▼女装小説
L' oiseau bleu
第七回
【beginning of last summer】
作:カゴメ
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白金色に揺らめく夕陽が水平線にその残光を落としながら沈んでゆく。影絵のようにヨ
ットが波止場に向かっているのが見えた。急に騒がしくなったのはアパートの中だけで
なく、祭りを控えて嫌が上にも高揚するムードの『街』全体がそうらしい。夕闇のグラ
デーションのなかではわかりにくい薄桃色のノースリーブのサマードレスに着替えた環
は、なびく髪を潮の香りが宿る風に泳がせてため息をひとつついた。
波が高い。そういえば、台風が近づいているとか何とか梓が言っていた気がする。そろ
そろ本当に、この『街』も沈むかもしれない。ふと環は『大陸』に暮らしている母の横
顔を思い浮かべていた。目元のやつれが年齢のせいだけでは無いに違いない、孤独と寂
寥が高級ファンデーションでは隠せない横顔を。
「それも、久遠(くおん)の服?」日中からの騒々しさの火種となったナカジの声がする。
大きめのサングラスを前髪に乗せていた。問いかけに静かに頷きながらも環は、すぐに
視線を沖のほうへと向けた。
「出かけるんですか」
「久々に『九郎人(くろうと)』の油そばが食べたくなったからな。一緒に来るか?」
つい半年ほど前、失踪同然に姿を消したナカジに対して捜索願を出すべきか否か環と梓
は悩んだものだった。そんな彼女の気まぐれは今に始まったことではないが、あまりに
唐突な申し出に戸惑いを覚える。
「ああ、『九郎人』は最近息子さんが後を継いだみたいで美味しくなってますよ。値段
は上がりましたけどね」何をしゃべっているのだろう、内心環は思う。
「そっか、じゃあ親父さんは引退か。あの微妙な不味さが好きだったんだけどな」一見
ありふれた会話のはずなのに、言葉のひとつひとつはどうもぎこちない。それは環だけ
でなく、ナカジも不自然さを漂わせた口調だ。もとより二人が特別親しかったわけでは
ないということを加味しても、重要な本音をどう伝えればいいのか、互いが自分自身の
腹を探りながらのもどかしい話だ。
不意に遠くからバスのエンジン音がして、思考が中断される。『大陸』にあまり行く事
の無い環は、つい数日前に初めて出会ったばかりの記憶喪失の少女にせがまれて久方ぶ
りに乗ったのだ。もはや時間も時間で、まばらな利用客を降車させると今度は車庫のあ
る方面へと向かってゆく。その側面にはお菓子メーカーの新商品の広告が載せられてい
た。
「親父が、死んだ」
遠ざかるエンジン音をかき消すように、ナカジが重々しく口を開いた。振り返ったその
表情は言葉から連想される悲しみというよりどこか苛立たしげな、険しいものだった。
もちろんそれが『九郎人』のとても美味しいとは思えない、けれど人当たりが良くファ
ンの多かった『親父さん』でないことは環にも理解できる。
「今年の頭くらいかな、大叔父から連絡があってね。癌だったらしい。もう何年も会っ
てなかったから、そんなことになってるなんて思わなかった。向こうは向こうで、連絡
も一切寄越さなかったしな。あの頑固者が」
メンソールの煙草を取り出して、火をつける仕草に大人ならではの落ち着いた佇まいを
感じる。
「まあそれで慌てて行ってみたんだけど、結局生きてる間には間に合わなくてな。葬式
も盛大にやってきたよ。何しろ親父のやつ土地やら会社やらで金は持ってたし、遺言ま
でしっかり残してあったから」アパートに住んでいた頃のナカジは、『大陸』に唯一通
じている橋のそばにあるガソリンスタンドでアルバイトをしていた。とくに裕福という
わけでも、暮らしていけないほどの貧窮でもなかったようだが朝早くに出勤し、すっか
り夜の帳に包まれた頃に両頬を酔いに染めて帰宅する姿からはそんな父親がいることな
ど想像も出来なかった。
「で、その後はお決まりの遺産相続でのゴタゴタ。親戚も多かったから。いちおうは私
があいつの一人娘ってことになってるんだけど、やれ土地の価値がどうの、税金がどう
の、おまけに再婚相手だとかが出てくるわで。昼ドラみたいな話のオンパレード。もう
笑うしかないよ」乾いた笑い声と共に、煙草をくゆらせた。
「それが片付くまで、半年かかったってことですか」答えながらも環は内心、なぜナカ
ジはそんな話を自分にしているのだろうと思う。半年もの間アパートを空けた弁明なら
梓にすればいい。父親を亡くしたことについてはともかく、その後のことなど関係者で
もない自分にはかけるべき言葉が見つからない。未だ夕陽が海上を糸をひくようにきら
めいている。今日は、時間が過ぎるのがやけに遅い。
「環」しばしの静寂を破ったのはナカジだ。「あんた、将来の目標とかあるの」
少し日焼けしたような細い肩を震わせる。「明日この街が沈んだら、それまででしょう
ね。想像つきませんよ」
「そっか、あんたくらいの年じゃ考えられないだろうね。でもあっという間になっちま
うモンだよ、大人って」
「そういうナカジさんこそどうするんですか、これから。さっきのお金だってお父さん
の遺産とかでしょう? 前みたいにバイト生活って訳には」
「この街を出てから、決めるとするよ」環より少し背の高い女性はまるで、『明日も暑
いだろうね』というような軽い調子で言った。
「戻ってきたのは荷物の整理と、梓に借りを作ったままなのが嫌だっただけ。確かに今
まで私も、あんた達に言えるような生き方してないけど……最後に夏休みが取りたくな
ったんだよ。親父が死んで、自分ももう大人だって気付かされた」
環はそのとき、先ほどからのナカジの話の意味を理解した。口ではそう思わせないが、
彼女なりに心に空いた空白を感じているのかもしれない。父親との関係がどんなもので
あったかはわからないものの、その存在は消し去ることのできない、絶対的な観念を持
っているのだ。そしてそれは、梓でも会ったばかりのミチルでもなく、環としか通じ合
えないシンパシーなのだ。
締め付けられる胸元を、風が吹き抜けるような気がする。お下がりのサマードレスは記
憶のなかの懐かしい香りを、忘れられない優しい笑顔を呼び覚ますような気がした。
「そろそろ行くとするよ、またな」空腹が限界にきていたのかもしれない、ナカジはバ
ス亭の向こうへ足早に消えていった。「あ、そうそう。梓のやつが探してたよ。夕飯は
あいつお得意の海鮮お好み焼きだってさ。この暑い最中にな」
環は内心、アサリが入れられていないことを祈っていた。

                ※   ※   ※

翌朝早く、学校へと向かう環と梓を送り出したミチルは部屋に戻りパソコンの電源を立
ち上げた。梓から使い方を習った検索エンジンで記憶の片隅にかすかに残る銀色の鐘に
関する情報を収集するためである。
「あずがあれだけ調べてくれて何もわからなかったものが、私にわかるのかな」ため息
をひとつつきながらも、キーボードとマウスを器用に操作してそれらしいページに目を
通す。表示される膨大な量の画像にも、観光記のように書かれている文章にも何ら符合
するものが感じられない。
ふと部屋のドアをノックする音がして、こちらの応答も待たずにナカジが玄関先に姿を
現した。
「おはようございます。あずに御用なら、もう学校に行ってますけど?」寝癖でところ
どころが跳ねたウルフヘアをかき乱している。
「そう。まああんたでも良いや。私の部屋の片付けしたとき、ノートパソコンあったで
しょ。どこに閉まった?」
「それだったら、収納の上の棚に入れましたけど」
「ふうん。ねえ、もうひとつ良い? ミチルって言ったっけ。梓の友達?」そう聞かれ
てミチルは、彼女に記憶喪失のことを話すべきか迷った。基本的には、打ち明けるデメ
リットは無い筈だ。あるいは彼女が自分の記憶に通じる何かしらの情報を持っている可
能性だってある。
だがたった一日過ごしただけでも判るそのいい加減な口調や言動が、口ごもらせる。
「私の部屋に居ついてたくらいだから、なんとなく訳アリな気がするんだけど。ただの
友達なら、最初から梓のところに泊まるのが普通じゃない?」
勘はなかなか良いようだ。ミチルはつい数日前に訪れた記憶の消滅、『街』を彷徨うう
ちに偶然に出会った二人のこと、そして今も捜索を続けている植物園のなかで響き続け
る銀色の鐘の音の話を簡略化して語る。光熱費の節約を梓に言われているためクーラー
を稼動させていない室内は朝の蒸し暑さに覆われて、窓の向こうからがなり立てる蝉の
鳴き声が汗の滴りを促進されるようだった。
「へえ、記憶喪失ねえ」
「警察とか病院には、行ったら本当に何も思い出せなくなりそうな気がして。それであ
ずと環クンにお世話になってるんです」それが本当に良い事なのかは、ミチル自身も判
別がついていないのだが。
「なるほど。今その話聞いて浮かんだ考えを聞いてみたい人」そう言ってナカジは、ミ
チルの右手を掴んで高々と上げさせる。
「あの、考えって……何ですか?」
「あんたはもともとこの世界、っていうか時間に存在する人間じゃないってこと。たぶ
ん、未来人」
「はぁ?」
思わず、丸く開けたままの口がそのまま動かなくなりそうだった。
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