▼女装小説
L' oiseau bleu
第五回
【Sea Wind】
作:カゴメ
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ミチルは夢を見ていた気がした。
少なくとも開け放した窓辺のカーテンを揺らす潮風の向こうに琥珀のような薄明が広が
り、その鮮烈さに思わず両目を開いた瞬間までは、確実に彼女は自分が自分の役割を充
てられているかも定かでない、混沌のなかにいた筈なのだ。 陽が登り始めたとはいえ、
未だその形状を正しく認識できない暗闇をぼやけた瞳で見渡しているほんの2秒にも満た
ない僅かな間があって、ミチルは熱帯夜に苦しめられた後の短い眠りがいかなる夢をも
たらしたのか、まるで思い出せないことに唖然とした。 勿論夢は夢に過ぎず、知ろう
と知るまいとさしたる意味を成さない文字通りの砂上の楼閣である。 それでもミチル
は、手がかりすら残さず霧散した『真実かもしれない』虚構の断片に想いを馳せずには
いられなかった。
私はこんなふうにして、記憶を失ったのだと。

梓の朝の慌しさは、響き渡る蝉の声や陽の低い間だけ感じることのできる爽快な暑さに
夏の訪れを感じる暇を与えない。 ことにこの2日ほど、新たな共同生活者を迎え入れる
ことになった為、全てを自分が管理すると言ってはばからない食事の支度の手間が一層
増したのだ。
「もともとウチらの食費って、私の両親と環ちゃんのお母さんからの仕送りでまかなっ
てたんだけどさ」軽やかな手つきで、フライパンの上の卵を躍らせる梓の背後で、ミチ
ルはテレビ番組の占いをぼんやりと見つめている。
「お金は私が管理しないと。 環ちゃんには料理任せられないし、ほら……男の料理っ
て最初に作るもの決めてから材料買いに行くでしょう? アレのおかげで無駄なものば
っかりそろえてくるんだから。 普通お店で何買うか決めて、それから作るもの決める
じゃない? お嬢さん、今日は魚が安いよー、ってね」
所帯染みてるなぁ、と自ら苦笑を浮かべる梓を見て、ミチルは子供二人の生活を切り盛
りしている彼女の逞しさを感じずにはいられなかった。
(……だから、私のこともこうやって置いてくれるのかな)それと同時に、ただこのま
ま好意に甘えているだけではいられないことも。
スクランブルエッグを盛り付け終えた梓は、ミチルを促して皿を運ばせる。 湯気と仄
かな甘い香りを漂わせる卵のほかに、小さなウインナーが3本ほど添えられている。
「環クン、呼んでこようか?」占い番組の女性アナウンサーはそれぞれの星座の運勢を
仕事運、恋愛運、金運と細分化して読み上げている。 金運だけは運勢の良し悪しに関
係なく大事なことを言ってるよ、と梓が丁度先日の同じ時間にぼやいていたのを思い出
した。
「うん? 大丈夫だよ、まだ多分コレだから」テレビ画面を注視したまま振り返りもせ
ず梓は、右頬を軽く二、三回叩く。 ……化粧中、ということだろうか。 そういえば
ミチルはこの奇妙な生活を始めて3日目になろうというのに、一度も環が普通の男の子の
姿――素顔を見せていないことに気が付いた。
「お、運勢最下位じゃん、水瓶座」ミチルが呟くと、梓は口元に薄い笑みを浮かべる。
「環ちゃんだよ、それ」

環は制服のブラウスに腕を通すと、安物の小さな鏡と化粧道具の入ったポーチを机に並
べた。 カーテンは開け放さずに、部屋の蛍光灯だけを点灯させる。 学校は夏休みに
入ったとはいえ、出席日数が不足している彼には通常の宿題のほかに若干の補習が課せ
られていた。 部活動のため普段とそれほど変わらない頻度で学校へ足を運ばなければ
ならない梓に比べると余裕があることには間違いないが、鏡に映る気だるそうな表情は
化粧でかき消すことは出来ないように思えた。
『……ほらほら環ちゃん、そんな仏頂面してたら可愛い顔が台無しだって!』梓から初
めて化粧を教わった時は、ファンデーションでより柔らかな乳白色に染まる肌に、薄い
ピンクのグロスが艶やかに濡らす唇に、違う存在へと変貌していく自分の姿を感じて不
覚にも鼓動の高鳴りを止めることが出来なかった。 回数を重ねる毎に手際は向上し、
塗るたびに目の下の痛みを伴ったアイラインの扱いにも慣れ、元々色白だった所為か、
さほど時間を掛けていない薄化粧でも少年は少女の容貌を装うことが出来た。 
『女の子は華やかに堂々と、でもおしとやかなのが一番じゃない?』
その日初対面の少女に、そんな言葉を告げられたことを思い出す。 流れるようなスト
レートロングの髪にスタイリングスプレーを吹きつけながら、唇の両端を軽く上げてぎ
こちなさの抜けない笑顔を作ってみる。
見慣れた筈の自分の顔がほんの少しだけ好きになれるような、錯覚と分かっている感情
でも、昨日より僅かな寝覚めの良さをもたらしていた。

「ごめんー! ちょっとまだそこ、歩かないでー!」
階段を下りて彼らの食堂を兼ねている梓の管理人室へ向かう途中、階段そばの廊下から
漸く聴き慣れ始めた張りのある声が響いた。 振り返ると、ゴム手袋を填めた手に大き
めの箒を掲げているミチルの姿が見えた。
「おはよう、すぐ済ませるから」そう言いながら階段から一階廊下へ足を降ろすことの
出来ない環のそばを丁寧な動作で床のゴミを掃いてゆく。
「おはよう、掃除ご苦労様。 朝ご飯できてた?」ミチルの邪魔をしないように、既に
掃き終わったらしい箇所からその後ろをゆっくり歩いてゆく。
「うん、もう食べ終わって――あずはもう、学校に行ったよ。 環クンももっと早く起
きてきたら? 皆で食べたほうが美味しいよ」
「こっちに手間取ってね、明日はもう少し早く起きるようにする」右頬を軽く叩きなが
ら、部屋の中ほどではないにしろ高い湿度の廊下に辟易する。
(落ちなきゃ良いんだけど、な)すぐ隣を歩くミチルの横顔には、汗が浮かんでいるの
が見える。 化粧っ気の無い横顔は、それでも女の子特有の甘い輝きで、薄紅色の頬を
立ち止まって見つめてしまう。 郷愁さえ仄かに漂ううなじに髪が揺れる。
「ねえ君、梓の言うことなんか一々従わなくても大丈夫だよ?」思わず、そう声をかけ
ていた。
「どうして? 環クンにもあのとき、お世話になった分はちゃんと働いて返すって言っ
たじゃん」
「騙されてる、梓に。 あいつが……っていうか、僕がだけど……払ったお金なんてそ
んなに高くない、そういうことならとっくに返し終わってお釣りが来るくらいさ」

『ミチルちゃん、本当はこういう事言いづらいんだけど……』
伝え聞いた話から環の理解するところによると、梓がミチルの身元引受人を買って出た
際に支払った金はかなりの高額らしく、その後の住居の提供に至るまでまったくの無償
にするのは厳しい、その気があるならアパートの管理と自分や環の周辺の世話を頼みた
い、と願い出たらしい。 もとよりその意思があったミチルは二つ返事でそれを請け負
ったのだが、実際環が受け取った金は植物園の入場料とそれに付随するバスの運賃だけ
なのだから、環の目からは金に意地汚い梓とお人よしのミチルの意向が不幸な噛み合い
方をしているようにしか見えなかった。
「あずは良い子だと思うよ、環クン。 少なくとも、私は騙されたなんて思ってない。
こうやって動いてないと……なんだかここも鈍りそうだから」そう言ってミチルは、人
差し指で頭を二回ほど突く。 「それにね」
管理人室を前にして、二人は立ち止まる。
「楽しいんだよ、こういうの……誰か、私を必要としてくれるって思えるのって」

主が不在の管理人室はつい先刻までクーラーをきかせてあったようで、ドアを開けて足
を一歩踏み入れた瞬間冷気が纏わりついた。 机の上にはラップを敷かれたスクランブ
ルエッグとウインナーの皿が一つ供されていて、直ぐ傍に小さなメモ用紙が添えられて
いる。
『生ものにつきお早めに 梓』
机から皿を取り上げ、乱雑にラップを取り外して丸めた。 部屋の奥にあるパソコンデ
スクに腰を下ろして、電源を立ち上げる。 聞いているだけで温度が3度は上昇しそうな
機械音を耳にしながら、フォークで食事を口に運んでゆく。 梓やミチルにはあまり見
られたくない姿だ。 二人とも、女の子の制服を着ている環の生活態度に対する言及は
厳しい。 服は着崩すな、行儀の悪い食べ方はするな、あなたは女の子でしょう? 
(強い子、っていうのかな……ああいうの)ミチルの言葉が鮮明にリフレインし続けて
いる。 必要としてもらえるだって? 彼女が記憶喪失でなかったら子供染みた考えだ
と笑うことも出来るだろう。 誰かに一方的に縋るでもなく、我を押し通して孤立する
でもなくただ自分で決めたことを全うし、前に進むだけの力なんて、何がそうさせるん
だろう?
起動の遅いパソコンがインターネットに自動接続するまでに食事をすべて終えた環は、
ブラウザのブックマークから個人用のウェブメールのアカウントを持っているホームペ
ージへ接続する。 パスワードを入力して待つと、新着の広告メールばかりが届いてい
るメールサーバへと到着した。 それらを早急に削除して、アドレス帳に唯一登録され
ている相手へと新規メールを作り始めた。

『お早うございます、母さん。 風邪をひかれたとのことですが、その後のお加減は如
何でしょうか。
此方は私たちも梓も、このところはとくに変わったこともなく水位の上昇も無いような
ので、二人で助け合いながら平穏無事に過ごせています。
もう直ぐお祭りもあるので、母さんも具合さえ良ければ少しでも『街』に遊びにきてく
れると嬉しいです』

そこまで書いて、環はそのメールを送信せずに保存することにした。 ふと、管理人室
のチャイムが鳴ったのに気付き、ドアを開く。 掃除を終えたらしいミチルが、まどろ
みのような外気と共に部屋へ入ってくる。
「環クン、お願いあるんだけどいい?」何故かその両手には、表のポストからかき集め
てきたらしいダイレクトメールやカタログ、葉書やチラシまでもが収められている。
「あずに頼まれてて、今ここに居ない人宛に届いてるこれ……郵便局に持っていくんだ
けど、途中までで良いから送ってくれないかなあ。 まだ、道が良くわからなくて」
「良いけど……じゃあ、準備してくる」出かける為の荷物を取りに環は自室へと舞い戻
り、その間ミチルは郵便局に届けるものとそれ以外のチラシなどを選り分ける。
大半の郵便物は旅行や通信販売のカタログ、学校の同窓会を名目にした寄付金集めの往
復葉書、服飾メーカーのセール通知などといったもので、人と人とが通信手段として利
用する手紙は無いように見られた。 (メールあるし、当然か)かつてはミチルも、メ
ールのやり取りをする相手くらいは居たのかもしれない。 勿論、自分のアドレスさえ
も分からない彼女に、それを確かめる術は無いのだが。


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