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Powder パウダー
7P
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7・

 月が変わって二週間もすると、朝晩はめっぽう肌寒くなった。ひつじ雲の下、さるすべりの白い花がポップコーンみたいに砂利に散っているのを寺で見かけるようになった。

あの日、あのまま『blanco』で待っていたら、矢内原は女連れで戻ってきただろう。
矢内原は、携帯相手に妙に鼻にかかったような声で、親とはぐれた迷子のような顔になっていた。
昔、恋人と付き合い始めの頃、待ち合わせ場所にたどり着けず、パニックになりかけた若葉が電話越しに、相手からかけられた言葉が、「迎えに行くから、今、なにが見えるか言ってごらん」というものだった。電話の向こうの恋人は息を切らしていて、でも囁くような優しい声を出してくれた。付き合って二ヶ月もすると、互いに地声よりも低い、家族よりもぞんざいに口を利くようになったのだったが。
あの日、一人残された喫茶店で、若葉の頭にはビデオをコマ送りするように、恋人との甘い日々と別れまでの流れが思い浮かんでいた。

 矢内原がこの街で一人暮らしをしていたのは、妻から離婚を言い渡されて慰謝料なりを請求されているさなかに、彼女から結婚を迫られて逃げているのか、それとも妻とは離婚しないが愛人とも別れたくないから、この街で冷却期間をかせいでいたのか、そんなあたりかもしれない。
あの晩、矢内原は帰宅せず、どこかに外泊したようだった(洗濯物が干しっぱなしになっていたし、何度見ても部屋に灯りがつくことはなかった―若葉は、矢内原の部屋を「監視」していたのだった)。
 翌日の夕方近くになって、あの部屋の庭に美女がいるのを目撃した。しゃがんで野良猫を相手にしている女性の、首の傾げ方、ヴィダルサスーン系のヘアを耳にかけてはまたサラサラと落ちる一連の仕草、アシンメトリーなワンピースなどが、遠目にも、美人度の高さを充分伝えていた。
〈もしかしてあれは女装した矢内原かも〉という思いは、庭に現れた彼を見て即座に打ち砕かれた。矢内原は、見慣れない糊のきいた白シャツを着て、胸元をはだけていた。両手に黒っぽい布のようなものを下げて彼女の方に差し出し、彼女が右手の方を指差している。矢内原の姿が室内に消えてから、あれは、靴下を二組用意して、どちらがよいだろうかとお伺いをたてていたのだろうと思った。昔、恋人が、同じ様に若葉に服のコーディネートについて指示を求めてきたから分かるのだった。

 目の前の美しい男女の様子を見た若葉は、自分のかつての恋人との関係を持ち出して「今にあなたたちもそうなるわ」と皮肉を言いたくなったが、同時に、自分のあれも世間によくある馬鹿な恋愛パターンのひとつだったんだなと、シンプルに割り切れてくるのだった。
恋人の一挙手一投足に心動いた頃。外で会った時に彼が着ていたシャツが、部屋のハンガーにかかっているのを見たときの感動。恋人にレンズを向けられて、午睡中や犬と遊ぶ姿にシャッターを押されて愛を感じた瞬間。
 結局、恋愛はどれも、始まってみれば、あるいは終わってみれば似たようなパターンなのだ。
そう思うと、不思議とそれは、錘をはずすような気分なのだった。

 矢内原が寿荘の部屋を出て行ったのは、ヴィダルサスーン美女が姿を現してから十日も経たないうちだったように思う。その間に一度、ベランダで洗濯物を干している時に、ハイツの前を通り過ぎる矢内原がこちらを見上げていた気がする(身を隠したので目は合っていない)が、さほど執着した様子もなくアパートへ引き上げて行った。直接顔を合わせて言葉を交わす機会は、祭りの日の『blanco』以来、結局、二度となかった。

 それからひと月近く経ち、今までコンビニで無料の仕事情報誌をもらって見ていた若葉が、書店で有料の求人誌を買うようになった頃、あの部屋に真新しい既製品のカーテンが取り付けられているのを発見した。
 
***********

 若葉は今、二つ向こうの駅ビル百貨店で筆耕の仕事をしている。結婚祝、出産祝など各売場担当者が書く熨斗とは違って、若葉たちが倉庫のような地下の一室で山のように毛筆で書くのは返礼用の配送品分で、中でも若葉に回ってくるほとんどが「快気内祝」の贈り主名記入だった。書き損じや用紙間違い、紙の破損、汚れなどで一日に何枚もゴミ箱行きになったが、若葉以外のパートタイマーたち(60代半ばの男性と50がらみの女性)も景気良く用紙の無駄遣いをしていたのと、男性の方が達筆とはいえない(ハネ、ハライが皆無の)字を書くこともあって、緊張感のほとんどない、その代りに何の情緒もない職場だった。
 平日、週に4日はそうして過ごし、中一日を休んで週末土日はイベントスタッフの会社に登録して、主に着ぐるみによるキャンペーンイベント(クマやウサギになって風船を配ったりする)に出動した。どちらもほとんど人と会話する必要ない点では似たようなものだったが、百貨店では客より地味な服装で毎日出勤していたのに比べて、着ぐるみイベントでは「楽屋・控え室」も用意されていて、子供たちからアイドル並みの扱いを受けることもあった。
 仕事帰りに、若葉はスターバックスでコーヒーを飲むのが日課だった。週一の休日には相変わらず、図書館と『blanco』のプリンというコースを続けている。
 矢内原がいた部屋は、新たな住人が越してきてから終日カーテンを閉め切っている。その隣室からは、ベースの音が時々聞こえたりもする。
 風呂上り、若葉は薔薇の香りのボディパウダーを全身につけて、引き出しにしまっていたランジェリーを数十分間、身につけることがある。ある時はショーツにスリップ。ある時はブラとショーツ。床に寝て、立ち仕事でむくんだ足を壁に立てかけて目を閉じて過ごすと、花畑(それも、シャンプーのCMで見るようなセットとか、宝塚の舞台装置だとか、丹波哲郎の死後の世界みたいに鮮やかな色の、全然リアルじゃなくゴージャスな)に横たわっている気分になる。

***********

ある休日、若葉は例のブラとショーツを初めて外出時に身につけてみた。
 わき腹の辺りと、太腿のあたりがすぅすぅするようで、何より胸元に意識がいくので、姿勢がいつもより伸びている気がした。目線がいつもとは数センチ違うのか、行き交う人とよく目が合った。自分の身体を行過ぎる空気がシルクの膜のように張り付いてくるような、それでいてツンと引き締まった感覚だった。いつもは受け流している人力車の男性に笑い返すと、彼は営業文句は口にせず、スポーツ刈の少年みたいな純真な笑顔を見せた。
その先で、上背のある白人男性二人が、近くを歩く年配女性に声をかけていた。60代らしき彼女はうろたえて首を傾げたり振り返ったりしており、英語圏ではない外国人の言葉(公衆トイレはどちらでしょう)は若葉の耳に却って聞き取りやすいものだったので、若葉は彼らに声をかけ、指差して場所を伝えた。すると彼らは礼を言い、足を進めながら振り返り様、その内の一人が聞き取れぬ言語を口にして「オッケー」とでもいうように親指を立てた。
「美人ですって、あなたのこと。ほんと、花盛りね」
 さっき困っていたはずの60がらみの女性が、白人男性の最後の言葉を自己流で通訳して若葉に教えてくれた。いいわねぇ、若い人は、と目を細めている。
 その日は、別人になったようで、普段とは違う世界に身を置いているようだった。何かの感覚に似ていると思ったら、年に5度訪れる「奇跡の日」の盛り上がり気分なのだった。

 その晩は十五夜だった。中央からライトアップされた空はドーム状に高くひろがっている。心まで澄んでくる、宝石みたいな月だった。
翌日は遠方でのイベント仕事が入っているので早く風呂に浸かって寝なければ、と早足になりかけていた若葉だったが、口をあけて空を仰ぎながら、バレリーナのようにつま先を伸ばして一歩ずつ、ハイツへと帰っていった。
                           
7P
Fin
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