▼女装小説
少女A’
作: カゴメ
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「……あの子が、男だったら良かったんだがな」

真夜中の大通りを駆け抜けてゆくバイクの轟音にふと目を覚ました幼い少女は、次いで
隣の部屋から聞こえる父親の呟きを耳にした。 彼女が年齢にそぐわずその言葉の意味
が理解できたことが、誰にも聞かれるはずのなかった呟きの所以である。
小学校の課程を半分弱ほど経た頃少女は、同級生の誰からも尊敬、羨望、嫉妬や畏怖す
らも集める存在となっていた。 随時行われるテストでは常に機械のように正確な解答
を試験用紙に並べ立てていたし、何より普段の授業の過程においても、その理解のペー
スは教師すら驚嘆を覚える早さだった。 一を聞いて十を知るとは彼女の為にある言葉
だと断じても過言ではなかった。
彼女は物事の認識能力が生まれつき異常に高い、天才だったのだ。
彼女の五感は他の人間のそれを凌駕する情報量を収集することができたし、知識の堆積
や深い洞察力をも兼ね備えていた。 ただ、それを最適な形で他に向けて活用すること
だけは、年端もない少女には荷が重すぎた。
嫉妬――殊に男子からの反発はすさまじく、時には陰湿に、時には露骨ないじめが彼女
の心身を蝕もうとする毎日が続いていた。 それでも女子同士での付き合いは人並みに
こなしていた為、その才覚故に辛うじて日々を受け流す処世術は身に着けることは出来
ていた。 そんな頃少女は父の(いや、それは彼女の属する社会全体の)本音を知って
しまう。 ずば抜けた学力を持つ子供に、より良い学習環境を、より良い仕事を、より
良い人生を与えたいと思うのは親として当然だろう、しかしその為にはまず金が要る。
 人脈が要る。 そのどちらも十分に持ちうるとは言い難い平凡な家庭において、いず
れは結婚して家庭を内から支える母親になる娘に、そこまでする必要を、父親は認めた
く無かった。
親として男として、彼女は手に負える存在ではなかったのだ。
(どうして)うな垂れた父の背中まで思い浮かべられる幼い少女は、しかし混乱を覚え
ていた。 (私、いい学校とか、いい会社とか、そんな事どうでもいい!)元々遠く感
じていた存在の父親が、見えないほどに離れて行くのを幼いなりに感じていた。

その後進路については自分の希望など一切出さず公立の中学校、高校と順当に進学した。
(私立の進学校へ行くものだと周囲からは思われていたらしかったが、そのことが却っ
て彼女の家庭環境を浮き彫りにさせ、誰も何かを語ることはなかった)
高校生ともなるとさすがに成績がいい、というだけであからさまな苛めなどは無く、む
しろ年相応に美しく成長した彼女の集める注目は、好意的なものへと変貌していった。
入学試験を当然のようにトップで合格した彼女は入学式において全校生徒の前で新入生
挨拶を行い、その日以降牽制しあう男子たちの中で、最速で先手を打ったのが笠原、と
いう2年生だった。 彼にはこれといった非凡な能力は無かったが、同時に平凡に埋没
するほどでも無かった。 勉強をすれば概ね平均点以上の成績だし、スポーツをすれば
彼と同じチームに加わりたがる同級生は多く、友人達の間では、いつも話題の中心に居
る。
「……俺、きみのことが必要なんだ」
何回目かのデートのあと告げられた、極めてシンプルな殺し文句。
しかしそれは父親をはじめとする男という人種から敬遠され、疎外され続けてきた彼女
にとって、彼氏彼女の関係になることを決意させるには十分だった。
彼女――小清水怜霧は、その人生において初めて、女である自分を受け入れてくれる男
性の存在を得ることができたのだ。

「お話って、何でしょう?」言葉を発する度に、握り締めた掌が震える。 ベンチのす
ぐ隣に座る相手との距離はわずか20センチほどで、その表情を振り返ることはできな
い。
日曜日の午前中の公園に、サッカーに興じる少年達のざわめきとボールの跳ね上がる鈍
い音が響く。 赤茶けた葉を散らす木々の向こうは大通りになっていて、時折誰かが歩
いて行くほかは極めて閑静な空気を醸し出している。
「怜霧」笠原は以前と同じように、彼女の名を早口で呼んだ。
「俺、ずっと君に謝らなきゃいけない、って思ってた。 その……君と、別れてから。
 ずっと、心のどこかに君がいたんだ。 何をしてても、誰といても。 昨日偶然君に
会って、そのことに気づかされて……でも、君はすぐにいなくなったから、言い出せな
くて」
「そんなこと言ったら、新しい彼女が悲しみますよ」
「あいつ、君と違って頭は良くないけど。 でも、可愛いんだ。 俺を頼ってくれる。
 俺を尊敬してくれる。 俺を肯定してくれる」
――それは、私が、そうじゃなかったから? 問いかけたくなる衝動が起こる。 謝り
に来たのか、当てつけに来たのか。
いや、多分この男にはそんな意識も悪気も無いのだろう。

『……女の癖に!』
怒気をはらんだ笠原の言葉に、今では会話すら殆どすることの無くなったあの日の父親
の姿が重なる。
恋人同士なら誰でもするような、些細な言い争いだと思っていた。
どれだけ激しい言葉をぶつけ合っていたとしても、明日の朝学校の校門をくぐれば何事
もなかったかのように笑い合えると信じていた。
笠原は意外に古風なところがある。 彼が求めていたのは従順さであり、愛嬌であり、
敬愛の念である。 何もそれらが怜霧に無かったわけではない。 怜霧の持って生まれ
た才覚が、彼に逆のことを思わせていたのだ。
怜霧は2年生の授業内容も、教科書を見るだけで笠原以上に正確に理解できた。 試験
前には英語と物理が弱点の笠原の為に、ノートを作成して手渡した。 その結果笠原は
両科目とも無事に好成績を収めることが出来たが、怜霧に対する感謝の念とは裏腹に劣
等感と嫉妬を芽生えさせる結果ともなったのだ。
『クラスの奴等に笑われるの、我慢できないよ。 お前のお陰でクラス1位になったな
んて思われたんじゃ、嬉しくないんだよ』
『私、そんなつもりじゃない……先輩の役に立ちたいだけだよ』
『だったら! 俺が恥かくような方法じゃなくてもいいだろ? 皆の前でノート持って
きたりして』
『ふーん、それなら勝手に赤とれば良かったじゃない! しっかり人のノートで勉強し
といて……男の癖に後から文句言うなんて、みっともないよ』
『うるさいな、女の癖に! 可愛くないんだよ、お前』

……この人も、だろうか。 どうして、私は否定されなければいけないんだろう。
私は女だから、必要とされないのだろうか。
私が男だったら、彼や父親の私を見る目は違ったのだろうか。
たとえ単なる売り言葉に買い言葉だとしても、それは間違いなく彼の本音であり、怜霧
を再び孤立させる言葉でもあった。
帰宅してベッドに潜り込むと、悲しみが怜霧の視界全てを遮蔽し、替わりに何も見渡せ
ないほど真っ白な静寂が訪れた。
手足をもがく様に動かすと、残像すら目視できるほど緩慢に上下する。
(……どうしたんだろう? これ……)両頬が急に火照りだし、ひどく息苦しい。
夢、なのだろうか。 思わず両膝を地面につく。
すると、見下ろした地面は何処にでもあるような学校の廊下へと変貌し、周囲が窓から
差し込む朱い光に彩られていた。 5時の下校放送が鳴り、怜霧は腕時計を確認した。
4時57分。 時計の設定を間違えたのか、放送する側が時間をずらしたのか。
そのどちらでもないことを、次の瞬間怜霧は理解させられた。
目の前から、古い一眼レフを弄りながら一人の男子生徒が歩いてくる。
こちらには気づいていないようで、時折首をかしげるようにしながらも怜霧には気づい
ていないようで、仕方なく怜霧は重い身体を引きずるようにして避けようとする。
が、少年の歩くスピードは予想していたよりも早く、避けきれずに肩どうしが触れた。
いや、触れなかった。
彼の身体は怜霧など存在しないかのように、すり抜けていった。 呆然とその姿を見送
る怜霧は、廊下の壁に据え付けられた窓に手を伸ばす。
やはり、開いた手は窓を突き抜け、外界の晩夏の空気に触れていた。
瞬間、怜霧はなぜ自分が廊下に立っていられるのか、それが疑問だった。
人の身体をすり抜け、遮蔽物を無いもののように出来る自分は、なぜ地面に立っていら
れるのだろう? そもそもここは、何処なのだろう。 見た目にはどこかの学校のよう
に思えるが、それは勿論怜霧や笠原が普段通っている高校とは異質な空間である。
(別の、世界)怜霧は制服のポケットから10円玉を一枚取り出し、眺めてみる。
このコインを投げたとき、表が出る世界と裏が出る世界。 恐らくここは、そんな場所。
 一見変わったところは無いように見える、けれど明確に違う世界。 本来受信し得な
い情報をも実在するかのように再現できる怜霧の認識力は、そう結論づけることとなっ
た。
だとすると、この世界における『私』という情報は不完全なのだ。

「――だから俺、ガキだったと思ってる。 別に今更やりなおしたいとかそういうのじ
ゃないけど、これって、けじめだから」
新しい怜霧にとって、かつての怜霧の心の道程を旅することは容易だった。 彼女の高
い認識力が、本来つながり得ない二つの世界を結ばせたこと。 その世界を覗く度、笠
原とは正反対といってもいい目立たない写真部の少年が登場すること。 彼、草壁千博
との関係。
すぐ隣にいる男は、そんな怜霧の逡巡など関係が無いかのように演説を続けている。
こうして傍にいるだけでも悲しみが止まらないのに、本題に入らないのなら早急に解放
して欲しい。 締め付けられる心に反して思考は、急速に醒めているのを感じた。
この悲しみは、かつての怜霧のものであって、今の私のものではない。
私のなかには、二人の私が居る。 だとしたら、その足並み揃わない二人を同時に写し
撮ったとき、何が写るのだろう? うつむき加減のまま笠原の顔を見ずに、鞄から持ち
歩きどおしのカメラを取り出す。
この使い古しのデジカメから、色々なことが始まった気がする。
(撮影者の意思が介在しない、モデルのありのままを写した写真……か)いつかの三村
先輩の言葉が蘇る。 
「お……写真? 俺も、映っていいかな」笠原は怜霧を振り返り、肩を寄せてそのフレ
ーム内に収まろうと動いた。 悲しみはいつしか怒りを帯び始めたが、シャッターを切
る。
すると、目の前が白く染まるのを感じた。
(……あれ? この感じは……またなのか?)暖かで、優しい空気がまとわりつく。 
あらゆる五感は極度に鈍化して、目覚めのときまで恐らく3分の時を要するだろう。
だとすれば。 再び、彼女と鉢合わせるだろう。
かつての怜霧が、かつての千博を認識することでふたつの世界を繋げたように。

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