▼女装小説
L' oiseau bleu
第十回
【届かない手】
作:カゴメ
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雨は降り続く。仮眠を取る、と言って部屋で寝入ってたナカジが起きだして入り口近辺
に積み上げられた砂袋を見て一言「戦場みたいだな」と苦笑交じりに呟いた昼下がりに
なっても、なおその勢いは衰える事は無い。

雨はなおも降り続く。何度も浅い眠りから目覚めそうになる身体を無理矢理ベッドに沈
めようとする環が窓にかけられたカーテンの隙間から偶然眺めた海が荒れに荒れ、逆巻
く波しぶきが堤防を乗り越えつつあるのを見ていよいよ『街』の終焉をほのかに予感し
ても、容赦の無い豪雨と強風がアパート全体を揺らし続ける。

そして階下の管理人室では、梓が困惑と驚きの入り混じった声を上げていた。
「しまったぁ……」ミチルはその珍しく弱々しい声に戸惑った。
「何が……あったの?」
「この前借りた、DVDの返却期限過ぎてた」梓にとって更に不幸だったことは、『街』で
唯一のレンタルショップで借りたその映画を、環が連れてきたミチルに出会ったりナカ
ジの帰還があったりといった忙しさのおかげで、結局一度も観る事が無かったのだ。も
っともそれ自体は、意外にも映画好きの環に勧められた作品が貸し出し中だったので本
来なら借りる予定など無かったものだったのだが、彼女の好きな男性アイドルが出演し
ているからという理由だけで衝動的にレジへと持参してしまったものなのだ。
「返しに行くって言っても、この雨じゃね……。今から見れば?」ミチルの言葉に、し
ばらくは虚無的ともいえる表情でレンタルショップの袋を握り締めていた梓だったが、
突如立ち上がると部屋の外へと駆け出した。
「ちょ、ちょっと。まさか今から」
「うん、今から返しに行ってくる!」雨に濡れた廊下を二階へと駆け上がる彼女は、環
の部屋のドアを派手に鳴らす。
「環ちゃん、いる? ちょっと外出るから、付き合ってくれない」しばらくすると、眠
そうな瞳のままの環の手がドアを押し開いて覗く。
「何だよ、この台風の中。どこに行こうって」
「これ、こないだ借りたDVD。返しに行くんだよ」梓がそう言うと、再び鉄の扉は音を立
てて閉じられた。
「ちょっと、一緒に行ってくれないの?」
「行くわけ無いだろ、何で僕が」
「ふぅん、行ってくれないんだ」わざとらしく大きなため息をついてミチルのほうを振
り返る。「じゃあしょうがない、ミチルちゃん。今日はもう良いから部屋で一緒にコレ、
観ようか。ジュンヤ出てるから結構面白いよ……って言っても誰だかわかってもらえな
いこの辛さ。かっこいいのにね」
もちろんミチルは、梓が口にする男性アイドルのことなど知る由も無い。
「それでね、良い事教えてあげる。環ちゃんってばこの映画に出てくる相手役の子、鈴
宮レンちゃんって言うんだけどね……その子が前にイベントで『街』に来たとき」
そのとき、梓の背後でドアが乱暴に開く。
「ま、待てって。それ以上言うな」
「じゃ、一緒に返しに行こうか。環ちゃんの切ない思い出を。下で待ってるから着替え
てきてね。全速力で」
環にも人に言えないような恥ずかしい思い出があるのだろうか、そうミチルは考えた。
果たして15分と経たないうちに現れた環が着替えだけでなく薄めとはいえメイクも終
えていたことには素直に感嘆したものだった。

倉庫から再び取り出したレインコートに身を包んで強い雨風(あめかぜ)のなかへと歩を
進めた環と梓を見送って、ミチルはかつての部屋、すなわち現在は(というより元々は)
ナカジの部屋に手荷物のひとつだった文庫本を置き忘れていたことに気がついた。
以前の自分がどういう趣味だったかはわからないが、あまり他人にそれを読んでいるこ
とを知られたくない類の本である。
二階へあがろうとすると階段の途中で、丁度そのナカジと遭遇した。
「お、丁度呼びに行こうと思ってたんだよね」
「え? 何か……用ですか?」
「朝言っただろ、ゲーム買ったからやろうって。一人でやってると飽きるんだよ」
ただ話を聞いていただけなのに、それはいつの間にか約束にされている。
(こういう人が商売なんか始めたら成功するんじゃないかな)ミチルは内心、その強引
さは見習うべきかもしれないと考えた。

「梓たち、外出てったのか?」雨戸を閉じていて、部屋中の電灯をつけたままの室内を
見渡す。以前自分と梓で片付けたはずの室内が侵食されるかのように再び散らかり始め
ている。
「ええ、それはそうと部屋のなかに文庫本が一冊、置いてませんでしたか? カバー掛
かってるんですけど」
「さあ、その辺にあると思うから適当に探して。それよりゲーム、ゲーム」
まるで子供のようにはしゃぐ彼女からは、つい数日前に訪れた彼女の弟を名乗る少年と
の顛末は想像できない。彼からは今だ、頻繁にメールが来ているようだ。そのいずれに
も一切返信をしていないようだが。
(まあ、無理無いか)ナカジが弟を完全に拒んでいるわけではないことを知ったミチル
や梓は、この件については干渉を控えようと話合っている。
コントローラーを手渡され、テレビからのBGMにミチルは一瞬振り返った。
ナカジの遊んでいたらしいゲームはいわゆる対戦格闘ゲームで、3D化されたキャラクタ
ーたちが基本的には素手の技で相手にダメージを与え合う、わりとよくあるタイプのゲ
ームだ。
「ありがちったって、このクラスのCGはなかなか出来ないよ」言われたとおり、夕闇に
暮れる森の奥のような場所で二人のキャラクターが柔道のような投げ技とキックボクシ
ングのような動きを披露しあっているその光景の、とくに背景部分は実写さながらと見
間違うほどの描き込みを見せている。やがてミチルの目は、テレビに映る長身のキック
ボクシングの男の動きだけをぼんやりと追いかけ始めた。
「あれ……?」焦点の合わない視線で、それは錯覚にすぎないのではないかと思う。
「ん、どうしたよ。始めるぜ」ナカジがコントローラーのボタンを押すと、使用するキャ
ラクターを選ぶ画面に変わる。
「初心者なら右端の女の子が使いやすいよ」アドバイスをくれるナカジは柔道着に身を
包んだ先ほどの男を選んだ。一方のミチルはそれを全く無視したかのように長身のキッ
クボクシング男を選ぶ。こちらのキャラクターのほうが背が高く、痩せている。
「おい、そいつは技コマンド出しづらいぞ。いいの?」
荘厳なBGMとともに対戦が開始された。コントローラーをがちゃがちゃと鳴らしながら柔
道家は掌打をくりだし、先手を取ろうと攻め立てる。
「よし、このまま一気に攻めるか……! しゃがませれば中段が……」ナカジの言葉の
意味はまったくミチルの理解できるところではないが、キックボクサーのほうはといえ
ばそれをガードを固めてしのぐでもなく、スウェーとバックステップとで巧みにそれら
を回避する。これでは柔道家の間合いに持ち込むことが出来ない。
「な、いきなりかよ?」焦るナカジは蹴り技を交える。これなら下手に回避を試みても
捉えることが出来る。が、次の瞬間目を見張る事態が発生した。放たれた右回し蹴りを、
キックボクサーが両手で受け止めそのままの勢いを利用して相手の身体を地面に叩き付
けたのだ。
「ダウンしたら、8Kで追撃……」ぼそり、と呟いたミチルのキックボクサーは横たわっ
ている柔道家の背中を蹴りつける。ストンピングを何とかしのいで立ち上がる柔道家は
距離が詰まっているのをいいことに相手につかみかかった。
「この距離なら」そのまま足払いをかけ、地面に倒す。ダメージを与えた相手をさらに
捕らえ、寝技に持ち込もうとするがそれはあっさりとかわされた。「やるね」小さくう
なると、立会いに戻った相手の蹴りが飛んできた。「KKで固めて、二択……これなら」
たまらずガードでしのごうとする柔道家が今度は逆に、身動きが取れなくなる。
「あんた、結構やりこんでない?」寸分の狂い無いキャラクター操作、的確な攻撃そし
て防御、どれも一流プレイヤーの動きである。ゲームそのものを遊んだことすら記憶に
無いという素人のものではない。ところがそのキックボクサーを操作するミチルの目は
どこかうつろで、画面を見ているのかどうかさえ怪しい。
意識を超越する無意識。そんな言葉をナカジは思い出していた。

結局ゲームはミチルの、それもほぼ一方的な勝利で決着した。
「なんだ、あんた強いじゃん。初心者じゃないならそう言ってくれっての」
「いえ、本当に見覚えないんですけど」
だったらなんであんな動きが出来るのか、ナカジはそう問いかける。
「わかりません……でも、多分覚えてないだけで、このゲームしたことがあるのかも」
でも、以前の私はこのゲームを遊んだことがある。ミチルは半ば強制的に失われたはず
の手がかりへとたどり着いた。
身体が覚えている記憶、とはこのようなもののことを言うのだろう。
もっとも、ゲームが出来るということは自分自身が何者かであることを証明するには、
現状ほぼ役に立たないのである。

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