▼女装小説
少女A’
作: カゴメ
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「……私ね、今から3分前の世界から来たの」
夕闇に彩られ始める特別教室内が無人であることが、千博にとって幸いしている。 顔の
造作だけではなく、身体に馴染み始めた女子の制服(使用頻度には当然差があるらしく、
千博の所有しているそれよりはくたびれたように見える)の着こなし、椅子に腰掛けて上
目遣いにこちらへ向ける視線、ときおり髪をかき上げる仕草、その全てが千博自身が思い
描き、モチーフとして活用し続けてきた「怜霧」の姿にほかならない。 違うところがあ
るとすれば、独自の言葉というものを持たない「怜霧」に対し目の前の少女は相応によく
形の良い唇を動かしている。 その内容は妄言と切り捨てたい、返答に窮するものばかり
ではあるが。
「何だよ、3分前の世界って」
「今あなたがいる世界は、あなたが生まれてから今日までの、数限りない選択の上に成り
立っているじゃない? その選ばれなかった選択肢のうちの一つ、とでも説明すればいい
かしら」
「選ばれない、ってことは存在しない、ってことじゃないの」少女はまさか、と大げさに
吐き捨てる。
「あなたが認識できないだけ。 例えばあなたがこの学校に来る時に、信号が多くて時間
のかかる近道と、遠回りだけど裏どおりの道があるとするわね。 そのときあなたがどち
らかの道を選んだとしたら、もう片方の道を選んだときのことは、あなたにはわからない
でしょう? でも選ばれない選択肢だとしても、そこにはあなたのいない世界がちゃんと
存在するわ。 そして私は、その選ばれなかった世界における仮のあなた。 逆に私にと
ってあなたは選ばれなかった――」
「待ってくれよ、一気に説明されると余計わからなくなる」
「ん、だからさあ。 あなたのお父さんがあなたのお母さんじゃなくて他の女と結婚して
たら、あの池のそばで写真撮ってたのは私だったのかもしれない、って話よ」
酷く、漠然とした話だ。 それが「怜霧」と彼女が似通っていることの説明となるにして
も、偶然を装った必然など本当に存在するのだろうか。
「それはあくまで可能性の話だろ? 大体君は、違う世界からこの世界に来たって言って
るけど、そんなことどうやって?」
「……時間の流れが3分違うと、テクノロジーも違うのよ」少し口ごもる。
「3分間しか移動できないなんて、ケチなタイムマシーンだね。 それにもう一つ、どうし
て僕の名前を知ってる? どうして僕が、あの場所にいたってわかる? そもそも、君の
目的は」下校時刻を告げる鐘が、唐突に鳴り響いた。 放送部のちょっとした有名人、安
田の声が「アニーローリー」をBGMに聞こえる。 と、同時に特別教室のドアが乱暴に
開け放たれ、振り返った二人は同時に、腕組みをした菜穂子の姿を目撃する。
「草壁君、あのさ……!?」予想し得ない光景を前に、常に超然とした姿勢を崩さない(
それゆえに、下級生の『女子』のファンも多い)菜穂子が足をすくませる。 呆然とした
表情の千博の向かいに座る制服の少女は、紛れもなく自分が写真部の三村から強奪同然に
借り受けた写真のモデルだ。 千博からは彼女のことは仮に「怜霧」と呼んで欲しい、と
メールを送る際、その名を尋ねた時に頼まれ、その返信の内容から実在を疑い始めた文字
通り霧のように希薄な存在感の少女だ。
「……あなた、何でここにいるの」眼鏡の向こうの瞳は不躾な問いを気にも留めず、ふわ
りと風のように椅子から立ち上がる姿を捉えている。
「初めまして、春希先輩ですね。 私のことは……いえ、怜霧と呼んでください」
「せ、先日はどうも……新聞部部長、春希です。 実は校内新聞にあなたのことを――」
「ああ、取材ですね。 構いませんよ、この前のお詫びもしたいですから。 あのメール、
草壁君が私に気をきかせてくれた、っていうか――私が学校で目立ちたくない、って言っ
たら、代わりに……優しいから、彼」わざと甘えた声でそう言って怜霧は、千博へ目配せ
をする。 適当に口裏を合わせろ、という意味らしい。
「彼……ああ、草壁君とはそういう」
「今も、新聞部の取材のことで話をしていたんですよ。 ところで先輩、どうしてここが
?」千博は存在を主張すべく、強引に会話に割り込んだ。
「うん、今日もいろいろ聞きたいことがあってね。 うちの部員からそこの廊下で君を見
かけたって聞いたから、慌てて」
「取材ですか……? ねえ千博君、私、受けてもいいと思ってるんだけど」
「なに?」予想を超えるでもなく下回るでもなく、あらぬ方向へと揺さぶる返答に千博は
面くらい、春希は眼鏡に光を宿す。 「受けるって言ったって……」千博の戸惑いの続き
を怜霧が視線だけで遮る。 あくまで自分に合わせろ、と再度通告する。
「あ、ああ……そうだね、君さえ嫌じゃなければ、僕は」
「それじゃ、決まりね。 じゃあ、改めて……怜霧さん、新聞部はあなたに取材を申し込
みます」
「はい、ただ今日はもう遅いから……今度改めてお約束しませんか?」
その後、簡単に予定を決め合ったらしく菜穂子は意気揚々と特別教室を後にした。

「……おい、何勝手に新聞部の取材なんか」勿論千博も、内心は穏やかではない。
「別にあなたの女装した姿だ、なんてバラすわけじゃないんだからいいじゃない。 だい
たいそれを言うならあなただって勝手に私の写真をコンクールに出したんだからお互い様
でしょう。 肖像権の侵害よ」
「それは先輩が勝手に……ってそういう問題じゃないだろ?」屁理屈の応酬に疲れた千博
には、尚も気になることがあった。
「さっき聞けなかったけど……なんで君は、僕のこと、知ってるんだ? どうして僕のと
ころに来ようと思ったンだよ、その3分前の世界から」
「あなたのことは、何でも知ってるよ……だって私はあなただもん」そう言われて、千博
はつい先刻の言葉を思い出す。
 ――『私は、その選ばれなかった世界における仮のあなた』――
「あなたという存在は、姿を、ときには形を変えて存在してるのよ。 10分前の、1時間後
のあなたは――ううん、世界から『あなた』だと認識されているものは、男でも女でもな
い、動物や石ころかもしれない。 さっきも言ったように無数の人々の無数の選択で、世
界は常に拡散してる。 そのたびにあなたや私が、どこかに存在する。 だけど皆、世界
における役割は同じはずなのに、お互いの存在を認識することは無い」
どこか遠い目をして、言葉を選びながら話す怜霧の瞳は翳りを帯びていて、千博は思わず
デジカメを構えそうになった。
「でも、私にはできたの。 私が生きてる3分後の世界で、私と同じ姿をして写真を撮って
るあなたを認識することが。 あなたのこと、いつも見てた。 あなたが三村先輩から『ヒ
ロ』って呼ばれてる理由も知ってる……『千博』って名前の『千』が生意気だからって、外
された……」
あなたのことをいつも見ていた、などと言われて嬉しくない男などいないだろうがこの場
合、素直に喜んで良い状況でもない。 「どういう方法かはわからないけど、興味本位で
タイムマシーン、なんてことないよね?」
「ヒロ」怜霧は強い口調で、呼び名を変えた。 「ねえ、私と入れ替わらない?」
「いれ、かわる?」
「うん。 私はこの世界で、あなたとして生きていく。 あなたは私のいた世界で、私…
…つまり、本当に怜霧になって生きる。 面白そうだと思わない?」
「そんなことできる訳ないだろ? 大体僕にだってやりたいこととか、家族とか友達とか
……どうやって生活すればいいのさ」
「それなら心配ないよ。 言ったでしょ、世界が違っても役割は同じだって。 親や友達
だって、ちゃんといる。 ……これまでどおりに暮らしてくれればいいよ、新しい人生を。
 少し興味あったでしょ? 服装やメイクだけじゃなくて、本当の女の子になるって」
勿論無いといえば、嘘になる。 見たことのない自分、新しい生活。 平凡に慣れきった
者にはむしろ存在し得ない欲求である。 特にセルフポートレートに写真部員としての活
動の方向性を見出した千博なら尚更である。
「だいたい春希先輩の取材、どうかわすつもり? 彼女、すっかりやる気になってるわよ」
「それは君がなんとかしてくれるんだろ?」
「そうよ、その為にもお互い、新しい人生に踏み出しましょうよ」
「ちょっと待って」辺りには夜の帳が降り始め、お互いの顔さえはっきりしない。 陰影
にこそ美が存在するというどこかの作家の話を国語の時間に習ったことを思い出した千博
は、しかし目が疲れるので教室の電気を点灯させた。
「いい加減、僕の質問にも答えてよ。 君は、何のために僕と入れ替わりたいのさ。 ま
さか興味本位でなんていわないよね?」
「まあ、興味本位といえば興味本位なんだけどさ。 あなたが違う姿の自分を写真に撮っ
たことで賞を取ったように、私も違う自分になることで取り戻したいものがあるんだよ」
「あれは、いつでも元の姿に戻れるって安全性が」
「安全性?」怜霧は声をあげて笑う。 「どこが安全なの? 現に今、新聞部の先輩に追
い掛け回されて、全校生徒に女装してましたってバラされるところだったじゃない」
「新聞部、か」確かにかの厄介なイレギュラーの所為で、怜霧の姿を模しての撮影はほぼ
不可能に等しい。 人の噂も75日とは言うが、それまで新たなモチーフとして、何を見つ
けることができるだろう? 訪れる静謐のなかで逡巡をくりかえす千博が何気なく見つめ
た掌が、少し霞んでいるように見える。目の焦点があっていないのかと改めて意識を集中
すると、やはり陽炎のように揺らめいているのがわかる。
「ひぃっ、何だこれ……?」思わず声をあげる。 怜霧にも千博の言葉の意味が理解でき
るようで、「ああ、あなたさえ早く決めてくれれば、大丈夫だよ」
「どういう意味?」
「世界はね、同じ人間が同時に存在することを認めないんだよ、きっと。 ドッペルゲン
ガーの話って知ってる?」
「同じ姿の人間に出会ったものは、必ず死ぬっていうあれ?」
「今の私たちが、それじゃない? 死ぬっていうより、世界が正常な姿であろうとするた
めに、不幸な時間の迷子のどちらかが消されるんだよ。 このままだと、あなたがそうな
るみたいだけど」
「ちょ、ちょっと待てよ! 何とかしてくれよ、そこまで分かってるんだったら」
「だから、私と入れ替われば大丈夫だって」
「君が元の世界に戻れよ!」床を転げるように怜霧の元へ駆け寄る。
「まあ、私にとっても賭けだったからね。 もしかしたら、私がそうなってたのかもしれ
ないし」余裕すらその顔に浮かべた怜霧は、戻るつもりなどさらさらない、といった風情
だ。 勿論彼女の言うことが本当なら、彼女自身の行動もリスクを孕んでいるのだから、
当然なのかもしれない。
が、今はそんな悠然と分析している場合ではない。
「じゃ、じゃあどうすれば入れ替われるんだよ?」
「ん、それじゃあ……」怜霧は机に放り出されているデジカメを拾い上げ、千博の眼前に
突きつけた。
「撮ってみてよ、自分のこと」言われるままに、陽炎のようにぼやける右手は、それでも
カメラを受け取ることが出来た。 腕を伸ばし、レンズの奥の光点の中にほんの一瞬だけ、
『もうひとりの』怜霧の姿が見えた気がした。
(こんな形で、自分を撮ることになるなんて)
撮る瞬間、手が微妙に震えた。 眩しいフラッシュの閃光が、千博の薄れかかった身体を
包みこむように輝く。 暖かな空気の感触が、肌に纏わりつく。 意識は急速に朦朧とし
て、別の何かに書き換えられていくのがはっきりと認知できる。 自由の利かない両手両
足をなんとかばたつかせようとするが、まるで力が入らない。
草壁千博の姿が完全に消失するまで、丁度3分の時を要したようだ。

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