▼女装小説
L' oiseau bleu
第八回
【白昼夢】
作:カゴメ
17P

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目の前にはただ草原が広がる。その地平線の向こうには黒々とした森らしきものがある
が、自意識を持っているらしいそれは侵入者を拒むかのように遠く、こちらが歩を進め
れば進めるほど遠ざかってゆく。気がつけば吹き付ける風にざわついている草はなぜか
ぼやけた黄色の光を放っていて、頭上の空は青と灰色の中間色のようにくすんでいる。
白い雲からは細い糸のように水のような液体がこぼれ落ちていたが、地表に到達するま
えに蒸発しているので虹だけが輝く辺りは乾いた空気が漂っている。
締め上げるような暑さが漂っているはずなのに、私の額には汗一つ浮かばなかった。
「あんたが生まれてから何らかの方法でこの時代に来た時点までの記憶っていうのは、
私たち、っていうかこっちの世界ではまだ起こってないことなんだよ。だから記憶とし
てとどめておくことができない。そう考えれば、植物園の銀の鐘か? あれも今はどこ
にもないけど、そのうちどこかにできるのかもしれないものだって話になるだろ?」
そう語るナカジさんの素足は、生い茂る草の上に浮かんでいる。あずと会話をしている
ときの彼女は割と早口だったはずだが、薄いベージュの口紅に彩られた唇の動きに遅れ
て、スロー再生のように言葉が聞こえてくるようだ。
「で、おそらくは未来においても変わらないような普遍的な情報だけは消去されずに残
ってる。言葉とかな」
瞬間、その姿が消えたと思った直後、背中を向かい合わせにして彼女がいた。
「つまりあんたの記憶は、ちゃんと存在する。一年先か、十年先か、それ以上なのか。
あるいはすぐ明日なのかもしれない。思い出すんじゃなくて、これから作っていく未来
に」
私はその言葉を、たった一つしかない思い出の拠り所とすることにためらいを感じずに
はいられなかった。銀色の鐘の音の下で自分が何をしていたのか、誰かとそこにいたの
か、それすら曖昧な記憶の残像はもしかしたら私自身が体験したことではなく、何かを
暗示するものなのかもしれない。そう考えれば、不確かな未来の象徴としてのキーワー
ドになりうるのだ。
いや、象徴とはどういうことだろう。何か不吉なことの前触れなのか、あるいは幸運の
導き手なのか。それ以前に、記憶とは何なのだろう?

生命活動の過程において収集した様々な情報。体験、知識、身体能力の把握、他者との
意志の疎通。処世術。固有にして共有の財産。コンピュータに刻み込まれたデータ。失
われやすく、その保持と継承に人々は筆記に口伝と様々な労を費やす。他者における、
自己の存在の証。

目の前に広がる非現実的な光景も相まって、何がなんだかわからない。どこからともな
く響く蝉たちの不協和音がノイズとなって空気が歪み、ナカジさんの姿が黒い森と渾然
(こんぜん)一体(いったい)となり、私の身体は木の葉のように風にすくい上げられてか
ら急速に黄金色の草むらへとつむじを描いて落ちてゆく――

「まあ、そんなSF小説みたいなことがあるのかわからないけど」
開いた視界はなんのことはない、ついさきほどまでと変わらない梓の部屋のなかだった。
いつのまにか靴を脱いで上がってきたナカジは、勝手知ったる人の家とばかりに冷蔵庫
から取り出したサイダーに喉を鳴らしている。
「あれ? 私」そんな彼女の様子とは裏腹に立ちつくしたままだったミチルは、テレビ
のワイドショーらしき番組の左上の時刻表示を見て、およそ2分にも満たない時間経過
に自分の感覚を巻き戻していた。
白昼夢。そう考えるのが正しいだろうか。
「つまり私は、未来人かもしれないってことですよね」
「だから、その可能性もあるって言ってるだけじゃんか。そう本気で受け取られるとこ
っちが引くわ」ナカジがグラスを振ると、中の氷がカラカラと音を立てる。

ひととおり喉を潤したらしいナカジは、挨拶もそこそこに自分の部屋へと戻っていった
ようだ。すぐ上の天井で鈍い足音が聞こえる。
ミチルは今時こんな旧式は珍しい、と梓がため息をついていた固定電話のすぐ脇にある
メモ帳を一枚だけ破り、ペンを手にして紙の一番真ん中に『現在』、最下部に『未来』
と書き足した。

                ※   ※   ※

理数系に比べれば、アナログ的思考の余地が残っている国語は環の少ない得意科目のひ
とつだった。にも関わらず相変わらず補習を受けているのは出席日数の帳尻あわせでし
かない。配布されたプリントは早々に手をつけ、昼食までの時間をもてあましたこの日
の教室は、環のほかに誰もいない。冷房のない教室の窓を閉め切ると、静かで穏やかな
空間が生まれる。答案用紙にペンを走らせる。芯の先と紙のこすれあう音がする。消し
ゴムを強めにかけると、机も揺れて鈍い音を立てる。環の行動ひとつで隔絶された教室
に流れる空気が変わる。小さな独占欲、支配欲が満たされたことに心地よい笑みが浮か
んだ。
環にとって、見渡す教室はいつも来るたびにその姿を変えているような気がしていた。
実際に女装をしているという理由で教師から着替えてくるまで授業を受けるな、と言わ
れたのは一度だけである。入学して最初の中間試験の直前だった。このとき話を聞いた
梓が職員室に怒鳴り込んで猛抗議をしたものだが、以降はホームルームなどで呼び出さ
れでもしないかぎり保健室登校を続けていたし、環自身もクラスメイトとは次第に顔を
合わせづらくなったこともあり自分の席はここには無いと思い込むようになっていた。
だから、環は少しだけ期待する。もしもこんな夏休みの補習のような日々が続けば、自
分にも当たり前の学校生活ができるのかもしれない。友達も先生もいなくても、普通に
教室の椅子に座り勉強をしながら、時には不安で時には希望に満ち溢れている将来を夢
見ることができるのかもしれない。
窓のむこうでぎらつく太陽を眺めながら、環は願う。
夏よ、いつまでも続きますように。

時間は、常に現在を過去に変えながら一定のスピードで進行してゆく。それはどれほど
先の未来であっても、いずれは思い出せないほどの過去へ遠ざかってゆく。普段の生活
でそれを実感するのは毎年の誕生日のときくらいだろう。一個人の退屈も繁忙も、決し
てその流れの速度を変えることは出来ない。
現在の積み重ねが過去であり未来なのか。予定されていた未来は現在によって改ざんを
受けるのか。ミチルはメモ帳に『過去』を書き、『未来』の直ぐ脇に『銀の鐘』とも付
け足した。
(私が、本当に未来から来たとしたら)今は存在しない植物園の象徴的オブジェ。それ
は今現在、誰かが作ろうとしているのか。仮にその人物がいなくなってしまったり、計
画が頓挫して永久にこの世界に現れることが無くなったとしたら私の記憶はどうなる。
たった一つの手がかりとなる情報が失われたら、ミチルという仮の名前すら消えうせて
しまうのかもしれない。
真逆のベクトルを持つ二つの時間の流れの狭間でミチルは、いやこの世界に存在する誰
もが翻弄されつづけているのだ。

クラリネットが、スタッカートの使い方をものにしていないとの指示を顧問の教師から
受けた吹奏楽部の面々は各楽器のパートごとに別れた練習を続けていた。もとより人数
は少なく、欠けているパートもあるため音楽コンクールのような華々しい舞台とは縁遠
いが、梓をはじめとして部員たちは楽器を演奏すること自体を楽しんでいたし、賞を目
前に苦闘を続けることもなく伸び伸びと活動に励んでいた。
その梓だが、部内で唯一のフルートを担当している。実質個人練習となるので息抜きと
称して、学校そばのコンビニで買ったキャンディを口にほおばっていた。蒼天を横切る
雲の流れが速い。ニュースで繰り返される台風の接近など遠い国の出来事のようにも感
じるのだが、来るなら早く来て欲しい。彼女は風雨の明けた朝の、澄み渡った空気が好
きだった。
「ナカジの奴、何のつもりだか」台風より先に来てしまった好ましからざるかつての住
人はそれこそ、嵐のような存在でもあった。考えてみれば彼女がアパートに越してきた
のは丁度去年の今頃であり、居住していた期間より部屋を離れていた期間のほうが長い。
その僅か数ヶ月の間に隣室の住人とのトラブルが一度(酔って帰ったときに間違って入
ってきたらしい)、環に自家製激辛カレーを振舞って卒倒させたことが一度、夜中に梓
の部屋の真上で足音を立てて苦情を言いにいったことは三回ほど、家賃も二度ほど滞納
している。確かに子供だけで暮らしている梓や環を頻繁に夕食に誘ったり、アパートの
当時の住人には積極的に声をかけるような姉御肌もあるにはあるのだが、豪快さと酒癖
の悪さで梓にも手に負えないことがあった。
この夏からまた、あんな騒々しい日々が始まるのか。ため息をひとつつこうとすると、
まだ大きなキャンディが口のなかから校庭の乾いた砂混じりの土のうえに転げ落ちた。

そもそも記憶とは、失われて当然のものである。生きているだけで様々な情報が日々好
む好まざるに関わらず流れ込んでくる世界では、無意識の取捨選択の結果で不必要な事
柄は一秒ともたずに消し去られるという。逆に大事な約束事や知識であっても、いつの
まにか忘れてしまうこともある。一夜漬けで嫌々ながらに覚えた試験勉強の成果が当日、
気付いたときには頭の中から湯気のように消失していた経験は、逆にその苦々しい思い
出だけがいつまでも悔恨とともに刻み込まれているものだ。
ナカジは、ミチルに残されている記憶は人間が人間として生きるために必要な普遍的情
報だと言った。だとしたら逆に、自分は遠い過去の世界から来たのだと考える事も出来
ないだろうか? メモ帳の『過去』から『現在』に引かれた矢印を指でなぞる。どの程
度の期間かはわからないが、その間に私の記憶は忘れられてしまったのかもしれない。
人間の脳はコンピュータと違い、何を記録し続け、何を忘れるかをコントロールするこ
とはできないのだから。


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