▼女装小説
L' oiseau bleu
第九回
【姉と弟】
作:カゴメ
19P

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どんな人生にも、その終着点は必ず存在する。疑いようのない事実だ。
ところがその当然の認識が、こと自分に関わりのある相手、殊にそれが深ければ深いほ
ど薄れてしまうのは本能的にその訪れを拒んでいるからなのかもしれない。
中島薫にとっての父親との繋がりもまた彼女が三年ほど前に出奔同然にその許(もと)を
去ってからも決して断ち切れるものではなく、様々な土地と職を転々とした末『街』の
古びたアパートの一室で散乱した家具とも半(なか)ば寝具ともなりかけている炬燵(こた
つ)に沈んで新しい年明けを迎えた頃、突如鳴り響いた携帯電話から届いた重篤な状態の
知らせがそのことを強く再認識させた。
「何で、この番号知ってるんですか?」電話の相手はまだ子供の頃に親族の法事で二度
ほど会ったことのある大叔父だったが、薫は事態を正確に把握しようと冷静に振舞い、
真っ先に浮かんだ疑問を投げかけた。携帯電話はつい半年ほど前、今の住処を得てから
持つようになったものだし、ごく親しかった友人を除いては殆どその番号を教えてはい
ない。嘘やいたずらの類なら例え大叔父でも許しておけるものでは無いし、事実だとし
たら尚更するべきことは多く取り乱してなどいられない。結局その疑惑は、父親の会社
の人間がアルバイト先であるガソリンスタンドの同僚から聞き出したとのことで解明さ
れた。黙って暮らしていればいずれはその会社の重要職、あるいはそれ以上のポストを
得ることが確定していた、裏をかえせば決まりきった人生に嫌気がさしてこれといった
あてや目的もなく、子供の頃から『いつか来るこんな時のために』貯めたそれなりの金
と荷物を持って一人暮らしを始めたものの、手にしたと思っていた自由は最初から監視
のもとにあったのだ。
電話を切った薫は窓を開け、深い暗闇に漂う寒気を静かに部屋へと呼び込んだ。酒に火
照った両頬が冷えてくると、ベッドの周りにうず高く積み上げられた洗濯物のなかから
大きめの鞄をひとつ取り出した。階下からは話し声とテレビの音がかすかに聴こえてく
る。
(さっさと寝ろよ、高校生)アパートの管理人が自分より遥か年下だったことに入居当
時は驚いたが、保証人も立てなかった薫をすんなり受け入れたことでそれを一々気にす
ることもしなくなっていた。この後は最低でも数日、部屋を空けることになるだろうが
のちほど電話でもすれば良いと考えた。電話の相手はこちらを気遣っているのか詳細を
語ろうとはしなかったが、恐らく父親と再び会話を交わすことはおろかその最期を看取
ることすら叶わないだろう。そんな予感があった。およそ二年ぶりとなる再会が、この
ような形になることまでは想像もしなかったけれど。

薫がかつて暮らしていたのは、『大陸』の海岸線を北に向かった一帯だ。『街』からは
旅行のつもりでなければ行けないような遠く離れたところである。とるものもとりあえ
ず後にしたアパートの部屋と同じで海が一望できる。違うのはほぼいつも海岸線が霧に
覆われているため先を見渡すことができないということと、地図の上ではその向こうは
外国になっていることである。地方都市としては大きめの駅では辺りの新年のムードに
相応しくない黒いネクタイを締めた若者が薫を待ち受けていた。その姿から、彼女は自
分の予感が当たっていたことを嫌が上にも理解させられた。
手渡された名刺によると、父親の会社の営業部長らしい。予めタクシーを手配していた
こと、何度も電車を乗り継いで到着するまでにこちらへ連絡を密に取ってくれたこと、
葬儀の手配や親類やら関係者への連絡を滞りなく済ませていたこと、後に聞いた話では
それら全てはほぼこの男を中心に行われていたらしい。肩書きに偽りは無いようだ。葬
儀屋を通じて用意させた喪服に身を包み、改めて通夜を控えた斎場へとたどり着く。
(親父のこんな顔、見たこと無い)遺影に映っていた父親はなんとも朗(ほが)らかな表
情で、別人であるかのようにさえ思えた。薫の記憶では、常に何かに苛立って顔をしか
めていた、あるいは学校の勉強だけでは飽きたらず塾やら家庭教師やらと彼女を追い立
てる厳しい眼差し、言葉遣いひとつとっても肉親に対する甘えなど決して許してはくれ
なかった父親である。そのことが今目の前に映し出されている光景すらも、現実感の希
薄なものに思える。直ぐ横には父親の弟、叔父さんがいた。
「ご苦労さま、薫ちゃん」傍にいるはずなのに、その声はとても遠くからやまびこのよ
うに響いてくる。この人が最後まで、父親に付き添ってくれていた一人だ。数年にわた
る薫の状況や今日この場に至るまでの事態の推移、大叔父は風邪をこじらせてしまいこ
の場には来られないなどの話を矢継ぎ早にする彼は、男性としてはおしゃべりが過ぎる
気がする。もちろん会話の内容は必要なことばかりで、口の動く人間はむしろこうした
場では重宝されるのだ。
二人の間に父親の会社の社員だという人々が、代わる代わる現れては忙しそうに去って
ゆく。それはそうだろう、葬儀の段取りに関しては彼らにゆだねているのだから。ふと
祭壇にもっとも近い席に目をやると、見たことのない女性がハンカチでしきりに涙を拭
っていて、その隣には中学生くらいだろうか、詰襟の学生服に身を包んで小さく座って
いる男の子がいる。
「ああ、あれかい? そうか、薫ちゃんは知らなかったねえ」小声で叔父さんは、苦々
しげに耳元へささやいた。「兄貴の再婚相手だよ。去年籍入れたらしいんだけど」
「再婚相手?」物事に動じることの少ない薫も、声に表さないほどには驚いた。
「言い辛いんだけどさ、まあその……なんだ、綾子(あやこ)さんと別れたすぐ後からの
付き合いらしいんだけど……ね」叔父さんのたどたどしい口調が大まかな事情を告げる。
薫の母親は、彼女が小学校の半ば頃に離婚して家を飛び出していた。
「それが今になって籍入れたってのは、そういう事……なんじゃないかねえ」霊前とい
うこともあり、言葉を出し渋っているようだ。
背中越しにときおり覗くその横顔は品の良さそうな美人といった風情で、恐らくその隣
にいるのは彼女の子供だろう。それを考えると年齢もある程度は予想がつく。客観的に、
父親とは不釣合いだ。何かよからぬ意図があると思われるのも無理はないだろう。
続く話では、昨年の今頃には既に父親の状態は悪化の一途を辿っており、入退院を繰り
返していたような状態だったらしい。その後に続く言葉を聞き流して、薫は斎場の外に
出る。外は薄暗い曇り空で、小降りながらも雨が次第に辺りを濡らし始めた。
突きつけられた現実があまりにも多すぎて、悲しめばいいのか怒ればいいのか、ひたす
らに悩めばいいのかすらわからないまま、一切の感情が消えうせたかのように目の前で
行きかう人々を眺めている。もっとも近しい身内の死は、まるで現実感を伴わない他人
事のように思っておきたいものなのかもしれない。そう考えていると、背後から静かに
声をかけるものがあった。「薫さん……ですね」
件(くだん)の再婚相手である。座っていたときの印象にくらべて随分と小柄な彼女は、
丁寧に頭を下げた。
「あの方から、色々とお話はうかがっています」
「どうせ、ろくでもない話ばかりじゃないんですか?」目を合わせることなく、冷やや
かに笑いながら口調には彼女に対する拒絶の意志を込める。叔父さんのいうことが事実
なら、戸籍上に過ぎないとはいえ娘に対するにはひどく他人行儀なことだ。実際、他人
なのだが。
薫は彼女の第一印象を物静かで穏やかな反面、自分の考えをあまり主張しない付き合い
にくいタイプだと判断した。そもそもこの女性と自分の父親との間に、どのような出会
いがあって籍を入れるまでに至っているのだろう。
その時、薫にはふと疑問が生じた。
「さっきの、一緒にいた男の子は」
「ああ、息子です。その……お父様との子ではないのですが」その一言に、薫はどこと
なく安堵を覚えた。その少年は学生服という、社会的な立場だけでなく今日まで重ねて
きた時間を端的に表すことのできるいわば記号を身につけていた。もし彼が父親の血を
受け継いでいるのだとしたら、十年以上も自分は彼らに欺(あざむ)かれていたことにな
る。
そんな間の抜けた事態だけは、勘弁願いたいところだった。

母親に連れられてやってきた少年は、身の丈に少し大きめの詰襟の制服を首もとのホッ
クまですべて閉じていて、紺色のハーフコートを羽織っていた。降りつける小雨の粒が
その肩で小さく光っている。
「こ、こんにちは……」白い息とともに消え入りそうな声で挨拶をする少年を見て、や
はり親子というのは立ち居振る舞いまで似るものだと思う。値踏みをするようにその姿
をひととおり眺めてみる。線の細そうな、学校でもおそらく席などで一人で過ごすこと
の多いような、良く言えば大人しい、悪く言えば暗いとでも言うのだろうか。
好感も悪印象も持ちようのないほどに、存在感の希薄な少年。薫が彼に対して最初に思
い浮かべたのは、そのようなことだった。

                ※   ※   ※

海の向こうに幾重もの厚い雲がかかっている。真昼を過ぎて次第に翳(かげ)りを帯び始
めた空は次第に雨の匂いを宿し始めた。ナカジは備え付けの雨戸を念のため引き出して
おいて、ハンドバッグに財布をしまいこんだ。唐突の来客のせいで、彼女は昼食をとる
暇が無かったのである。蒸し暑さを増す部屋から足早に出ようとドアを開けると、すぐ
外で待っていたらしい少年が身を引きながら現れた。
「お願いします。家に戻っていただけませんか」
「言っただろ、帰れって。あんた達と暮らすつもりは無いよ」にべもなくそう答えると、
心底落胆したような顔をした。一方でナカジは子供は感情がわかり易くて面白い、そん
な皮肉めいた笑みを浮かべる。
「母さんは、親戚の人たちが言うようなこと考えてません。ただ姉さんに一緒にいて欲
しいだけなんです。あと――」
「私には関係無いだろ」その声を聞きつけたらしい梓とミチルが階段傍からこちらへ近
づいてきた。「丁度良かった。私これからご飯にするから、こいつ送ってくれよ」
「あんたの弟でしょ? もうちょっと責任ある態度ってやつは取れないの」
呆れたような表情の梓が答えた。彼女たちも少年をアパートまで連れてきたことで結局
昼食は、コンビニで買った弁当で済ませたのだ。
「ここまで引っ張ってきたのはそっちだろ? 何も連れてきて下さいって頼んだわけで
もあるまいし」そう言って二人の脇をすり抜けるナカジの背中に、少年が声を掛ける。
「待って、姉さん! 話はまだ」
「何だよ、弟。もう何も話すことはないけど」
『弟』と書いて『たにん』とでも読むかのような冷淡なその言葉に、ミチルがいち早く
反応した。
「ちょっと、何ですか? その呼び方」だがナカジはひるんだ様子も見せず少年のほう
を見据えた。
「名前で呼んで欲しかったら、『薫さん』、いや『薫様』って呼ぶんだな。それじゃ」
ひらひらと右手を振って階段を降りてゆく背中を、その場に残された三人は呆然と見送
った。

少年はテーブルを取り囲む三人の女の子―そのうちひとりは自分と同じ男なのだが―の
表情をかわるがわる見つめた。管理人室を兼ねている梓の部屋の居間は四人が座るには
少々手狭だ。意外に家具が多いせいで、座るスペースは圧迫される。
「あの人、どうかしてる。いくら血が繋がってないって言っても、あんな態度ひどいん
じゃない?」ミチルはパーティ開きしたポテトチップスを次から次に口に運びながら苛
立ちを隠そうともせずに一人で喋り続けている。
「いや、ナカジさんの言うことは尤(もっと)もじゃないかな。お父さんが亡くなってか
らの色んな話からやっと開放されたのに」
「へえ、環ちゃんはナカジさん寄りなんだ?」環があまりにも平然と言ってのけるので、
梓は意地悪そうに問いかける。
「そうじゃない。大体君はどう思ってるんだ? あの我がままでいい加減で陰湿で、騒
々しくておまけに料理が下手なあの人と一緒に住みたいと本気で思ってるのか?」
突然話が自分に振られて、少年は狼狽しながらも明瞭な口調で答えた。
「思ってます。姉さんは、いい人です」
「はぁ?」テーブルを取り囲んだ三人の視線がいちどに注ぐ。少年は気恥ずかしさに思
わず目を背けた。

                ※   ※   ※

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