▼女装小説
少女A’
作: カゴメ
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「……ありがと、怜霧。 おかげで赤は免れそうだよ」
亜美から手渡されたA4サイズのノートを無表情で受け取り、ページに羅列された文章を
眺める。 英語の中間試験の出題範囲をまとめたものらしく、男女のメンタリティの比
較について考察されているらしいコラムは全て丁寧な筆記体で書き写されたのち平易な
日本語に訳されていて、文章の主題と思われる『男性は行動に際し理屈が先行するが、
女性は情動的で迷いがないケースが多い』という一文は多少癖のある赤い文字で彩られ
ている。 「さすが学年トップのノートだよね、これで勉強したほうが教科書よりよっ
ぽどタメになるって感じ?」席を立ち、冗談っぽく笑う亜美の横を無言ですり抜けて廊
下に出る。
階段脇の突き当たりには、「創立三十周年」と青文字の刻まれた姿見が据え付けられて
いた。 

「千博」だった頃の名残は、古びた机に放置されていた写真部所有のデジカメだけだっ
た。 それは今も、鞄のなかに押し込まれている。 新しい怜霧がつい昨日の夕暮れに
沈む特別教室の床に残るワックスの不快な匂いに目を覚ましたとき、全ては既知の事柄
となっていた。 生まれた場所に暮らしている街、家族や友達、親しくもない知人を含
めたほどよく広い交友関係。 上書きされた情報から判断するに、千博との共通点は同
じ高校生である、という一点しか見当たらない。
(……目に映らない部分では、ね)
一方で見慣れた女子の制服に身を包み、物憂げな瞳を髪で包み隠そうとする姿はかつて
と何ら変わるところは無い。 身長が少し低くなったことで視界が若干変化したことや
肩や腰に触れた時の華奢でしなやかな身体つきには戸惑いと驚きを払拭することができ
なかったが。 とくにトーンの高い、甘い声には他人の声帯を移植されたかのような違
和感を感じる。 ざわつく髪をかきあげようと耳元に手をやると、仄かに漂うバニラの
香りに郷愁にも似た心地よさを感じる。 それでも果実のように緩やかに垂れ下がった
双眸、小さな唇、溶けた氷のような薄白い肌は、寒気がするほどにかつてと同じ顔なの
だ。
不躾な足音が背後から響き、教室にいたはずの亜美が駆け寄ってくる。
「ちょっとどうしたの? 一体……あたし、何か気に障ること言った?」
不安げな子犬のような表情でこちらを覗く亜美は恐らく、かつては多弁で愛想も良かっ
たのだろう怜霧が無言で立ち去ったことを気にかけているように見える。 『女の子の
言葉』に慣れない所為で言葉を交わすのは必要最低限に抑えていたし、もともと人と何
かを語ったり、他愛も無い話に興じるという経験には乏しかった。
「あっ……ううん、別にそんなんじゃ。 ちょっと今日、身体が重くて」
「ん、そう……? 無理しないで、保健室行ったら?」目の前の小柄な少女は、怜霧の
身を案じる一方で、突如様子の急変したように思われる級友に対する疑念と不安を表情
に浮かべていた。 適当な相槌を打つと、勧められたとおり保健室へ向かうことにする。
体温の検査や校医の問診といった通り一遍の検査を終えベッドに潜り混み、硬く小さな
枕に頭を押し当てた。 『体調が悪い』と一言口にしてしまうと不思議なもので、出所
不明の倦怠感がまとわりつく。 (身体が馴染んでない……とかじゃないよな)
精神と肉体は別のものなのだろうか? 根源的な命題が頭をかすめる。
異なる時間において同じ役割を担うとされている少年と少女は、互いの有している世界
と同時に身体を取り替えた。 生命活動を司るものが精神だとするなら起こりえない矛
盾だ。 (……あたしは怜霧。 怜霧になるかもしれなかった千博。 怜霧になりすま
して写真を撮っていた千博。 千博は、怜霧になりたくて写真を撮ってたのかもしれな
い……)
混濁する意識が、怜霧を眠りへと誘う。 その眠りが覚めることを忘れた時答えを知る
だろう、命題の重みから開放されることを望むかのように、夢も見ずに。

かつて『時間の流れが3分違うと、テクノロジーも違う』、そう告げられたことを怜霧
は思い返していた。 ところが目の前に鎮座ましましているハンバーガーの包装紙は見
慣れたもので、一口かぶりつくと懐かしささえ漂うほどによく味覚に馴染んだ味だ。 
小綺麗で下校途中の制服姿が騒がしいショップ内にも、とりたてて注意を惹くようなと
ころはない。 「うちらじゃレギュラー無理だからね、楽しく遊んどけみたいな?」そ
う言いながらポテトに手を伸ばす向かいの席のサチはバスケット部だったはずだ。 そ
の内部事情は怜霧の知るところではないが、確かにその余裕の表情からは言葉通りの状
況が伺える。
「だからって人目を気にせず照り焼きバーガーをドカ食いするほど開き直ってもない…
…と」
ハムスターのように膨れたその頬を突きながら、亜美は笑う。
「そこまで欲望に身を任せたらピンチでしょ、女として」再びサチは、両頬をリスのよ
うに膨らませる。
「そういえばうちの学校って、写真部ってあった?」
「え? なんでいきなり写真部なの?」怜霧の唐突な問いに答えながらもサチの口と手
は、忙しそうに動いている。
「……最近、ちょっと興味あって」
「たしか1階の空き教室が部室になってたよね?」同意を求められた亜美も、水のみ鳥
のように頷く。 怜霧は鞄を開き、右手からはみ出す大きさのデジカメを取り出した。
「ほら。 始めてみようと思って、家から借りてきたの」
「あ! 貸してよ、撮ってあげるからさ」
目の色を変えて興味を示してきた亜美に手渡すと、席を立ちサチの横に並ぶ。
「はいっ、チーズ!」機械的なシャッター音が響く。
デジカメのウインドウには、笑窪の愛らしいサチのピースサインだけが写されていた。
すぐ隣に並んでいたはずの怜霧の姿は影すら見当たらない。 亜美は被写体となった二
人の不思議そうに見つめる視線を交互に受け止めると、怜霧の前髪を撫で、両頬を指先
で軽く突く。
「うーん、怜霧、消えちゃったわけじゃないよね。 故障?」無論そんなはずは無い。
「もう一回撮ってみてよ、カメラマンさん。 今度はあたしだけ」窓際の席に戻った怜
霧を、オートマチックで補正のかかるレンズが捉える。 両肘をテーブルに付き、口元
に軽く親指を運んだ微笑は、今度こそ写し出される筈だった――

結局その後どんなポーズを撮っても、カメラ側の設定を変更しても『世界初! 透明人
間の撮影に成功!』といった具合で、二人の友人の訝しげな表情が気味の悪さを隠さな
くなった辺りでその日は解散となった。 既にペガサスの大四角形が浮かぶ空の下を、
自転車で駆けてゆく。 時折すれ違う、テレビのCMで見覚えのある車。 通い慣れた
コンビニの看板が遠目にもはっきりそれとわかる。 3分前の世界と言っても、見える
ものや聞こえるものから実感できる要素は現状無いに等しい。
明日、どんな顔してあの二人に会えばいいだろう? そう思いかけて怜霧は、今日が金
曜日だったことを思い出す。 ――久しぶりに、外に撮りに行くことにしよう。

日曜日の午前中のドーナツ店内は、混雑するには早いはずの時間にも拘らず、若い夫婦
とその子供、にぎやかに騒ぐ恐らくは他校の学生、カップルなどでごった返していた。
 ミルクの濃厚なカフェラテを半分くらい飲み干し、菜穂子は携帯電話の時計を確認す
る。 怜霧が突きつけてきた取材の条件は、日曜日に行うこと、学校内では行わないこ
との二つだった。 千鳥格子の印象的なマフラーに薄手のハーフコートを羽織る菜穂子
の姿は大人びたスタイルで統一されていて、デート前だと言っても疑うものは無いだろ
う。
(少し、早かったか)そのとき自動ドアの向こうに千博の姿が見えて、菜穂子は少し戸
惑いながらも席を立つ。 事前の約束では怜霧は千博を伴わず、単身取材を受ける予定
だった。 そこへ千博が現れるということは、彼女に何かしらの問題が発生したという
ことだろうか。
「草壁君、彼女は?」店を飛び出した菜穂子の知る限り、見たこともないほど快活に千
博は挨拶を返した。 「それが昨日、怪我をしたとかで家から動けないらしいんですよ。
 でも大丈夫、携帯持ってるから質問は電話して聞きますから。 それじゃ、行きまし
ょうか」
「行く、ってどこへ――」
「静かに話せる所に決まってるでしょう、取材なんですから」駅前から続く見知った通
学路を進む千博に、違和感を覚える。
「随分乗り気じゃない、嘘までついて断ろうとした割りに」嫌味に聞こえたかもしれな
い、と思う。 が、すぐ横を歩く千博はまるで意に介する風も無く、涼しげな表情を崩
さなかった。 
「そりゃ自分の写真が学園中の話題の種って言われたら、やる気もでますよ」
「……君にやる気出されてもねえ。 今回は、彼女の取材なんだから」
「はいはい、僕はメッセンジャーボーイですか。 でも撮った人間のことも、少しは記
事にして下さいよ。 顔写真、小さい丸で囲って」
「そうだね、じゃあ草壁君も一言くらいコメントさせてあげてもいいよ、スペース千円
で」
「あはは、それじゃ広告と同じじゃないですか」軽口を叩き合いながら、菜穂子は思う。
 (いかにも写真部って感じの、暗い男……?)風評からは想像できない千博の姿は、
何故か記憶よりも少しだけ背が低く見える。 その右側に並んでみると、向けられる笑
顔にふと見覚えがあるような気がした。
――それから十五分ほど歩いただろうか。 千博のリードに任せていた菜穂子は、いつ
しか辺りの光景が通学路の住宅街から外れた見慣れない公園沿いの通りへと変貌してい
ることに気づいた。
「あれ、こんな所に公園なんてあった?」赤茶けた葉を散らす木々の向こうでは、サッ
カーに興じる中学生くらいの少年たち(その内に20代くらいの若い男が数人混じって
いる、地元のクラブのようなものだろう)、自分とそう年齢の変わらないカップル……
と言うには親密さとは別の雰囲気が漂っている二人がベンチで何事か言い争いをしてい
る姿が見える。
「……ああ、ちょっと間違ったかも」苦い表情を浮かべて小声で独り言を呟く千博は、
菜穂子の問いを無視して横断歩道を反対側へ渡った。 「もしかして、道迷った?」聞
いていた側としては、そう思うのが当然だ。
「大丈夫ですよ。 ほら、こっちです」少し遠くからそう呼びかけられて、横断歩道か
ら少し外れた道を早足で駆け抜けた。

小さなガラス窓が二つほどついた茶色の扉の前で、千博は呼び鈴を鳴らす。
やや間が空いて開いた扉から現れた相手を、菜穂子は月曜日のテレビドラマに出演して
いた女優の某に似ていると感じた。 切れ長の吊り目が印象的で、自分が千博なら、迷
わずモデルに使ってしまうだろうと思う。 どちらかと言えば派手で、目立ち易い顔つ
きを反映した赤紫色に統一されたセパレートは眩しい。
「すいません阿部さん、お願いしてたとおり奥の――」気圧されまいと両肩を固める菜
穂子に反して千博は年上の、大人の女性相手に余裕のある態度だ。 顔見知り程度の菜
穂子でもその様子が、明らかに先日まで追い掛け回していた相手とは別人のように思え
る。
「うん、オッケー。 ちゃんと空けてあるから、好きに使ってね」ハスキーな声で応答
して、菜穂子のほうを向き直ると、「いらっしゃいませ、ようこそ『ヘカーテ』へ」そ
う言って丁寧に頭を下げた。 店の名前なのだろうか。 と、いうよりもここはどうい
う場所なのだろう? 
周囲を見渡してみた。
入り口の扉以外には採光窓のない室内には、程よく柔らかい照明が輝いている。
右手側には湾曲したバーカウンターのようなテーブルが窮屈そうに置かれている。 背
後には勿論酒瓶……などあるはずもなく、敷き詰められた棚には洋書だろうか、英語と
スペイン語だけはかろうじて判別できる背表紙がところどころに並べられている。 千
博が腰を下ろし、組んだ脚をぶつけそうになったガラステーブルには、奇妙な形、とし
か言いようの無い三叉の木の幹のような置物が空しく佇んでいる。
「……で、取材はここですればいいの?」
「や、奥に部屋借りてますから。 そっちでお願いします。 その前に一つ質問いいで
すか?」言いながら千博は、テーブル上の件の置物を指差す。
「……この三本の幹は、何を表してると思いますか?」菜穂子はつまらない謎掛けに付
き合うつもりは無いと言いたげに視線を置物へと落とす。
「朝、昼、夜?」
「残念、不正解です。 正解は過去、現在、未来です」自慢げに答える千博をたしなめ
るかのように、戸口に立つ阿部は扉にもたれかかったまま品良く笑う。
「草壁くん……も、不正解ね。 正しくは、男、女、そのどちらでもないものよ」
一方の千博は少し不満げに、置物を手に取った。
「何ですかその、どちらでもないものって。 世の中好きと嫌いだけで、普通はありま
せんよ」
「そんな事ないよ、この世界は3って数字が支配してるんだから。 例え無理やりにで
も、当てはまるものを作らないと」その笑顔は言葉に宿る怪しさを同時に秘めていた。
 身の危険までは感じなかったが、混乱して取材のイニチアブを千博に奪われないよう
に、努めて冷静を保つことにした。

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