▼女装小説
少女A’
作: カゴメ
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風が窓を叩く音を耳にして、怜霧はゆっくりと目を開ける。 そこは公園のベンチでは
なく、見覚えある学校の特別教室だった。 黒板の脇に掛けられている時計が12時を
指すと、昼休みを告げる鐘がスピーカ−から鳴り響いた。 その音に怜霧は、自分の持
っている携帯電話の時計を確認すると、やはり11時57分を正確に指している。
……やはりここはつい三日前、『千博』と『怜霧』を入れ替えた場所なのだ。
「ん、ここはどこだ……学校? 怜霧、なんで俺たち学校に?」
身体をのそのそと起こす笠原に、何をどう説明しようか考えあぐねた瞬間――
『ちょっとヒロ、あなたなんで戻ってきちゃったのよ!』
耳に、ではなく意識下に直接語りかけてくる声というものを、怜霧は初めて聞いた。
『なんで、っていわれたって僕にだってわかんないよ。 公園で写真撮ったら、いきな
り』
怜霧は口を動かす代わりに思考を直接言葉に変換して、その相手に応えた。 無論そん
な会話が成立するのは、千博をおいて他にはありえない。
『身体、大丈夫? 消え始めてない?』そう言われて両手を見つめてみるが、歪みや霞
みなどは見られない。 『むしろ君のほうがやばいと思う……』
『私もいまのとこ大丈夫だけど! 春希先輩が……』
『そういえば新聞部の取材を代わりに受けてくれるって言ってたっけ……って、春希先
輩がどうしたって?』
『消えかかってるのよ! 先輩が! あんたもしかして、笠原……さんと会った?』
辺りを不思議そうに見渡している笠原は、無言の割りに苛立たしげな表情を浮かべてい
る怜霧を訝っているようだ。
『会ったっていうか、今すぐ傍にいるよ。 ……まさか』
3分前の世界における笠原は、この世界の菜穂子なのだ。 整った顔立ちが良く似てい
るように思えるのは、焦りの所為だけではないだろう。 かつての千博と怜霧がそうだ
ったように、やはり世界は笠原と菜穂子の共存を許さないらしい。
『やっぱり、駄目だった……私の……あんたの中に残ってる先輩に対する思いが強すぎ
た。 これじゃ元も子もないじゃない!』苦々しげに毒づくも、冷静さは残されていた
ようだ。 『ヒロ、今どこまで理解してる?』
本当に菜穂子の消失が始まっているのだとしたら、今は一刻の猶予も許されない。
怜霧はこの3日間の全てを順序だてて振り返る。
『……君は、僕の存在を認識することで、時間や場所に関係なく僕のいる場所に来るこ
とができる。 そして僕の持ってるカメラでなら、3分前の世界に人を送ることが出来
る。 その逆も出来るとは思わなかったけどね。 でも多分、ここで笠原先輩を元の世
界に戻しても、君が彼への思いを断ち切れなければ同じこと。 だとしたら、どうすれ
ばいい?』
ややあって、『……上出来』そう呟く声がして、教室のドアが音を立てて開く。
そこには硝子のように透けた身体の菜穂子を抱きかかえた、千博がいた。

菜穂子の意識は既に無いようで、蒼ざめた表情のまま両肩を上下させている。二人はそ
の身体を並べた机に横たえた。 触れることは出来てもその肌は氷のように冷たく、差
し迫った状況を物語っている。
「……それじゃ、君とそこの先輩を戻せばいいんだね」少女はデジカメを構える。 暫
くこのカメラは人の目に触れない、写真部のロッカーの奥にでも閉まっておこう、そう
思う。
「あ、その前にちょっといいかな」少年は、ひとり話の輪から取り除かれた笠原を振り
向いた。
「結局、何も取り戻すことは出来ないみたいだけど……男の身体のうちに、ひとつやっ
ておきたいことがあるんだよね」
そう言って口元に笑みを浮かべると、握り拳を作り、それを突如笠原の無防備な左頬へ
振り下ろした!
派手に吹き飛ぶ笠原は自分が何をされたのかもわからない様子で、起き上がろうとした
瞬間、背後でデジカメのシャッター音が鳴り響いた。 全身の力が抜け、哀れな男は次
第にその姿を歪めてゆく。

「……あの人も、被害者だったんじゃないかな」
「誰の、どんな行為による被害なのよ。 私が君と入れ替わろうとした根本は、あいつ
なんだからね」
「男になって、春希先輩と付き合えば、自分を振った笠原先輩に対する復讐になるって
思った? それとも、男だったら誰からも肯定してもらえる存在になれるって?」
「止してよ、そんな言い方。 誇り、っていうの? そういうのを持てる自分になりた
かっただけだよ。 誰かに必要としてもらえる自分になりたかったんだよ」
「僕と違って君は友達多いみたいだから、少し疲れたよ」
「もう、女の子はお役御免?」
「少なくとも、他人に成り代わろうとは思わないね。 偶然とはいえ、自分と同じ顔、
同じ姿の女の子と出会うなんてね」
「この世に、偶然なんかないよ」
「……? どうしてさ」
「言ったでしょ? 世界はたくさんの人の、色々な選択で成り立ってる、って。 あな
たが何となく決めた、って思ってることでもそこに至るまでにはヒロも知らない他の誰
かの選択が複雑に重なった過程があるんだから。 じゃあ例えば、あなたはどうして女
装をして写真を撮ろうって思ったの?」
「それは、ロッカーの中に女子の制服が入ってるのを見て」
「つまりそれは、入れた誰かがいる、ってことでしょう? それは人為的な選択が働い
てるじゃない」
「そんな。 極論だろ、それは」
「じゃあもう一つ。 制服を見つけたあなたは、どうしてそれを持ち帰ったのか……置
いて帰るなり、先輩たちに報告するなりできたじゃない。 何より、明確な理由がある
からでしょ」
「…………」
「世界の形は一つじゃない。 幾重にも折り重なっていて、私やあなたって個人は遍在
してる、ってことだけ覚えておいて」
「君は、これからどうするんだ?」
「どうって……生きていくよ、私は私として。 誰かに価値を決めてもらうんじゃなく
て、今度こそ誰かの大切な自分になれるようにね」
「そっか、じゃあ僕はいつかまた、君の写真を撮るよ。 また会えるんだろ?」
「……いつも会ってるじゃない。 君が私の姿をしてるってことは、私は君だって事な
んだから」

「……さて取材、でしたっけ。 何からお答えすればいいでしょう?」
日が落ちるのが急速に早くなった、と千博は思う。 その為昼間の事もあり、菜穂子を
駅までは送ることにした。
目覚めた菜穂子からは千博が風評どおりのいかにも写真部な男に戻ったことを散々確認
され、自分の身に起こったことを筆頭に矢継ぎ早に質問攻めにされた。 勿論起こった
事を正確に伝えようとすれば千博自身も混乱を免れないため、怜霧として嘘のアンケー
トを書いた時以上に曖昧に誤魔化さざるを得なかったが。 
「記事なんか、書けるわけないでしょう? 人が現れたり消えたり、性格がコロコロ変
わったり。 今でも君が本物の草壁君だって信じ切れないくらいなんだから」
新聞部は、情報元の不確かな記事は書かない。それは菜穂子のみならず代々の先輩達か
ら受け継いできたポリシーであった。
「まあその代わり、他に記事のネタになりそうなこともあるからね、未来の名カメラマ
ンさん」薄暗い夕日をバックに眼鏡を直しながら笑う菜穂子の表情は、そのままモデル
を依頼しても良いと思えるくらい華やかだった。
「まずは、何で女装を始めようと思ったのか……ってとこから、ね」
……草壁千博の創作意欲と周囲のあらぬ誤解との狭間で葛藤し続ける日々は、続きそう
である。

               ※   ※   ※

卒業した先輩が予備で買った制服はサイズがかなり大きいと思うが、男の子が着る事を
考えればこの位が丁度良いだろう。
只でさえ狭い暗室に荷物を放り出している主は、今頃屋上で雀の写真でも撮っているの
だろうか。 手探りで壁の電源スイッチを点灯させると、一つだけある赤い光が弾け、
それは私の眼の中に赤と緑と黄色のドーナツ状の放射を残す。 丁度写しだされたロッ
カーには鍵が施されていた。 さすがにエスパーじゃない私は、諦めるしかないか、と
も思ったけれど。
 テーブルの上には、黒いコインの形をしたホルダーが打ち捨てられていて、ひとつだ
けついていた鍵は容易く赤錆の浮いたロッカーの扉を開いた。 その中は少し埃臭く、
あまり使われた形跡が無いようだった。クリーニングから帰ってきたばかりの、真新し
いほどに薄白い制服をそのままロッカー内のバーに納め、音をたてないように扉を閉じ
る。
写真部は部員が少ないことと、あまり部室に留まらないことが幸いしていたとはいえ、
極力目立つ行動は避けたい。
今はまだ、この世界では異邦人なのだから。

「3分後に会おうね、ヒロ」


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