▼女装小説
L' oiseau bleu
第九回
【姉と弟】
作:カゴメ
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「おい、茶くらい飲んだらどうだ?」

告別式は通夜のあいだ降り続いた雨も明け、澄んだ冬空の下で始まった。弔問に訪れる
様々な人々が、薫をはじめとする遺族に挨拶をしてゆく。その殆どは父親の会社の役員
やら取引先の人間とのことだったが、父親の事業に関しては会社名が新聞の株価一覧に
載っているくらいのことしか知らなかった。父親が話さなかったし、彼女自身も興味が
無かったからである。思い起こせば父親は薫に対し勉強や生活態度といった事柄には厳
しかったが、進学先などは特に口を挟むこともしなかったし父一人子一人の家庭に仕事
を持ち込むことも殆ど無かった。一方で、通常の親子がするようなありふれた会話も乏
しかったのだが。
ひとしきりの式次第を終えて、休憩のために斎場のホールへ出ると詰襟姿の少年がソフ
ァーに所在なさげに腰を下ろしていた。
突然現れた血のつながりが無い弟を、不思議な存在だと思う。向こうからしても、自分
みたいなのが姉だと言われても、信じることはおそらくできないだろう。そもそも父親
はなぜ彼の母親と結婚などしたのだろうか。聞いたところでは大叔父すら知らなかった、
唐突なことらしい。だから籍を入れたことを照明する書類数枚を彼女から見せられた叔
父や親族らは一時騒然となったようだ。
だが、こんなことになるくらいなら。どんな理由であれこのような針のむしろに相手を
おいていくくらいなら。
(最初から籍なんか入れなきゃいいだろ)つくづく自分勝手な男だ。そう考えると目の
前の、赤の他人であるはずの少年にすら申し訳なさに似た感情がこみ上げる。
吹きさらしのホールは日陰になっているため冷たい空気が漂っている。彼はコートも羽
織らず手袋もつけていない。その姿に思わず薫は、近くの自動販売機で買った缶コーヒ
ーを差し出していた。
「……え、これは」
「良いよ、飲みな。お互いに運が良いだけなんだから」微笑する薫の言葉を、少年はそ
の意味しているところがわからないながらも、ありがとうございます、と小さく礼を言
って両手でその缶を抱きこんだ。
何から聞けばいいものか。立ち尽くしたままコーヒーを口にする少年を見下ろす薫は、
制服から伸びた少年の左腕の腕時計を見つけた。それが、学生の小遣いで買えるような
代物でないことに気がつく。
「その時計は?」
「これですか? もらったんです。去年、その……お父さんと会ったときに」こちらに
向けてくるのでそれを改めて見つめると、確かに父親がかつて愛用していたものに間違
いない。
「おとうさん……?」思えば自分は、父親から誕生日やクリスマスプレゼントなどとい
った、子供が親から与えられるようなものをもらったことがない。母親が居た頃は、そ
んな記憶もあるのだが。とたんに胸のあたりで、硝子が砕けたような痛みを覚えた。確
かに彼からしてみればそうなるのだろう。しかし理屈ではその通りでも、薫の背中を本
人にも出所のわからない嫌悪感がたちのぼるのがわかる。
その時背後から叔父さんが声をかけてくれなければ、目の前の罪なき少年を怒鳴りつけ
ていただろう。手続きがすべて完了したので、今後は事後処理について話を聞きたいと
のことだった。この葬儀の喪主は名目上少年の、そして自分の母親になってはいるが実
務的な取り仕切りは叔父さんを中心に父の会社の人間が行っているのだ。
「どうしたんだい薫ちゃん、あんなところで」
「何でもありませんよ」苛立ちを隠そうともしない口調に驚いたのか、その後も叔父さ
ん夫妻は過剰に薫を気遣ってくれたようだ。

                ※   ※   ※

「親父のやつ、厄介な置き土産していきやがって」鳥肌のたちそうなほどに冷房の効い
た銀行に立ち寄って手持ちの金のほとんどを預金すると、ナカジはハンドバッグの中の
ぼろぼろの封筒を指先で弾いた。この半年以上、彼女とその周囲の人間を散々振り回す
こととなった一枚の紙が入っている。
『残されるすべての資産の分配は、娘・薫に一任する』
弁護士立会いの下開封された父親の遺書には、その一文のみが記載されていた。当然集
まった親族は色めき立ち、中には公然と分配の権限を強硬に主張するものさえあった。
当のナカジからしても、これほど無茶な話は無い。そもそも資産の全容すら把握してい
ない彼女に、そんな大仕事がなせるはずがない。ところが黙っていても激変する周囲の
状況は、何もしないではいられない。
叔父の家に世話になりながら情報収集をするなかで最優先に決めたことは、会社の経営
を既に取締役として名を連ねていた叔父さんに任せることだった。何せ会ったことも無
い相手がほとんどで、年齢もさまざまな親族内でもっとも信用に値するのが彼だったし、
ナカジ自身には会社経営など最初から無理だとわかりきっていたからだ。
そして残った株やら土地やら現金やらの資産に手をつけようとしたとき、問題は発生し
た。集まりではほぼつまはじきにされていた少年の母が、彼の養育に際する費用の分配
を要求してきたのだ。それ自体は予想していたことだが、金額はあきらかに法外なもの
であり親戚一同もさることながらナカジも驚いた。
「どういうことだ? こんな金払ったら、税金すら払えないぞ」
「あの女! やっぱりこんな目的だったのよ」
「冗談じゃない、こんな要求のめるか」
「こうなったら裁判でも何でも徹底的にやろう、弁護士つけて」
興奮気味に彼女を罵る親族のなかで、ひとり凍りつくような感情がナカジを支配してゆ
く。所詮は同じ穴の狢なのだ、少年の母も目の前の彼らも。
欲望はたやすく、人を変える。おそらく親父はこんな連中ばかりを見てきたからこそ、
自分に遺産の分配とやらを押し付けてきたに違いない。
ナカジは遺言状開封に立ち会った弁護士に聞かされた、最低限度の相場と思われる相続
分の金だけを手に突如それまで厄介になっていた叔父さんの家を飛び出した。母親が何
故あんな無茶な要求をしてきたのか、聞きだすことも出来ないままに。
季節が春を飛び越して、夏にさしかかるある梅雨の日のことだった。

「ナカジさんがいい人……ねえ」ミチルはどこか納得のいかない口調でつぶやいた。そ
れを隣で聞く環は、食べ損ねた昼食を菓子パンひとつで済ませている。広がる曇り空は
言葉まで重くさせる。
「家族って、別に一緒にいなきゃいけないってことじゃないだろ」ミチルはそう言われ
て、環の母親もまた『大陸』に離れて暮らしていることを思い出した。「ましてナカジ
さんはいい大人だ、ひとりで好きに生きたって文句言われるようなことじゃない」
「それは、そうなんだけど。私はあの、弟くんに対する態度が気になるの。いくら血が
繋がってないからって、あんな露骨に嫌うこと無いじゃない。悪い子じゃなさそうだし」
「まあ、人の家の事情にはあまり首突っ込まないことね」背後から梓の声がすると同時
に、雨粒が一滴ミチルの髪を濡らした。どこかで遠雷の音が響く。
「ほらほら、雨来るよ? 早く帰ろう」やや急ぎ足でアパートへ向かう三人の脇を、少
年が反対方向にすり抜けてゆく。
「あれ、君? 帰るの?」梓がその背中に声をかけると、丁寧に頭を下げる。
「ええ、ひとまず。姉さんも元気みたいでしたから」見ると、傘は持っていないようだ。
雨のしずくはアスファルトに一滴、また一滴と広がってゆく。
「これから? 雨宿りくらい、してもいいよ」
「いえ、大丈夫です。傘は途中で買います」
するとミチルが駆け出して、少年の手を取る。
「いいから来なさいよ、ナカジさんとちゃんと話してないんでしょ? たとえ帰るにし
たって、このままじゃ何にもならないよ」
「止せよ、そんなお節介」そう環が止めるのも聞かずうつむく少年の腕を二度ほど引っ
張る。
「逃げるの? 逃げたら、次は無いかもしれないんだよ? またお姉さんに会えるって
保証はどこにもないんだよ? 今できることをしないで、自分をごまかしたら駄目だよ!」
本降りになる。梓は持ってきた傘を広げ、環にも一本手渡した。黒く、大き目の傘だ。
それを広げて、ミチルのそばへと近づける。
「私ね、記憶喪失なの。自分が本当は誰なのかもよくわからないし、家族だっているの
か、いたとしたらどこにいるのか、それも思い出せないの。今はそのふたりに色々助け
てもらってるけど。自分のことを知らない人たちばかりのところで、生きていくことな
んて出来ないんだよ。だからあんなふうに、あなたとの繋がりを最初からなかったみた
いにするのって、ひどいことなんだよ? 一人じゃ不安なら、私も一緒に話してあげる。
だってあなたが私のことを知ってくれたおかげで、私はまた生きられるんだから。恩返
し」
髪の先を雨に濡らしながら、ミチルは静かな口調で語りかける。環もまた、何かを言う
ことさえできずに立ち尽くしていると、そこにTシャツの肩口が灰色に染めてナカジが姿
を現した。ウルフヘアはほぼ崩れていて額や頬にはりついていた。
「ったく、いきなり雨なんか降るからこの始末。で、何の話があるって?」聞いてたん
ならさっさと出てくれば、と梓が苦笑する。
「ナカジさん、この子――」
「もう、姉さんのこと連れ戻そうとは思いません」ミチルの言葉を遮って、少年は迷い
のない笑顔でそう言った。
「姉さんに、母さんや僕のことをもっと知って欲しいんです。だから良かったらメール
とかさせて下さい。それで色々な話をしますから」
いきなり何を言い出すのかと思えば。そんな表情のナカジは、携帯の番号を調査されて
いたことを思い出す。
「アドレスも親父経由で調査済みか? 押し付けがましいとか思わないの」
「でしたら読まずに捨てていただいても構いません。母さんも言ってました、いきなり
親だとか、きょうだいだとかは言えないって。いつかきっと、姉さんがわかってくれる
ときが来る、って。母さんのことも、何より父さんのことも」
「姉さん、姉さんってうるさいなあ。弟」苛立たしげなナカジの言葉にも、少年はただ
微笑むのみだった。
「でも、姉さんって呼ぶこと自体を否定はしないんですね」
傘を打ち付ける雨音だけが響く。ナカジは呆れた表情で舌打ちをする。
「はっ、好きにしろよ」そう告げると、アパートへ向かって一直線に駆け出して行った。
残された三人は、少年の突然の言葉に呆然とするほかなかった。
「結構やり手なの? 君」なかでもミチルは笑顔と驚きの入り混じった複雑な表情をし
ている。
「そ、そんなつもりじゃないんですけど……でも多分、あなたのおかげだと思います」
その弱弱しい言葉は、先ほどまでの少年となんら変わらなかった。

停留所まで少年を送り届けると、すぐにバスの排気音がした。
「それじゃ、お土産も無くて悪いけど。今度また遊びにきたら? 姉さんのところに」
梓は、気まずそうなナカジの顔を思い出して噴出しそうになる。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、そのうちに」
グレーの路面を水を跳ね上げながら『大陸』へ向けてバスが遠ざかってゆく。
「ねえさん、か」環はぼんやりと呟いていた。
「久遠とは、随分タイプ違うよね」梓はその名前を思わず口にして、振り返る環の強烈
な視線を浴びてから『しまった』と言いたげなばつの悪い表情をする。軽はずみにミチ
ルの前でその名を出したことを咎められたのだ。
「え? 環クンもお姉さんいるの? やっぱり、『大陸』に――」
「いないよ」環はその言葉をぶっきらぼうに遮った。それ以上何も聞かないでくれ、と
梓が耳元でささやく。何かの勘違いなのだろうか? ミチルは環のワンピースを見つめ
た。薄い若草のような緑色の、薄手のものだ。それ以上何かを尋ねることはためらわれ
ながらも、久遠という名前だけは頭から離れなかった。
「あ!」突如、梓が叫び声を上げる。「夕食の買出し行くの、忘れてた……」
「それなら私、行って来るよ。あずたちは先に帰ってて?」ミチルはその手から買い物
用のメモと財布を受け取ると、傘を手に商店街のほうへと駆け出した。
その背中が遠ざかってゆき、雨のなかへ見えなくなると、環は丁度相合傘の状態になっ
た梓の肩を無言で小突いた。
「だから、ごめんって。もうあの子の話はしない、聞かれても答えない。それでいいで
しょ」
「もうひとつ。忘れてくれ、姉さんのことは。覚えてるのは僕と母さんだけでいい」
 
部屋に戻るなり、ナカジはベッド下の引き出しからタオルを一枚取り出す。いつの間に
か片付けられていた室内を、彼女は意図的にさえ散乱させている。そうしないとどこと
なく、落ち着かないのだ。
「他人を頭ごなしに否定するな、か」記憶喪失らしい少女はそんなことを言っていた。
だからと言って彼や、その母親を認め、受け入れる行為は容易ではない。今更家族テー
ブルに放り出されたノートパソコンの電源を入れると自動的にインターネットへの接続
が始まる。メールボックスには早速、携帯電話からのものらしいアドレスで、新着のメ
ールが入っていた。
今日はありがとうございました。そんな一文だけが書かれている。
彼の母親の考えるところは置いておいて、ひとまずアドレスはそのままにしておこうと
考えた。

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