▼女装小説
少女A’
作: カゴメ
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翌日の午後の優しい日差しの注ぐ雑踏を、怜霧は淡いアイボリーのブラウスの上にベー
ジュのチェックのジャケットを羽織り、ふくらはぎまでのパンツというカジュアルなス
タイルで街に出ることにした。 小さなハンドバッグには、カメラの他には必要最低限
の物しか入っていない。 モデルになるには魅力に乏しい、しかし道行く人のだれもが
自分に関心を恐らくは示さないだろうありふれた服装は、彼女にとっては心地良かった。
かつて怜霧は、自らの行動が自然な衝動では無いものだと自覚していた。 偶発的なき
っかけから始まった、この世でもっとも自在に扱えるモチーフとしての自分は、しかし
エクスキューズの上に成り立った存在であり、反面不自由だった。 学校の外に出たこ
とは無かったし、校内でも他人の目を避けるように密かに存在を主張し続けていたのだ。
その自ら築いた檻故に、気づかなかったのだ。 スタイルに気を配りながらコーディネ
ートする楽しみ。 思うように髪を結う喜び。 化粧ひとつで別人にすらなれる快感。
 理由など必要とせず、心の赴くままに自分自身を楽しむこと。
(今日は、いい写真が撮れそうだな)根拠が全くない訳ではない。 新しい怜霧にとっ
ては、かつての怜霧の記憶も所有物なのだ。

通りがかったゲームセンターの入り口近くに、怜霧も良く知っているプリントマシーン
が据えられている。 休日の混雑を避けるかのように店内に避難する若者たちが硝子ド
ア越しに見えた。 その気だるい光景をやり過ごそうとすると、不意に背中に重い衝撃
を感じた。 身体感覚の違和感だけはどうしようもなく(むしろ劣化したようにも思う)、
履き慣れないスニーカーを3歩ほどよろけながら前進させ、後ろを振り返った。
見上げると、背が高く、少し肌の浅黒い男がフリルのついた薄いピンクのワンピースに
身を包んだ少女と並んでいる。 助け起こそうともしない男に少し怒りを覚えながら立
ち上がると、その表情には驚きと、少しの焦りが浮かんでいる。 年齢は自分と同じか、
あるいは少し上くらいに見える。
「笠原……先輩」記憶の隅から響き渡るように、怜霧はその名を口にしていた。
「れ……いや、小清水さん」一見涼しげで、しかし後ろめたさの宿る笑顔を直ぐ隣の少
女は不思議そうに見つめる。
「小清水さんって……ああ、秀才の子? テスト、いつも学年1位の」好ましい響きの
声ではない。 笠原先輩の彼女なのだろう、組んだ腕を握り直したようだ。
「ああ、ちょっと知り合いなんだ」
「そうなの? じゃあ勉強ちゃんと教えてもらえば良かったんじゃない、あんた今度の
テスト、珍しく良くなかったし」
「まあ、それが……そういうわけにも。 下級生に勉強教われないからさ」一人会話に
取り残された怜霧の胸に、突如締め付けるような悲しみが訪れた。 涙が零れそうにな
るのはこらえたが、視界の向こうの二人の姿は曖昧に揺らめいている。
「あ、あの……私、失礼します!」足をもつれさせながらその場を離れるのが精一杯だ
った。 背後で響く、自分を呼び止める低い声に耳を塞ぎ、大通りを掻き分け、時折通
り過ぎる人と肩がぶつかり、荷物をぶつけられる。 嗚咽を漏らしそうになりながら、
走る。
(なんで……なんでこんなに悲しいんだ?)出所不明――いや、その悲しみの理由はと
もかく、これほどまでに心を締め付けているのはかつての「怜霧」だ。 「怜霧」の記
憶の断片が、現在の怜霧の感情に影響を及ぼしている事実に彼女は戸惑い、訳もわから
ないままに涙は溢れ始めていた。 次第に息はあがり、どのように走ったのかもわから
ないところで誰もいない公園を見渡している。
(私のなかに……もうひとり私がいる)その事実を、再確認することとなった。
だとしたら。 「彼女」のなかの「自分」はいったい、どんな思いを去来させるのだろ
う。

案内された部屋は丁度カラオケボックスの一室のように薄暗いなか、周囲の壁にぼやけ
た天球儀のような光景が映し出されている。 向かい合わせのソファにそれぞれ座り、
千博は携帯電話をジャケットから取り出した。 菜穂子はその動きを見て、ハードディ
スクレコーダのスイッチを入れる。 高校の新聞部の機材としては過ぎたものだが、裏
を返せばそれだけ学校側が新聞部に寄せる期待が大きいのだ。
「それでは、今日は宜しくお願いします、草壁君、怜霧さん。 最初にお聞きしたいの
は」そこまで言いかけて、菜穂子は言葉を詰まらせた。 彼女の推察では、件の写真の
少女は千博自身の女装した姿で、そのことを追及されまいと取材を拒んでいたのだと考
えていた。 ところが菜穂子自身、彼と並んでいる「怜霧」の姿を現実に見ていて、と
ころが取材を申し込んだ先に現れたのは何故か千博で、その千博は認識するところとは
別人のように快活で、積極的だった。 新聞部として求めるものは勿論、怜霧自身から
発せられる言葉だが、それ以上に菜穂子の個人的関心は千博に向いていた。
秘密を抱えているのは「怜霧」ではなく、むしろ目の前で携帯電話を弄ぶ「千博」では
ないのか?
(賭けに出るか)乾いた唇を噛み締め、耐えようもない緊張感を押し隠す。
「草壁君、そろそろ種明かししてもらえないかな」千博は不意を突かれたように身を跳
ね上がらせた。 「種明かし、ですか? 一体何の」
「怜霧さん。 彼女、本当は君でしょう? 君が女子の制服を着て、ウィッグつけて、
メイクまでした姿。 つまり怜霧さんは実在しない生徒、だからどうやっても探すこと
が出来なかった。 ――確かに、良く撮れてる写真だと思う。 コンテストの審査員が
そこまで気づいて賞を決めたのかはわからないけど」
「ちょっと待ってください、先輩も見たでしょう?」勿論、千博と怜霧の姿を同時に見
たことを言っているのだろう。
「うん、あのとき確かに私は君とも怜霧さんとも話した。 だから一度はこの考えを捨
てざるを得なかった。 まさかあの時、私が来ることに感づいてて替え玉の『怜霧さん』
を用意してたとも思えないし」
「じゃあやっぱり僕は僕、怜霧は怜霧じゃないですか」
「問題はそこから。 今日君は怪我をした怜霧さんの代わりでここに来てる。 でも、
どうして? 私は彼女に携帯の番号をこの前会ったときに教えたんだから、不都合があ
るなら直接連絡してくれればいいじゃない? 取材を外でする理由は、彼女からそう申
し入れがあったからだし、わざわざ電話越しに話す理由は何? そもそも怜霧さんと草
壁君は別人なんだから、君を介する必要は無いんじゃない?」
……それがあるとすれば、やはり怜霧の意思は千博の意思、ということだろう。 千博
の変貌に戸惑って……いや、有無を言わさぬ超然とした態度に惹きつけられたと言って
もいい。 少なくとも菜穂子は『ヘカーテ』と銘打たれた場所にたどり着くまで、彼に
翻弄されていた。
「ははは、まあその通りなんですけどね」
一方の千博は、開き直ったかのような笑い声をあげた。
「でも考えて下さいよ、怜霧自身も言ったかもしれませんが僕は、自分の写真のモデル
がワイドショーや週刊誌まがいに追い掛け回されるのは嫌なんですよ。 春希先輩と二
人にしたらどんな事聞かれるかわからないし、その結果不自然に彼女が学校内で注目さ
れるのも、ね」
「……信用ないのねぇ」肩をすくめ、苦笑いで応える。 「まあ今は彼女の素性よりも、
君のことが気にかかるんだけどね。 今朝からの君は、私の知る限り別人だ」
「美人に気にかけて頂けるのは光栄ですけど、根拠に乏しい話ですね」
「その軽口だけで、私には十分。 質問を改めるね。 ……『あなた』と『草壁君』は、
二人で何をしようとしているの?」整合性がまるで無い言葉の数々が、徐々に結びつい
ていくのを感じた。 千博が女装した姿が怜霧だとしたら、千博でない誰かが、彼の姿
を成している可能性だって、ゼロではない筈だ。 何のためになのかまではわからない
としても。
壁にぼやける天球儀がその表情を波のように変貌させ、静寂の時間が流れる。
「当たらずといえども遠からず、か」どこか諦観を帯びた表情の千博が、閉じていた双
眸を開く。
「……春希先輩。 今、好きな人はいますか」
「?」菜穂子の狼狽は、唐突な質問に対するものではない。 ほんの一瞬、組んでいた
手の指の第二関節あたりまでが、突如消えたような感覚に襲われたからだ。
「なっ……」千博の表情も、瞬時に蒼ざめる。 「あいつ、気づいちゃったの!?」
その言葉の意味の通じない菜穂子は、自分の感覚が錯覚でないことを再確認する。
やはり水に溶かしたインクのように、爪の先から指の付け根までがぼやけてゆく。
「と、どういう事なの? これ!」超自然的現象は、新聞部の取材の対象外だ。

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