▼女装小説
L' oiseau bleu
第十回
【届かない手】
作:カゴメ
21P

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深い眠りの底から引きずり出されるように目覚めた真夜中、窓の向こうの激しい雨は音
楽と紙一重のノイズだった。ミチルは小さくうなり声を上げながら、よほど寝相が悪か
ったのか身体に不自然に巻きついたタオルケットを直す。雨戸まで閉め切っているため
街路灯のぼやけた光さえ届かない暗闇が次の瞬間、居間のほうから淡い白色の光が飛び
込んできて反射的に閉じた瞳のなかで赤、緑、黄色の澱(よど)みとなった。
「ごめん、起こした?」パソコンデスクの前に座る梓がこちらを振り向いて声をかけて
くるので、ゆっくりと布団から這い上がり膝を抱えて座り込んだ。
「ん、そうでもない。眠れないの?」その肩越しに、モニター上に映る天気図らしきも
のが見える。木々の揺れる音、すきま風のうねりに耳をいちいち傾けなくとも、『街』
の近辺に台風が迫っていることを思い起こさせる。
「雨の音がすごかったから、気になってね。下手するとこの部屋、浸水する」それは大
変、とばかりにミチルも起き上がって寝室の照明を点灯させた。客用にと梓から貸し出
されている布団は彼女の身体には大きめに感じられた。
「ほら、昼前には最接近するって」天気情報のサイトを見ていたらしい梓の指は、モニ
ター上の小さな島のようになっている一点を示していた。
「ここが、私たちのいる『街』なの?」突如ミチルは、今の今まで自分がいる場所、ま
たはその周辺の地理に目をほとんど向けていなかったことを思い出した。
「そう。で、こっち側……ちょうど周りを囲ってるのが『大陸』。まあこっちも大きな
島には違いないんだけどさ。更にこの海の向こうは、もう外国」
正確には『街』は島というわけではない。『大陸』の一部からせり出していて、地続き
になっていたのだ。その海抜の低さゆえに長い年月の間、陸地となっていた部分が早々
に海に沈んでしまった結果橋を使って行き来をすることになった。自治体の方策でいず
れは居住区としては放棄することが決定している今は補修や再開発にかける金も殆ど無
く、建物や街並みは古びていてあちこちに点在する小さな橋は渡ることすらできないも
のもある。
「どう? この地図とか、見覚えない?」梓の言葉に、かすかな記憶の糸口をたどる。
そもそも自分は、これまでに地図などというものを見たことがあったのかというほどに
何も思い出せなかった。
「駄目、何もわからない」重い目元をこすろうとすると、再び眠気がこみ上げる。あく
びが漏れそうになって口を閉じると、妙な息がこぼれた。梓が鼻先をぴくりと震わせて
笑う。「ねえ、ミチルちゃん」何かを言いかける前に、その顔が突然真顔に戻る。
「夢、って結構見るほう?」言われてみて、なんとも矛盾した話だと思った。過去を思
い浮かべることの出来ない自分が、眠りの間だけは時に非現実的な、あるいは細部に違
いはあれど記憶の断片と呼べるものを再現することが出来るのだろうか。ただいずれに
しろ、見ているのかもしれないが目覚めた瞬間に砂上の楼閣(ろうかく)ともいうべき不
確かなものとなって消え失せてしまうのが常だ。
「見てるのかもしれないけど、どんな夢だったかはわからない。覚えてられないの」
「そっか、私と同じだ。私もね、覚えてる夢ってほとんど無い。でもその時夢のなかで
感じたことってあるじゃない? 怖かったり悲しかったり楽しかったり、そういう感情
だけは目が覚めてもずっと続いてるの。身体が覚えてる、っていうのかな。で、その時
々の思いをたどってみたら本当はこんな夢見てたんだな、って思い出せることがあるの。
ヘンだよね」
梓は微笑する。彼女はどんな夢から覚めて、どんな甘い記憶を引きずっているのだろう。
それとも思い出したくもない恐怖から逃れるために、現実に直面している事態に対応し
ようと台風の情報を調べているのだろうか。
「もしかしたらミチルちゃんの記憶も、そういうところにあるのかもしれないね」
求めているものは、手を伸ばしようもない自分のなかにある。
とはいうものの、それを呼び覚ますためだけに眠ってばかりいるわけにもいかないのだ
が。

「うん、外見ればわかるでしょ? こんな雨のなか学校まで行けるわけないじゃん。練
習中止だよ、中止」
朝食のロールパンにバターを塗りながら、梓は吹奏楽部のメンバーらしき相手との会話
を打ち切った。夜が明けてからも勢いの衰えることない雨のため、窓を開けるかわりに
冷房を効かせている。テレビからはアナウンサーが伝える、台風が上陸した地域の荒れ
ようが絶えず流れていた。太い街路樹さえも風に揺さぶられ、都市部らしい道路にあふ
れる水は車の行く手をさえぎり、その脇の歩道をゆくまばらな人々は折れた傘を手に吹
き飛ばされそうになる身体を支えているようだった。
「すごいね、これじゃ本当に外出られないよ」もとより外出予定の無いミチルも、梓の
『浸水するかも』との一言に、事態が決して他人事でないことを確認させられる。
「まあこの辺はここまでひどい被害にはならないけどね。でも、お祭りの準備はやり直
しかな」
「そっか、あちこち飾りつけとかしてたもんね」
穏やかとはいえない雰囲気の朝が流れる。その正体は焦燥感だ。何か身動きがとれるわ
けでもなく、台風の勢いが少しでも弱まることを願うしかない。
「ご飯食べ終わったらでいいから、環ちゃん起こしに行ってくれないかな。入り口に砂
袋だけ積んでおくから」
アパートの玄関部分は段差になっておらず、わずかながらの下り勾配になっている。溜
まった雨水がそこから浸入しないための措置だろうとミチルは考えた。

ドアの脇に据え付けられたチャイムは相変わらず壊れているようで、重い鉄扉を二、三
度ノックする。
「環クンー! 起きてる? あずが手伝って欲しいことあるからって呼んでるよ?」
「朝からうるさいなあ、どうしたんだよ」
いつもどおりのぶっきらぼうな声がしたのは部屋のなかからではなく、廊下にいる自分
のすぐ背後からだった。重そうな足取りの環はどことなく疲れた表情をしている。
「お、おはよう……どうしたの」問いかけようとして、そのあとに現れた姿を見てさら
にミチルは驚きの声をあげる。
「何だよ、幽霊でも見たみたいに。おはよう、記憶喪失娘」前髪をかきあげながらナカ
ジは鷹揚(おうよう)な笑顔で挨拶をする。「いや……長いなあ。記憶喪失、略してキソ
ウ。うーん、意味わからねえ」両頬に赤みを残したまま、鼻につく独特の臭気を漂わせ
ている(それが残り酒の匂いだとミチルが気づくのは、かなり後の話になる)。
「夕べからずっとこの雨だろ? とてもじゃないけど眠れなかったよ。で、朝の四時ご
ろナカジさんに呼び出されて、今の時間まで」ため息をつく環は珍しく、化粧を施して
いないすっぴんの状態で本来の少年らしい端正さを見せていた。服は相変わらず、女物
のスリムタイプのジーンズにサンダル、上半身に薄い黄色のブラウスを合わせてはいた
が。
「今の時間まで……?」
「ああ、ゲームだよ。新しい対戦ゲーム買ったからやりに来い! ってね。全くいい年
して何やって」言い終わらないうちに環の後頭部に衝撃が走る。ナカジの平手が炸裂し
たのだ。前のめりになって倒れこむが、二、三歩ふらふらとミチルの脇をすり抜けた。
「そうそう。これがなかなか面白いんだよね。これからあたし、三時間くらい仮眠とる
けどその後で良かったらやりに来ない? あんた、ゲームくらいやったことあるでしょ
?」部屋着と思われるキャミソールとショートパンツのラフなスタイルに、ミチルはか
すかに嫌悪感のようなものを覚えた。
「あるかもしれませんけど、覚えてないです」
「そりゃそうか、記憶喪失ってくらいだからなあ。記憶喪失……キオ子ちゃん。これも
違うよなあ」おかしなあだ名でもつけられるのだろうか。そう不安に感じたミチルは、
彼女の前できちんとした自己紹介をしていなかったことを思い出す。
「私、ミチルって言います。まあ……本当の名前じゃなくて、勝手につけた仮の名前で
すけど」
「ごめん、やっぱり眠いからいいのが思いつかない! お休みっ」こちらの話も聞かず、
ナカジは身をひるがえして部屋へと駆け戻った。
「酔ってるんだ、気にしないほうがいい。ところで何の用事だっけ?」環にそう声を掛
けられて、はっと我に帰る。
「そうそう、あずがアパートの入り口に砂袋積むの手伝って欲しい……って」そう言い
かけて、心身ともに疲労困憊の状態にあると思われる環のやつれたような顔を見返した。
「えっと、何でもない……とりあえず、部屋で休んでたら」
屋根を直接打ち付ける雨音がひどい分、二階では眠りづらいのかもしれない。

結局梓の手伝いはミチルがすることとなり、軍手とビニール製のレインコート着用で倉
庫となっている小さな部屋から砂の敷き詰められた袋を引きずり出した。入り口の低く
なっている部分が既に泥と水にまみれている。浸水するというほどではないが用心のた
めだ。通行をさまたげないように両端部分にいくつか並べてみたが、どうせ誰も出入り
しないだろうという梓の意見で、結局低くなっている部分全体に袋を積み上げることに
した。
「風、強いね! これじゃ本当に外なんか歩けないよ」門の直ぐそばにある木が強い風
を受けて弓なりにしなっている。そういう二人もまた吹き込む雨にさらされて労働の汗
なのか水なのかわからない、不快な感触が額を濡らしている。
どうにか積み上げた袋で足元の水をせき止めると、一階部分の廊下が二人の泥にまみれ
た靴のせいでひどく汚れていたことに気づく。
「また明日、掃除してくれればいいよ。早く部屋に戻ってシャワー、浴びたい。ミチル
ちゃんもどう?」
笑いながら言う梓に次いで、ミチルは軍手とレインコートを言われるまま倉庫へとしま
う。適当に置いてくれればいいから、と言われたので二つ折りにしたコートは古ぼけた
ダンボールの上に重ねた。コートの下に着ていたのはショートパンツに半袖のカットソ
ーを合わせたシンプルなスタイル。今のミチルは梓から借りた服を着まわしている。体
格のほぼ変わらない彼女の服はミチルにも違和感無くフィットしたが、やはり自分の身
体が自分のものでないような違和感に囚われることは多くなる。その梓は、ミチルの失
われた記憶は夢のなかに封じ込められているのかもしれないと言った。

覚えていない夢。忘れてしまった夢。けれど確かに存在した夢。
それは等しく、私自身を映し出す鏡のようなものだ。
そこにあるだけで、増えてゆく私の姿。自分が何者であるかを知らない硝子細工の虚像。
夜がひとつ過ぎるたびに砕けては、新しく『おもいで』という名の輝きが積み上げられ
てゆく。
夢を留めておくことができるなら、それは壊れそうな私を守ることだ。

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