▼女装小説
L' oiseau bleu
第六回
【ring】
作:カゴメ
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二次関数という単語を最後に目にしたのが何時かは定かではないが、それはごく数ヶ月
以内のことの筈だ。
環も含めて三人だけが参加している数学の補習は半ば自習に近く、与えられたプリント
に記載された問題を解いて提出するだけのものだった。 窓際の環の席から少し離れた
左後ろに座る、眼鏡をかけたショートカットの女の子と、教卓にほぼ近い席の上背の高
い男(いずれも、環は名前さえ覚えていない)とが時折ペンを走らせる音が響く教室内
は閑散としていて、監督するはずの教師がいないにも拘(かかわ)らず僅かな会話すら交
わされることはなかった。 それを気味が悪いと思ったり、妙な不安を掻き立てられた
りする気配は場の誰もが見せず、ただ目の前の問題に集中できると言う意味では寧ろ静
かで良い環境だった。 U字型の曲線が引かれたグラフの直ぐ脇に『平方完成形』と書
かれているのを見て、教科書の内容を一部伏せただけのものが出題されていると気付い
た環は乱雑にページを捲り、問題の回答をひとつひとつ確認しながら書き込んでゆく。
(早く終わらせれば、早く帰れる)夏休みとはいえ、補習があれば職員室に教師がいる。
梓が所属する吹奏楽部をはじめとした、部活動で登校している生徒も少なからずいる。
長引く保健室登校が功を奏したのか、環に好奇の目を向けてくるものはそれでも減った
とはいえ、いずれ水没するだろうことが判りきっている『街』ですら決して解けること
のない人の輪を訝(いぶか)しく思っていた。

                ※   ※   ※

郵便局の窓口はほんの数分の間も空けることなく、ミチルを迎え入れた。 朝の時間帯
で利用客が少ない所為(せい)で、誤って送られてきた数々のダイレクトメールやら葉書
の類は彼女の手元から消え、何処とも知れない転送先へ再び旅を始めるのだ。 無論そ
れらの中には、差出人住所不明で返送されることもあるだろう。 そもそも本当に交流
があったり、重要な取引相手なら互いに転居先など教えあうもので、つまり差し戻され
るような手紙は送る側にも受け取る側にもさほど重要な情報だとは考えられていないの
だ。
では自分は、誰かから重要視されている存在なのだろうか。 ミチルはふと考える。
『街』には当然、見知った人間は二人しかいない。
では『大陸』は? 或いはその先に広がる世界には私がかつて記憶していた場所があっ
て、そこでは例えば家族や友達、お互いを必要とし、必要とされるような人間関係があ
ったのだろうか? そのとき頭のなかで、途切れ途切れながらも止むことのない白銀の
鐘が鳴り始めて、軽い眩暈(めまい)を覚える。 平型のソファに腰掛けて、片隅に置か
れている新聞紙を手に取った。 記事のあちこちに登場する様々な固有名詞のいずれに
も思い当たるものはなく、大型の台風が近づいているらしいニュースだけは目に付いた。
書籍や週刊誌の広告欄の上の僅かなスペースに小さな尋ね人欄がある。 ミチルはそれ
を調べようとして、直ぐに辞めた。
仮の名前しか持たない自分は、探されていたとしてもそれに気付くことが出来ないのだ
から。

少しは歩き慣れたと思っていた『街』は相変わらず、水路とその頭上に跨(またが)る橋
と煉瓦(れんが)づくりの古ぼけた建物の狭間の薄暗い裏通りとが複雑に入り組んでいて、
梓や環に教わった通りの道を伝って行かなければ、その迷路へ容易く取り込まれてしま
うことだろう。 彼らふたりと過ごしている家までの距離はさほど遠くは無い筈なのに、
何故か足取りは重い。 ときどき傍らを誰かが駆け抜けていったり、背後の路地で靴音
が響くのが聴こえる。 進むべき指針も、成すべき目的もなくただ一人彷徨っていた時
には気付きもしない焦燥感が心臓の鼓動を高鳴らせる。
いや、目指すべき場所はその胸のなかに確かに存在したのだ。 執拗なまでに。
視界を夏の夕暮れのような朱(あか)で覆うほどに咲き乱れる薔薇の植物園に、現実には
存在しない銀の鈴。 しかしその澄んだ音色は蒸した大気を優しく撫でてゆく風の様な
郷愁をなにひとつ呼び起こすことはなかった。
そしてミチルは再び訪れた眩暈が、一過性のものでないことに気付いた。
息遣いは荒く、乱反射する陽射しは足取りをさらに重くさせ、額から首周りに伝う汗は
酷く冷たいものに感じられる。 手はしがみ付く場所を求め空しく宙を舞い、ついには
半身から焼けた石畳に崩れ落ちていた。 
尻餅をついた姿勢で荒い息をする。
「……水」呟(つぶや)いてから辺りを振り返り、橋の脇にある煉瓦の階段を這うように
降りて、水路の岸へと下る。 周囲に乱立する建物の影になり薄暗い水辺にぼんやりと
揺れる自分の姿へ手を伸ばして、僅かな指の隙間からこぼれようとする輝きに口をつけ
ようとした時――
「ちょっと、何してんだ!?」
橋の上から聞きなれない女の声がして、ミチルは驚いたのか力尽きたのか、その場に倒
れ込んでいた。

「何だ、熱中症か。 にしたって水路の水なんか飲んだら今度はお腹壊すよ?」
目の前のミチルや梓よりは少し年上に見える彼女は意識の途切れかけたミチルの身体を
橋下の日陰へと写し、その場からさほど離れていないコンビニで水とタオルを買い、応
急処置的に濡らしたタオルを手に充てて水を飲ませた。 落ち着きを取り戻したミチル
は、自分の置かれている状況を次第に理解し始めていた。
「あの、ありがとうございました。 それに、すいません」ミチルは彼女の抱えている
荷物の多さにまず目が行った。 赤いトランクを傍らに置いている。 どちらかという
と長身で、ゴシックパンク調のカットソーにボンテージパンツというラフなスタイルで、
見慣れないコーディネートにも違和感がよぎった。
それでもウルフヘアの黒髪をかき上げる仕草には、不思議な色気が漂う。
「気にしないでイイよ、今日は運が良かっただけだから、アンタも私も」唇の端をゆが
めて、そう笑う。
何のことだろう? そう問いかけようとすると、女性は再び荷物を抱えて歩き去ってゆ
く。(梓の言う、追われてる人なのかな)失礼な疑問が頭を掠める。
「この『街』の方ですか? 私も、つい最近ここに来たんです」無言で彼女は、手を振
り返した。
確かに追われている人間に、人助けをする余裕は無い。 そう自分を納得させたミチル
は、残されたペットボトルを拾い上げ、水を一気に飲み干した。


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