▼女装小説
L' oiseau bleu
第七回
【beginning of last summer】
作:カゴメ
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作りおきの麦茶を自分の分も含めて四杯分、キッチンで注ぎながらミチルは考えていた。
なぜ、夏の定番は目の前のグラスを満たしてゆく濁った赤銅色のほろ苦い飲み物なのだ
ろう。統計を取ったわけではないから断言は出来ないし、人によっては緑茶や他の清涼
飲料のほうを思い浮かべることもあるだろう。
昨日、梓の買い物に付き合って『大陸』へ訪れた際も何気なく同じ質問をしてみたら
「安いから」の一言で片付いてしまった。なるほど、夏は冷たい飲み物を口にする機会
が必然的に多くなるからコストパフォーマンスの高い麦茶が有難がられるのも理解でき
る。実際、二人で薬局の店先を通りがかったときは水出しのパックが特売品と称されて
大量に陳列されていた。記憶喪失の身には、それがどれほどの安値なのか実感としては
湧かなかったが。
氷を数個入れてあるグラスの表面に、汗のような水滴が結集している。ミチルがそれを
トレイに乗せようとして持ち上げると、染み渡るような感触が皮膚から神経中枢を刺激
した。

暫定的にとはいえ、今はこの部屋の主はミチルである。来客の三人に飲み物を振舞うの
は当然の役目だ。開け放した窓辺でカーテンのこすれる音だけがする、静まり返ってい
ながらもどこか漂う険悪な雰囲気を少しでも変えようと注いできた麦茶のグラスを差し
出した。
テーブル傍で大人しく畳の上に座り込んでいるのは環だけで、向かいあう梓と彼女がナ
カジと呼んだ女性はいつでも立ち上がれるかのように姿勢を崩し、どちらかといえば梓
のほうが刺すような視線を飛ばし、噛み合わせた歯をむき出しにしている。室温が二度
は確実に上がっているようだ。その二人が差し出された麦茶をほぼ同時に一気飲みした
ことも、その証左だろう。
「出て行くのは勝手よ。でもまさか家賃を二ヶ月踏み倒した挙句夜逃げして、よく平然
と戻ってこれたものね?」梓の剣幕にもかかわらず、目の前の女性はおそらくは変わり
果てただろうかつての自分の住居を半ば呆れの色さえ浮かべて見回している。
「急いでたし、連絡先がわからなかったって言っただろ? だいいち逃げたわけじゃな
い、ちゃんと戻ってきたじゃんか」
「相変わらずいい加減なんだから。もういい、滞納してたぶんと、それといなくなって
から今日までの合計八か月分の――」梓の言葉が終わらないうちに、赤いトランクを手
繰り寄せた彼女はそのなかから何かを取り出し、テーブルに放り出した。未だ口をつけ
られていない環のグラスだけが揺れて、中身の麦茶が飛沫をあげた。
折り目すら無い、真新しいお札の束だ。ミチルはもちろんのこと、未だ学生生活の身分
の梓や環にとってそれは映像や絵の世界でしか見ることは無いものでほんの一瞬、目の
前にあるそれが現実の存在するものなのか、何を意味するものなのかすらわからないほ
どの混乱を覚えた。
「あ、あんたまさか、銀行……?」震える声を絞り出すように、梓は問いかける。環は
その火照ったような額に珠のような汗を浮かべながら、唐突かつ非現実の入り口になり
うる旧世紀の偉人とされる髭を蓄えた男の肖像画をまじまじと見つめるしかなかった。
「襲うかっ。真っ当なお金だよ。それで家賃の精算、できるでしょ? お釣りと領収書、
よろしく」追い払うように手を振るナカジに促されて、梓はぼんやりとした表情のまま
札束を受け取り階下の管理人室へと降りていったようだ。
残されたミチルと環は、口をつけていなかった麦茶をすすり始める。
「ちょっと、あんたたちも何してるの」ナカジはその二人の顔を交互に見やって気だる
そうな声を出す。「少し休みたいんだから、用が無かったら出てってくれない? さす
がに橋から歩いてくるのは無茶だったなぁ」最後は独り言のように呟いた。座布団を手
繰り寄せて、身を横たえる。
「橋から、って結構あるじゃないですか。バスは?」環も驚いた声を出す。その後街中
を散策していたらしい彼女の行程はおそらく、数時間にものぼるはずだ。ましてこの真
夏日の最中である。
「久々の『街』だから歩いてみたかったんだよ。やっぱりお祭り前なんでしょ? いつ
の間にか人がごちゃごちゃで、邪魔でしょうがなかったよ。それより環、メイクも随分
手馴れてきたみたいだね。キレイになったよ、なんてな」肩を震わせて笑い声を上げた。
「あ、あの」次いでミチルが割って入る。「さっきはありがとうございました。倒れて
たところ、助けていただいて」正座の姿勢で丁寧に頭を下げるミチルの顔を、ナカジは
忘れていたようだ。
「ああ、あのときの子ねえ。言ったでしょ、運が良かったんだって。あんたが倒れた時
に、偶然私が通りがかった。だから応急処置くらいはした。それだけのことだよ」
彼女の言う、運という言葉が心のどこかに引っ掛かるのを感じた。私の記憶が無いのも
また、悪い運の巡り合わせの結果だと言うのだろうか。逆にこの街で環や梓に助けられ、
仮とは言え名前と居場所が一応あることは連続する幸運が折り重なったためだろうか。
「それにしても、相変わらず暑苦しい部屋だねえ。あんたたちも、室温上がる一方だか
ら帰った帰った。こんな狭い部屋の人口密度上げなさんな」そう言われて、ミチルは思
わず環のほうを振り返る。彼女の理解したところでは目の前で横たわっているナカジと
いう女性は、この部屋の本来の住人なのだろう。追い出されたらミチル自身の居場所も
行く当てもなくなるが、正式な手続きを経てここにいる彼女を相手にまさか強硬に自分
の居住権を主張するわけにも行かない。
「あの、ナカジさん。彼女、ミチルって言うんだけど……今ちょっと色々あって梓がこ
こに住ませてるんだ。だからちょっと」
そのときにして初めて、環が自分の名前を口にしたことにミチルは軽い驚きを覚えた。
「ん? なんでそんな話になってるワケ」不快というよりも、好奇心をその目に浮かべ
て彼女はミチルのほうに起き上がった。すると背後で梓がドアを押し開いて現れた。
「はい、これが家賃のお釣りと領収書。どうもありがとうございます」感情を抑えたか
のような淡々とした声で、テーブルに先ほどの札束の残りを置いた。見ると半分程度減
っていて、束ねていた茶色の紙が緩んでいる。
「へえ、まあこんなもんか」手書きの領収書を手にナカジは、開け放した窓辺に立ち尽
くした。その身に潮風を受けて、心地よさげな表情で振り返る。
「ときに梓、あんたそこの子……ミチル、って言ったっけ。ここに置いてるんだって?
 部屋借りてるのは私じゃない。どういう事?」
さすがに梓はしまった、とバツの悪そうな顔をする。ナカジが家賃を踏み倒し続ける限
りはいくらでも強気に出られるだろうが、たった今それを回収した以上大家の立場とし
てもミチルをこの部屋に住まわせることは出来ない。
「空いてるほかの部屋あるから、そっちに移ってもらうよ。それより彼女、真夏なのに
コタツが出しっぱなしだったあんたの部屋をここまで片付けてくれたんだよ? お礼の
ひとつでも言いなさいよ、全く我慢大会じゃあるまいし」梓の脳裏には、つい数日前の
凄惨な光景が克明に蘇る。それも大家の立場としては由々しき問題だった。
「あの、ナカジさん。私の荷物だけ回収させてくださいね」鞄ひとつに納まる程度の、
他人からすれば特別な価値はないだろう品物の数々も彼女にとっては失われた時間に繋
がる貴重なものに違いないのだ。
「ああ、わざわざありがとうね。あれだけ散らかってたのに」
「自覚あるんかい」梓と、それまで無言だった環が苦々しげに突っ込んだ。

「ごめんね、こんなことになっちゃって」梓に連れられた新しい部屋は、一階に当たる。
管理人室も兼ねている梓の部屋からはふたつほど離れていた。広さじたいはつい先ほど
までいた部屋とそう変わらないが、家具の類は一切存在しなかった。ナカジとは違いき
ちんと手続きをして引っ越した男性が住んでいたらしい。窓の外には大きな木が陽光を
遮っていてぎらついた眩しさや蒸し暑さはさほど感じられないが、薄暗い。どことなく
陰鬱な印象さえ受ける。壁にクーラーが備え付けられていたことには目を見張ったが、
たとえ布団を梓から借りたとしてもここで寝泊りをするのは正直なところ不安を感じる。
どれだけ埃とゴミだけでなく、散乱したガラクタにまみれていても上階のナカジの部屋
は片付けさえすればまだ居心地も良かったが。
「前に住んでた人がいなくなって結構たつけど、割とキレイだよね……あ、でもでも少
し埃は払ったほうがいいかな。着替えてきたら掃除手伝うけど……」そんなミチルの不
安を察したかのように笑みを浮かべる梓は、いまだ制服姿のままだった。もちろんそん
な彼女の好意を無下にすることなどは出来ないが、素直に喜べるものでもない。
「あず、本当はそろそろ私――」口を開きかけたミチルを遮るように、梓はわざと明る
い大声を出す。
「そっか、やっぱ家具もないところにミチルちゃん、置いとけないよね。ごめんごめん、
じゃあ……今日からは私の部屋で一緒に住もう」
突然の申し出は、ミチルにとっても願ってもいないことには違いなかった。
「でも、いいの? そんなに甘えちゃって」
「気にしない、気にしない。その分買い物に洗濯、お掃除に料理も手伝ってもらうから
さ」自分より少し背が低くて、妹のようにも姉のようにも感じる梓が頼もしく、また有
難い存在に思えた。
人と人との巡り合わせが運ならば、私はとても幸運にあふれている。


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