▼女装小説
L' oiseau bleu
第六回
【ring】
作:カゴメ
14P

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梓の運んできてくれた弁当箱を受け取りながら、環は3階建ての校舎の屋上のコンクリー
トに腰を下ろした。 スカートの姿のまま胡坐(あぐら)をかくと目の前の一つ年上の幼
馴染が煩(うるさ)いのが判っているから、正座の姿勢から両脚を左側にずらす。 そも
そも男の骨格には不都合な座り方なのは間違いないが、女の子の姿をするなら、仕草ひ
とつから気を配れ――そう言われたことに素直に納得もしているのだ。
「それで環ちゃん、補習終わったの?」
「ああ、ひととおり出来てる。 これ食べたら、先生に提出して帰るだけ」弁当の中に
は昨晩の残り物の鶏の唐揚にスパサラダ、プチトマトなどが入っている。 屋上には二
人を除いてほかの生徒の気配は無い。 学校を取り囲んでいる街並みにも昼下がりは極
めて静かな時間が流れている。
「ふうん、やれば出来るんじゃない。 それにしても、こんな簡単な問題で補習なんて
ねえ」
「数学は保健室じゃたまにしか習わない」半分嘘である。 元来苦手教科のため、意図
的に出席していないことも多いのだ。 「じゃ、校長室か職員室で習えば? だいたい
環ちゃん、将来のこととかちゃんと考えてる? いつまでも学校に来たり来なかったり
じゃ済まないでしょ」
珍しく真剣な表情の梓を見て、今まで考えもしなかったこと、そして二人の間で交わさ
れた記憶のない話題に戸惑う。
「私、最近ちょっと思ってることがあってね。 『街』が本当に水没するかどうかは別
にして、10年……ううん、5年後の自分は何してるんだろう、ってこと」
「梓なら、そういう先のこととかちゃんと考えてるって思ってたけど。 子供の頃から
周りの誰よりもしっかりしてたって言うか、色々なものが見えてるって感じで」
「子供の頃は、ただ与えられてる状況とか、狭い人間関係とか、世界はいつも決まって
た。 当たり前に学校にいって、帰って、環ちゃんや他のみんなと遊んでまた帰って。
毎日同じようなことの繰り返しのはずなのに、でもいつのまにか少しずつ世界は広がっ
て来た。 自転車で遠くまで行けるようになったり、児童書じゃない本が読めるように
なったり、転校した友達の家に遊びに『大陸』まで行ったりしてるうちに、見える景色
も変わってきて、今は時々……自分がどこに行けばいいのか、何を知りたいのか、何が
したいのか本当は良く判らないことがあるんだよ。 未来が見えないって、過去がわか
らないミチルちゃんとはちょうど反対だよね」
ミチルの名前が出たところで、唐突に現実離れした話から急に引き戻された。
「そういえば梓、何であの子連れて来たんだよ」
「何で、って? 嫌いなの、ミチルちゃんのこと」
「そうじゃなくて、警察に届けるとか、記憶喪失だっていうならそれなりの処置とか、
色々あるだろ? 本人が嫌がってもしなきゃいけないことが」
「環ちゃんがすれば良いじゃない」
「出来たらとっくにそうしてる」環の視線が外れる。 続けるべき言葉を失う姿を見な
がら、食べ終わった弁当箱を片付け始める。

「じゃあ追い出しちゃおうか、ミチルちゃん」不意を突かれた環は思わず呆然とした表
情を浮かべた。
「そんな、追い出すなんて言い方」
「でもそうしたいんでしょう? いいよ、私からあの子には言うから。 別に環ちゃん
の所為にもしないし」
「だけど」
「まぁあの子も良い子だからねぇ。 出てけ、って言ったって私たちを逆恨みしたりし
ないんじゃないかな」
「よせっていってるだろ、別に……」梓の目を、まっすぐに見据える。
「別に?」いつもどおりの涼しげな笑顔が返される。
「ほら、やっぱり追い出せない。 環ちゃん、あの子が来て少しだけど変わった。 自
分でもわかってるでしょ? 本当にほんのちょっとだけ、その格好してても、堂々と出
来てる。 女の子の自分に自信持とうとしてる」まばゆい陽射しを背に立ち上がる梓は、
そのまま押し黙って透き通る空を見上げた。

午後も部活があるらしい梓と別れて、学校をあとにした。
職員室に駐留していた補習の担当にあたる先生はたまに環の保健室での授業を見ること
もあり多少馴染みもあったが、特に会話らしい会話も無くプリントを提出した。
帰宅の道すがら、環の脳裏には梓の残していった言葉だけがリフレインする。
堂々としてる? その意味を自問する。 ミチルにも言われた言葉だ。
過去を取り戻したいらしいミチル。
未来を手に入れたいと言った梓。
対称的な二人が、環に対しては同じことを口にする。 そこには、ミチルと梓の繋がり
がある。 小さな人の輪がある。 他人という存在から自分だけが隔絶されることは不
可能だとしたら、どんな場所に居てもつきまとうものなのだとしたら、自分が自分であ
ることを主張しなければいけないのなら、堂々としていろ。 そう言いたいのだろうか。
(でも、僕は僕じゃ居たくないんだ。 居られないんだ)
もう穿き慣れたスカート。 初めに比べて格段に手際の良くなった化粧。 元々少ない
口数を更に減らして周囲の環境に溶け込もうとする少年は、過去や未来よりも現在を変
えたい、そう願うのだった。

祭りの飾りつけ用だろう、道脇に並ぶ街灯には派手な色彩を放つモールのようなものが
巻きつけられ、海に注ぐ水路をまたぐように、花をあしらったアーチが掲げられている。
毎年この時期くらいにしか現れない花売りの屋台の横を通り抜け海岸沿いの道路へ出た
ところで、環は思わず足を止める。
防波堤に腰掛け、重そうなトランクをその傍らに放り出している。 ウルフヘアの黒髪
を潮風になびかせ、時折のびをする。 注視するどこか中性的な横顔――梓よりも年上
を感じさせる切れ長の瞳と端正な口元に、環は見覚えがあった。 肩にかけたバッグか
ら慌てるように携帯電話を取り出し梓に連絡を取ろうとしたが、部活中だったことを思
いだし舌打ちをする。 誤変換が多いため嫌いだったメールを止む無く打ちながら、表
情は焦りと苛立ちの入り混じった複雑なものになる。 「あいつ、いつの間に」呟きと
共にメールを送信する。
『ナカジさんを見かけた』

久しい知人と会うときの緊張というものは、その相手との関係などによって程度の大小
はあるものの、誰しも少なからず感じるものだ。 自分または相手が離れていた期間に
どれほど人間として成長あるいは変貌しているか、それに対してどのような評価を下し、
下されるのか。 関係は変化するのか、しないのか。 信じられるのか、許せるのか、
否定するのか、壊すのか。 期待と不安。 安堵と恐怖の交錯――
最もこの場合の環は、そんな逡巡とは関係なくただ『出来れば会いたくない』相手を見
かけたから裏通りを遠回りして帰宅したに過ぎない。 一階の管理人室を通り過ぎよう
とすると、ドアが開いてミチルが姿を現した。
「お帰りなさい、補習お疲れ様」口調にどこか、疲れが宿っている。
「ああ、君もお使いお疲れ様。 梓ならまだ部活だけど、何か用でもあった?」
「ううん、ちょっと具合が悪かったからお水でも貰おうと思っただけ。 部屋の鍵は開
けっ放しになってたし」環は内心、しまったと思う。 鍵そのものは預かっていたのだ
が、朝ミチルと出かけるときに掛け忘れて出てきてしまったのだ。
「まあ大丈夫、人も少ない『街』だから」独り言のように言い訳を呟く。 「それより
具合が悪いって? 部屋に戻って休んだら」
「ううん。 もう休んだし、大丈夫。 それにね」ミチルは倒れた際、親切な女性に助
けられたことを語った。 冷房の効いている梓の部屋に戻り、環は感心しながらもパソ
コンを起動し、メールの続きを書く事にした。

『お早うございます、母さん。 風邪をひいたっていってたけど、その後はどう? 夏
風邪はしつこいから、よく休んでね。
こちらは私たちも梓も、このところはとくに変わったこともなく水位の上昇も無いよう
なので、助け合いながら無事に過ごしてます。
もうすぐお祭りもあるので、母さんも具合さえ良ければ少しでも『街』に遊びにきてく
れると嬉しいな。 久しぶりに母さんと屋台を回ったり、キレイな花火を一緒に見たい
です。 夏休みで受験の準備があって勉強が大変だけど、母さんの期待に応えられるよ
うに頑張ります。 それじゃ!
                                久遠』

堅苦しくなりすぎないよう、文章に手を加えて送信ボタンを押した。 
「……でね、そのお姉さんがタオルと水を買ってくれて……って環クン、メール?」
横から覗きこもうとしたミチルを制するように慌ててディスプレイの前に屈みこむ。
「勘弁してよ、プライベートなメールだ」
「何よ、ちょっとぐらい……って、そっか。 彼女宛だよね、ごめんごめん」口の端だ
けを吊り上げるようにミチルはにやりと笑う。
「まあ、そういう事にしとく」ため息交じりに環が返したとき、廊下から駆け足の足音
が響き、ドアが乱暴に開いた。
「あ、あずお帰り……どうしたの、そんなに慌てて」
「丁度二人ともいる……はぁっ、環ちゃん、ナカジさん見たって本当」乱れた髪に手串
を入れながら息を切らした梓は、パソコン前の椅子に座ったままの環に詰め寄る。
「ああ……僕も信じられなかったけど、多分間違いない。 何で今頃、って思ったけど。
部活は?」
「早退。 事情が事情だから――」その時、管理人室の真上の部屋、すなわちミチルの
部屋に位置する辺りのドアが開き、遅れて人の足音が響いた。
「まさか」「……泥棒?」顔を見合わせる環とミチルに構わず、梓は部屋を飛び出して
階上へと向かう。 それに続くように、二人もまた駆け出した。
「ねえ、そのナカジさんって、誰?」至極当然のミチルの疑問に答えが返ってくる間も
なく、梓はその部屋のドアを開けた。

「何だコレ、随分片付けちゃって……梓か?」
彼女は部屋では禁止されていたはずの、本人も止めていた煙草を取り出した。 窓を開
け放して潮風を室内に取り込み、変わり果てた我が家の姿を見つめる。
一人では手に負えないほどに散乱した家財は収納棚に収められていたし、捨てた記憶の
無いゴミは跡形もなくその影も形も残してはいなかった。
「まあ、キレイになってるから丁度いいか」
その途端、古ぼけたドアが乱暴に開け放たれて、見知った顔が二つ、知らないけれど見
かけたような顔がひとつ飛び込んできた。
彼女が驚いて火のついていない煙草を口元から落とすのと、梓が声を発するのは同時だ
った。
「梓に……環?」
「久しぶりですねえナカジさん。ご帰宅早々悪いんですけど、滞納してる分の家賃を―」
「あれ、あの人……私、さっき会った」ミチルの言葉に、場が静まり返った。

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