にすると、何がツボにはまったのか分からないが矢内原はヒステリックに笑った。水で食後の薬を飲んでいた向かいの女性客が、伝票をつかみながら眉をひそめていたので、若葉は矢内原の二の腕付近のシャツの生地をつまんで、なだめた。
食後、矢内原が「払っておいて」と財布を置いてトイレに行ったので、若葉は自分の財布から二人分を出した。前の恋人にしていた癖が残っていたのと、他人の財布を勝手に覗くのに気が引けたのと両方だった。
「え、ホント。悪いなぁ。じゃ、コーヒー出すよ」
 店を出たところで一旦は千円札を出しかけた矢内原が、若葉が固辞するとあっさり引き下がったので、会計問題はすぐに解決した。

 ほぼ横に並ぶような格好で、でも皇室の女性のように若葉は矢内原の少しだけ後ろを歩いていたが、駅前を通過して『blanco』が見えてきたとき、矢内原が急に立ち止まったので、鼻先が肩にぶつかりそうになった。
「あれ、嫌」
矢内原の目線の先にあるのは、二台の時差時計がこちらを向いている、写真プリントの店だった。向かって左が現在時刻、右が45分後のお渡し予定時刻を示している。
若葉はその後の言葉を待ったが、矢内原の背中は『blanco』に向かって小さくなりつつあった。

 店内で向かい合って座った矢内原が、昔はマッチをコレクションしていた、と子供時代の趣味を口にしたのは、アイスコーヒーを載せた紙のコースターを見ていて思い出したらしかった。
「駄菓子屋のガラスの容器に詰めて飾ってたかな。火事になったらどうするのってある時母親に中味全部抜かれてブチ切れて、それでやめたけど。あとは一時期フェリックスに凝ってたりとか、手塚漫画は買うというより貸し本屋のを読んでたんじゃなかったっけ」
それを聞いて若葉は、自分がシール魔だったことを披露した。
「でも、シールって、使うと価値がなくなるから、わたし一度もシートからはがして使ったことないです。ずっと未使用のまま持っていて、時々コレクションの箱から出して並べて眺めるだけ。はがせるけど、はがさない、そのじれる感じを楽しむというか」
「どこかに貼りたいとは思わない?箪笥とか机とか、昔の子供は大抵貼っていたでしょ」
「全然。貼ったら意味ないじゃないですか。というか、似合う貼り場所ってないんですよ。抵抗なく貼れたのは、パンについている得点シールとか、最近だとナチュラルハウスのカードくらいですね。夏休みのスケジュール表に貼る予定シールとかも、とっておきたくて、しぶしぶ貼ってたクチだから。なんかそういう性分だったから、漫画の付録も、ほとんど全部、袋に入ったままで、切り抜いたり組み立てたり、もちろん使ったこともないんです」
「今もそのコレクション、持ってるの」
「残念ながら」
 それらは恋人と暮すことになって、荷物整理をしている途中でとうに処分していた。リサイクルショップや古道具店、フリーマーケット、ネットオークションで売ることもなく、あっさり箱ごと捨ててしまったのだった。
「見たかったなぁ、それ」
 矢内原は心底残念そうな声を出した。その途端、今の今まで忘れていたハローキティのボックスケース(パチン、とボタンで止められる、お稽古箱のようなものだった)や、中にあったはずのシールたちが、とてつもない逸品に思えてきた。自分がしでかした失態に、若葉は鳥肌が立ちそうだった。
「しっかし、子供って実用性の低いものの方が好きなの、なんでかな。ロッテとか明治の方が間違いなくおいしいと知っているのに、駄菓子屋の菓子を買うときのテンションの方が断然高いじゃない。今の子供もやっぱり駄菓子大好きだから、いつの時代も変わらないね。あいつら籠に100円分選べっていうと途端に目の色かえるからね」
 のどかな話題の隅に、ごく身近に子供がいる人間の口振りがこめられていた。若葉は頷きながら、屈託なく笑えなかった。
「ねぇ、そういえばあの人」と矢内原が呼びかけてくる。
「ほら、あの、女装のおじいさんの話、こないだ聞いたのおもしろかった」
 矢内原は八重歯を見せている。
「ああ」
「あの人も、あなたのシール集めと同じようなものかもね。実用じゃなくて、服の質感とか気分を楽しんでいたんだろうね」

 お酒は飲めるのかと、矢内原に訪ねられたのは帰り道、寺の境内を出るあたりだった。
「じゃ、こんど飲もう」
「はい」
「何がいい。焼酎、カクテル、日本酒?」
「え、と、ビールとか、梅酒、かなぁ」
「魚、肉、どっち」
「どっちも有りですけど、やや魚寄りで」
 そこまで話したところでカーブミラーの前に来た。俯き加減が花の終わったひまわりを思わせるミラーは、赤いテープでバッテンがしてあって「修理中」という紙が貼ってあった。
「ここで見てるから。行って」
矢内原は、ぶっきらぼうに言って、若葉を追い立てた。ハイツに入るまで見送るという意味らしかった。
何度か振り返ると、「早く」というように手を左右に振ってから、腕組みしてその場に立っていた。その姿が誰かに似ていて懐かしいような気がして思い返してみたら、姉とふたり姉妹の若葉が昔からよく空想した「架空の理想の兄」の面影なのだった。
 
 その晩、若葉は浴室の小窓からアパートを覗かなかった。
 テレビも点けず、アロマキャンドルを焚いて、番茶を飲んだ(本当はローズティがあればよかった)。長い風呂の後は、しわくちゃになっていたイギリス製のレースとフリルのついた白いネグリジェを、浴室の蒸気にあててシワをのばしてからアイロンをあてて、何年かぶりに着た。下にはガーゼコットンの白いショーツと、無印良品のレース付キャミソール(本当はシルクの気分だったが)をつけた。両手を胸の下で組んで、名画で見たオフィーリアのイメージ(名画では手を組んではいないが)を纏って眠りについた。
5P
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