▼女装小説
薫風学園 高等部
作: 安藤 三智子
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「美寿羽 楓様には、お仕事で一方的にお世話になっております。この素晴らしい
学園の生徒たちと巡り合えたのも、こうして里中様とお会いできたのも、楓様のお
かげですわ。
それ以外に何か関係があるのかと聞かれましても、何もないのが実情でございます」
あたりさわりのない答えが、物足りないとでも言いたげな里中りさの、覗き込むよ
うな視線に、取り調べでも受けているような、居心地の悪さを感じ、こちらが無理
に笑顔を作ると、今日は勘弁してあげるとでも言わんばかりの笑顔を返し、質問か
ら解放してくれた。
そう。俺が男であるという隠し事を共有している事実以外は、すべてこの通りだ。
何もおどおどすることはない。
「わたくしったら、いつもの癖で、本当に申し訳ない事をしてしまいましたわ。笑
いや笑顔についてとても興味がございますの。遼華様の先ほど楓様に向けられた笑
顔が、わたくしの研究している上での女性の笑顔には珍しいものでしたので……
職業病ですわね。お気持ちを害されたのなら、心からお詫びいたしますわ。わたく
しの事を、嫌いにならないでくださいね。あなたとは、もっとお近づきになりたい
と思っているのですもの」
そう言って、胸元の20キャラットはあるだろうルビーのペンダントトップを弄び
ながら、少しうつむいてこちらの言葉を待っていた。
「それは、うれしゅうございますわ」
話の始めは、彼女の一方的な質問ではあったが、別に喧嘩することでも、気分を害
するほどの事でもないやり取りである。それに、あっちが仲良くしたいと言うのを
断る理由もない。とはいったものの、俺は彼女について何一つ情報がない。このま
までは、ここでボロを出すのも時間の問題だと思い、
「本当に申し訳ございませんが、パーティー後の事が何よりも気がかりですの。ま
た後日、ゆっくりとお会いしとうございますわ」
と、逃げ口上と取られてもいいようなセリフを付け足した。
「お忙しいとわかっていながら、お引き留めしたのはわたくしですわ。気になさら
ないで。後日お誘いした折には、きっと、お時間を作ってくださいませ。では、ご
きげんよう」
そう言うと、美寿羽オーナーと、理事長が歓談しているところへ、足早に消えてい
った。
意外とあっさり解放してくれた事に、気にするまでもないのだろうかと、自意識過
剰すぎる自分に、疲れを感じた。

本当にその後が大変な1日を終え、部屋に戻ってベットに横になると、携帯のメー
ル受信表示に気がついた。
橘様へ
お忙しい大変な1日でございましたわね。
お察しいたします。
明日からの5日間の休日は、存分に羽を伸ばします事をお勧めいたします。
スケジュールが白紙の状態でございましたら、ヘリの手配はわたくしがいたします
ので、お食事でもいかがでしょう?
良いお返事をお待ちいたしております。


椿祭の準備で、休日も放課後も返上していた俺へ、理事長が特別に休暇をくれたの
だ。
何か月ぶりかの東京……忙しさにいろんなことから遠ざかっていたように思う。東
京に置き去りの橘 遼平に戻ってみるのもいいのかもしれない。
ここから離れることも、今の俺には大切だという美寿羽オーナー流のアドバイスに、
甘えてみることにしよう。
早速返信のメールにその事を単刀直入に記すと、送信ボタンを押した。
そのメールへの返信には、

追伸……
この携帯電話は、決して落としてはなりませんわね。
あんなにそっけないお返事は、男の方しかなさいませんわよ。

との、注意書きが添えられていた。
今まで幸いにも携帯を落としたことも、置き忘れたことも、覗き見られるような彼
女との関係もなかった俺には、肝に命じておかなければならない事だった。

翌日の早朝、美寿羽オーナーからのモーニングコールで目覚めた。
ぼんやりとした頭に、冷えたレモンウォーターを注いだような、すっきりとした彼
女の声が心地よかった。
「三日間、東京にお戻りになられるのでしたら、少しでも早くヘリを向かわせた方
がよろしいかと思いまして、今から1時間後には、そちらへ到着するよう手配いた
しました。
ご用意ができましたら、ヘリポートまでお越しくださいませ」
こちらの状況を知ってか知らずか、男の身支度なんぞそんなものと思ってか、今聞
いたところとは思えない決定事項におもわず
「って、オーナー、まだ何も用意していないんですよ……。てっきり夕方のお誘い
かと思っていたものですから」
と、きりかえすのがやっとだった。
「えぇ。お会いするのは、今晩7時を予定いたしておりますわ。橘様のお好きなお
時間に出発してくださればよろしくってよ」
こちらの焦りとは裏腹なのんびりとした口調に、
「操縦士の方が待っているんでしょう?あと、他に乗る方もいるんじゃあ?」
と、聞き返す。
「あなたの為に用意した、おひとりでお使いになるヘリですもの。あなたがヘリポ
ートに来た時が出発時間ですわ。操縦士も薫風学園専属の者ですから、あなたが心
配する常識の中で働いている方ではございませんわ。ヘリポートまでのお車の運転
だけは、ご自分でお願いしますわね。東京にお戻りになる前に、少しは運転の勘も
戻しておく方がよろしいでしょう?お車は、昨日のうちにお部屋の前に用意してご
ざいます。では、あとはご自分のお考えのスケジュールでお過ごしください。ごき
げんよう。」
と、まだこの学園生活に順応していない事を諭されたような言葉に、
「はぁ……。では、のちほど……」
と、答えるのが精いっぱいだったのに加え、笑いを浮かべながら話しているオーナ
ーを電話越しに感じながら、携帯を閉じた。

自分が時間を支配できるほどの環境に居た事がない俺には、自分が、人を待たせる
基準になるという事が、中々できない。今も、一刻も早く身支度を整え、メイクを
施し、車に乗ることしか頭にない。今日はラフな休日のセレブというコンセプトで
簡単にまとめてみたが、なんだかそっけない感じがするのは、ここでの生活に馴染
んでいる証だと思ってもいいのだろうか。
美寿羽オーナーから借りっぱなしの腕時計をつけると、さすがに締まりが出た。
その時計を気にしながら、用意された車に乗った時、思わず笑みがこぼれた。
ひとつだけ彼女にミスがあったというべきか、用意された車は、イタリアの有名な
車で、俺がいつも運転する右側の席には、ハンドルがなかった。
左ハンドルの車を運転したことがないし、所有している車も国産車だ。この運転で
勘が戻ることはないんではないか……と、不安はあったものの、気持ちよくヘリポ
ートまでの道を走ったのだから、ミスという言葉は取り消しておこう。

ヘリポートに着くと、待機していた操縦士が、
「美寿羽様のおっしゃっていた通り、お早いおつきですね。」
と、満面の笑みで迎えてくれた。
その言葉に、お待たせして申し訳ありません。と言うつもりだった自分の第一声を
飲み込んだ。約束からは2時間近くが経っている。普通なら苛立ちを感じる時間な
のに、お早いと言われて今の自分の立場を演じることを思い出した。
「えぇ。友人を東京に待たせておりますの。我儘を言って申し訳ないのだけれど、
早急にお願いいたしますわ」
「かしこまりました。では、美寿羽様から指示のございました所でよろしゅうござ
いますね?」
「ありがとう。そうしていただける」
と、落ち着いて答えながらヘリに乗り込んだものの、いったいどこに着くのかは、
皆目わからなかった。まぁ、オーナーが指示してくれたところなら間違いないだろ
うと安心して、空の散歩を楽しんだ。なんでも、学園の場所が特定できないように、
来た時とは違うルートで戻るのだそうだ。俺には来る手段はないのだから、いらぬ
用心だとも思えたが、決まりだから口を挟むこともない。

到着したのは、俺が東京に別れを告げたあの総合病院の屋上だった。
迎えてくれたのは、病院の秘書と名乗る女性。
「お待ち申しあげておりました。誠に申し訳ございませんが、医院長は、なにぶん
忙しい方ですので、わたくしがお迎えにあがりました」
そう言って微笑んだ彼女の後を歩き、見覚えのある部屋の前に案内された。
「こちらの特別室に、何もかもご用意してございます。美寿羽様からのメッセージ
も、お部屋に届いております。足りないものがございましたら、何なりと、わたく
しに、お申し付けください」
そう言って特別室の扉を開き、中に入ることを促された。
「ありがとう存じます」
そう言うのが精いっぱいの俺に、深々とお辞儀をしてからこちらに向き直ると、静
かに扉を閉じた。

一人になったことを改めて確認した後、美寿羽オーナーのメッセージを探した。
テーブルの上になにやらメモのようなものを見つけた。

橘様
クローゼットの中に出発の時と同じように、お召し物が用意されていることと思い
ます。
この部屋を出る時には、橘遼平様で、よろしいのですよ。
では、本日午後7時に、「クレセント ムーン」にて、お待ちいたしております


この部屋が俺の鍵を握るということになる。
屋上に上がれば薫風学園の橘遼華へ、地上に出れば東京の橘遼平へ……
ぼんやりと考えている自分を、携帯の着信音が現実へ引き戻した。

「遼平、今日帰国したんだろ?元気だったのかよ?しばらく海外で連絡付かないっ
てメールがあってから、ほんとに音信不通になったんだから、みんなびっくりして
たんだぜ。
またすぐに日本離れるんだろう?みんな時間合わせるからさ、飲もうぜ!おい、聞
いてんのかよ?」
もしもしや、掛けた相手に間違いがないかの確認もなく、単刀直入に自分の言いた
い事を言いきるこの男、挙句の果てに、聞いてるのかと上から目線で物を言うこの
男、俺の仕事仲間も友人も、こんな無礼なやつばかりだ。しかし、その中に俺も溶
け込んでいるんだから、同じ穴のムジナだろう。
「あぁ、聞いてるよ!明日の夜なら時間開いてんだけど、みんな来れるか?」
「わかった。俺からみんなには連絡しとくからさ、店の手配もこっちに任せて、体
調整えて待ってろよ!」
「サンキューな。じゃあ、全部お前に任せるよ。楽しみにしてる。そっちこそ勘弁
してくれなんて言うなよ!」
「OK、OK、じゃあ、また連絡するよ。」
「おう」
こんな簡単なやり取りで、明日のドンチャン騒ぎが出来上がるお手軽さも、今は有
難く思える。
海外?そうそう。そんないい加減なことを言って、みんなをごまかして薫風学園に
向かったっけ。しかし音信不通だったのは、向こうからメールが来なかっただけじ
ゃないのか?俺からはあえて男を忘れるために連絡しなかったんだが、あそこは圏
外なのか?いや、美寿羽オーナーとは普通に連絡できていたし……
今夜忘れずに、美寿羽オーナーに真相を聞いてみるほかにない。
明日の約束も、誰かが先にお膳立てしてくれているような流れだが、何も心配はな
さそうだし、自分からへんに詮索するのはよそう。心の中のもやもやに終止符を打
って、クローゼットに向き直った。
ずらりと並ぶ高級ブランドの服の中で、ひときわ異彩を放つノンブランドの俺の服
をチョイスして、(これも美寿羽オーナーの心配りだろう)病院を後にした。

人混みが懐かしい。足早に歩く人の流れに、時間の流れも速く感じられたが、それ
も何だか心地よく、無い物ねだりの自分が贅沢に思えた。
散歩がてら、おのぼりさんのように、新しくできた建物にきょろきょろと目を奪わ
れながら歩いていると、若者が入り口付近に溢れている建物に誘われた。壁一面に
スプレーアートが施され、遠くからでも目印にできそうなその建物は、お笑い専門
の劇場らしく、俺の知らない今、流行りの若手芸人達の名前が、ずらりと並んでい
るようだった。

「笑いや笑顔に興味があるって言ってたなぁ……」
不意に、里中りさの昨日の言葉が脳裏に蘇った。夕食の約束までには時間があるし、
お笑いは嫌いじゃない。ここで時間を使うのも悪くない。明日の仲間との話題にも
もってこいの場所かもしれない。

チケットを買って、中に入ると、斬新な若者芸人達の笑いに、いつしか引き込まれ
ていた。
何組もの芸人を見ているうちに、袖のカーテンの横に、時折女性の姿が見え隠れし
ていることに気づいた。マネージャーだろうか、なかなかの長身美人のようだと目
を凝らし、
「里中りさ……」
と、驚きについ、声が漏れた。
「りさ様の事、知ってるの?おじさん。」
横の中学生ぐらいの女の子にも声が届いたらしく、こっちを覗きこみながら、問い
かけられた。
「君はよく知ってるの?」
「良くは知らないけれど、この劇場のオーナーらしいわよ。すんごいお金持ちの、
お医者さんだって高校生の人たちが話してのを聞いた事があるの。すごいよねぇ。
美人でお金持ちで頭がいいんだもん。若手芸人に、ものすんごく理解があって、力
になってくれてるんだって。だからこの劇場も、入場料がほかの劇場より安くて、
私たち中学生でも来られるの。だからみんな、りさ様って呼んでるみたい」
根掘り葉掘り聞くまでもなく、自分の知ってることすべてを一気に話してくれた。
「へぇ……オジサンはなんかの雑誌で見た事があったかなぁ……」
「きれいだもんね。ま、おじさんと繋がりがあるような人じゃないよねぇ」

皮肉に聞こえてもいいように、わざとオジサンを強調してみたものの、そこには何
の引っかかりもなく、会話は流れたようだ。
だが、思わぬところで彼女の情報を得られた。

劇場を後にしても、里中りさの事が頭から離れない。
例の如く、美寿羽オーナーに力を借りる他なさそうだ。

約束の時間までに、自分の部屋に戻り、お似合いとはいかないまでも、美寿羽オー
ナーにふさわしい身なりにだけはしていこうと、懐かしい空間に足を踏み入れた。
手早くシャワーを浴びて、部屋を見回して、半年も留守にしたとは感じられない事
に、首をひねったその横で、劇場でマナーモードにした携帯が、テーブルの上で振
動した。

「はい。橘です」
「楓です。ご用意はできておいでですか?お迎えの車を手配しましたの。ご自宅の
前に、もう、そろそろ着くころだと思いますわ」
「すみません。なにからなにまで……すぐ、そちらに向かいます」
「ごゆっくり。休日なのですもの。ご友人との待ち合わせもそんなにお急ぎになる
の?」
「いやぁ、約束時間を覚えてるやつのほうが少ないぐらいです」
「それぐらいがいいんですわ。私もそのお友達の一人に加えてくださると、うれし
いのですけれど……」
そう言って、クスリと笑う彼女に、
「そんな訳にはいきませんよ、あいつらと同じには……」
と、あわてて答えた。
「それは残念ですわ。では、お待ちしています。気をつけておいでください」
「わかりました。それじゃあ」

あいつらと同じにする訳にはいかない……あたりまえだよ。
この仕事を紹介してくれた恩人であり、何かと手助けをしてくれる彼女を、同じに
なんて……
それとも、なんかひどい事を言ったのか……
彼女の最後のセリフから伝わるさみしさが気になり、ジャケットをひっつかんで部
屋を出ながら、電話でのやり取りを頭の中で繰り返した。

マンションの前には一目で彼女が手配してくれたとわかる車が待機していた。
俺が都会で乗りなれたタクシーではなく、運転手がドアを開けて俺が乗り込むのを、
待っていた。ゆっくりと車を発進させながら、運転手が言った。

「行き先は、車を手配された美寿羽様からお伺いいたしております」
「そう。俺は、行き先の名前は知ってるんだけど、場所は知らないから、お任せし
ます」
「かしこまりました」
なんとも乗り心地のいいシートに体を沈めて、
「運転手さんは、これから行く店に行ったことあるの?」
と、切り出した。
「とんでもない、私たちが行くような店ではございませんよ。芸能人や政財界の方
達をよく送迎はいたしますがね」
「そうなんだ……俺のこの服装、その店に行く人たちと比べてどう?おかしくない
かな」
「大丈夫ですよ。芸能人の方々のファッションには、決まりがあってないような気
がします。わたくしどもには奇妙に見えても、それが最先端の流行だとおっしゃい
ますから。それに、これから向かうお店は、そこのところは自由みたいですよ。た
だ、シェフがたいそう有名な方らしくて、一般人では予約が取れないそうですよ」
「近所の居酒屋でいいのになぁ……」
「何をおっしゃるんですもったいない。お客様もあのお店に行くからには、それな
りの職業の人なのでしょう?」
「えっ?まぁ……」
なんだか口ごもっていると、白く高い塀に囲まれた一角で車が止まった。
「ここからは、このお店の方が案内して下さると思います。楽しいひと時をお過ご
しくださいませ」
「ありがとう」
そう言って外に目を向けると、ドアの向こうに男性の影が見えた。
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