▼女装小説
薫風学園 高等部
作: 安藤 三智子
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喉の渇きに目が覚めた。ここが自分の部屋だと気付くのに数分を要し、今何時なの
か、朝なのか夜なのかはもちろん日付だってTVをつけて確認しなけりゃわからない
有様に、昨日トコトンやつらと飲んだ事だけは確信した。

ベットから起き上がろうと足を下ろした場所に、床ではない感触……。
ワインボトルを大事そうに抱えて眠る有島が転がっている。ソファーには平山、キ
ッチンではテーブルに突っ伏して久保が、寝息を立てている。

ジーンズの小さな前ポケットの違和感で、携帯の在り処がわかった。取り出すと、
ディスプレイに16:42という数字が見えた。昨日の記憶が曖昧なのは、この部
屋にいる全員だろう。今日一日をこいつらと寝て過ごした色気ない自分に愕然とし
ながら、昨日の行動の究明は、極めて難しい事だと諦めた。

それよりもオーナーにまかせっきりの里中りさの件が気にかかる。
できれば学園に帰る前にそれなりの答えが欲しいのがほんとのところだ。
手の中で見詰めていた携帯に着信のランプが点滅し、オーナーからである事を知ら
せる着信画面がディスプレイに浮かび上がった。

一呼吸を置いて通話ボタンを押すと、
「ご友人とは楽しいひと時をお過ごしになられましたか?」
と、耳慣れた声に少々安心して目を閉じた。
「今もやつらと一緒にいるんですよ」と、
現状を暴露してみた。これにはオーナーも驚いたようで、
「それは申し訳ございません。もう一度ご連絡し直しますわ!」
いつもより焦りが見える口調が可笑しくて笑いが漏れた。
「心配には及びません。そこらに転がって意識のある奴は一人もいませんよ。この
後は黙って目が覚めたやつから帰るだけですから。それよりも里中りささんの事で
お電話いただけたんですよね?」
「えぇ。明日の午後2時ごろに、あの劇場に来てほしいそうなんですけれど、橘様
のご予定はいかがかしら?」
「大丈夫ですよ。気分転換も完了しましたし。しかし劇場でとは……あそこに女装
セレブで行くと、目立ちそうですねぇ」
「いえ、男性の橘様とご一緒にいらしてとのご要望ですの」
「もう、お話になったんですか?」
「いいえ、りさ様からのお電話で、開口一番……。でも、心配なさらないで。何か
わたくしたちに相談したい事がおありのようで、それ以外の特別なお考えはないよ
うです」
「わかりました。では、橘遼平でお伺いします」
「では、直接劇場でよろしいかしら?」
「はい。あっ、遼平にお迎えのリムジンは必要ありませんので」
「まぁ……橘様ったら……」
「りょうへぇぇぇぇ!俺も楓さんの声聴きてぇぇぇ!!」
「酔っ払いが起きたみたいなんで、切りますね。じゃっ!」

ソファーから起き上がろうとする平山に
「まだ飲み足りないのかよ、おめぇはよぉ!!」と、
一撃をくらわして、冷蔵庫から唯一残っているミネラルウォーターのペットボトル
を取り出し飲み干した。

やつらがそれぞれの現実に帰って行った後、それほど広くない空間の闇が寂しかっ
た。
この何カ月かの学園生活は、初めての事ばかりで毎日が過ぎてゆき、一人を感じた
ことがなかった。
女装に対する不安やためらいも感じなかった自分に、今、向き合ってみろと言われ
ているようだ。
女装をする事も、女として生活する事も、自分であることには変わりなく、新しい
気持ちや感覚、男としてだけでは味わえない思いやりや優しさに出会えたような気
がする。
一度の人生を男と女の両面から感じとれる素晴らしいもののような気さえする。
もっと簡単に人が女装をしたり男装をしたりできたなら、新しい自分を見つけたり、
感性を育てる事が可能だとも思えた。
男の良い所も悪い所も、女の良い所も悪い所も、もっと理解できるし、自分を表現
することが苦手な日本人が変われるきっかけにもなるように感じた。
薫風学園が男子禁制の良さも悪さも、見直す分岐点にあるのかもしれない。
こんなに短期間に、俺がこれほどまでに変わったのだから……
明日の出会いも、きっと自分の人生の糧にしてやろう。
目標を明確にできたところで
「寝ます!!」と、
一人の部屋で元気に宣言して、一人を確認し、眠りについた。
一人を感じる時間があるからこそ、仲間がいる幸せが実感できるのだろう。


昨日たっぷり眠ったせいか、携帯のアラームを聞くことなく目が覚めた。
朝5時の東京は、いつもより少しだけ空気が澄んでいるようで気分がよかった。
明日からはまた学園に戻る。バカンスを楽しんで帰ってきた橘遼華様を演じるため
に、長いバスタイムでお肌のお手入れでもしてみよう。
軽い朝食にたっぷり時間をかけて食べた後、しばらく空ける事になる部屋を掃除し
た。
ソファーの下に青い100円ライターを見つけ、手に取ると、
“KUBO”と、ご丁寧に名前が書いてあった。
玄関のシューズボックスの上に名前が見えるように置いてから、また、少しの間主
をなくす部屋を後にした。

劇場の前にこの間のように女子高生の姿はなく、
“本日オーディションにつき、公演はございません。”という張り紙が目についた。
中に入っていいものかどうか躊躇していると、
「橘君!こっちよ、入って!!」と、二階の窓から里中りさが手招きした。
学園とは違う、劇場によく似合う言葉に人の良さが伝わる。
白いコットンシャツを腕まくりして、笑う彼女から、りさ様は感じられない。
それならば俺も、橘君で構わないという訳だろう。
「二階まで上がって来てもらえる?」
と、空を指差す彼女のゼスチャーをマネながら、
「お邪魔します!!」と、大きく返事をした。
会場の正面玄関から中に入ると、オーディションに出場する若者が、あちこちでネ
タ合わせをしていた。
ついこないだまで居たTVの収録現場を思い出し、同時に橘遼平の仕事も思い出し
た。
何人かの若者は、オーナーである彼女が声を掛けた俺の事をスタッフと思い込み、
「おはようございます」「よろしくお願いします」
と、元気に挨拶をしてくれた。
その元気な声の中に、緊張や不安やどこから来るのかわからないプレッシャー、そ
れに打ち勝とうとするパワーが感じられ、
「俺も、お前らと同じようなもんだよ、お先にりさ様の面接受けてくるわ!がんば
れよ!」
と、言葉を返した。
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