▼女装小説
L' oiseau bleu
第四回
【浅い眠り】
作:カゴメ
10P

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グラスの淵まで注がれたオレンジジュースは、梓がスパゲッティ・ボンゴレをテーブル
に供するまでのわずかな時間で飲みつくされた。
「あーっ、生き返るよ」大きく息をつき、ミチルは物を口に入れたのが遠い昔であるか
のように大げさに伸びをする。 事実この街にたどり着く前、最後に自分が何を食べた
かなど思い出せないのだからその感動はあながち的外れではない。 管理人室を兼ねた
梓の部屋は、年頃の女の子の部屋に相応しく程よい広さとアイボリーを基調とした壁、
若干の飾り気を漂わせる調度品が整然と位置していた。 無骨なデザインのテレビは、
寧ろ似つかわしくないとも思う。 「あはは、あの暑い中飲まず食わずでいたんじゃね
……」深い緑のエプロンの下に薄いピンクのカットソーと膝下までの黒いクロップドパ
ンツに着替えていた梓はテレビのリモコンを出鱈目に弄りながら、電子の窓に映し出さ
れる他愛の無い原色の世界を眺めている。
「ねえ、環クンは呼ばなかったの?」アサリの香りを漂わせたパスタをフォークに巻き
つけながら、ミチルは訊ねた。
「ああ、あいつ貝の入ったものは食べられないから。 ついでにキノコと沢庵とセロリ
も駄目」
「わかるわかる、好き嫌い多そうだもんね」
「とんでもないお子様味覚。 でも何が腹立つって、あいつケーキなんかはホール食い
するくらい甘い物は大好きなくせにあの体型でしょ? 見ててがっくりするよ。 こっ
ちが太らない為にどれだけ涙ぐましい努力をしてると思ってんのさあ」
「わ、そりゃ全女性の敵だね」ミチルの脳裏に、日差し照りつける路地裏で出会った環
のシルエットが蘇る。 流れるようなスレンダーの身体を包む少女の記号。 ふとミチ
ルは、他愛ない会話の流れに任せて聞きそびれていた疑問を口にした。
「……ねえ、環クンって、なんで女の子の服装してるのかな」
アサリを突付くフォークの手を止め、梓はミチルを静かに見つめた。
「おかしい、と思う?」
「おかしいっていうか、気になるじゃない。 少なくともおしゃれでやってるとは思え
ない。 言葉遣いも普通に男のコだったし、女のコになりたいわけじゃないんでしょう
?」
「――環ちゃんは、籠の中の鳥だから」答える梓からはそれまでの親しみに満ちた表情
は消え、さながらミチルの反応を観察するような目の色をした。
「紙に描かれた後ろ姿の女の子。 記号の集まり。 あるはずのない銀色の鐘」
「銀色の鐘? あずあず、それってどういう――」意味の通らない比喩らしきものを前
にミチルは思わず身を乗り出す。
「……ねえミチルちゃん、人ってさあ、誰でもなりたい自分ってあるじゃない? キレ
イだったり、友達がたくさんいたり、才能があったり。 そのためにみんな、いろんな
努力をして頑張るじゃない、それぞれの願いの為に。 ……それは女も男も同じだよね
? でも環ちゃんのなりたい自分は、環ちゃんじゃないんだよ。 才能があっても、ど
れだけ女にモテても、お金があっても、環ちゃんが環ちゃんでいる間は、あいつはなり
たい自分にはなれないんだよ」梓は言葉をひとつひとつ探しながら、明確な答えを回避
しているように見えた。
「なりたい自分、じゃなくて他人になりたい、ってこと?」ミチルの言葉が、再び沈黙
を促す。 二人の間に漂うスパゲッティの湯気が、徐々に萎んでゆく。 冷蔵庫の稼動
音が響き渡る。
「ミチルちゃんは、なりたい自分っていうより、もとの自分に戻りたいんだよね」沈黙
を破ったのは梓のほうだった。
「ン、そう、なんだけど……」あいまいに頷きながらミチルは、「ねえ、話振っといて
なんだけど、ご飯食べてもいい? もうおなか減っちゃって」ため息混じりに懇願した。
 中途半端に手をつけられた料理を前に、空っぽのお腹が悲鳴を上げたのだ。
「あ、うん、もちろん」梓の表情にも、急に微笑が戻る。 会話の流れがミチルに、
(何か、話せないような理由があるんだ)との猜疑心の欠片を宿させたとしても、今は
語りつくすべきではないだろうとお互いに結論づけさせた。
「うんっ、こんな美味しい料理食べたの初めて!」
「あはは、記憶喪失で前に何食べたか覚えてないから、なんて言わないでよね?」

※   ※   ※

天井に規則正しく配置された蛍光灯が照らす廊下の静寂を、サンダルの足音でかき乱し
ながらミチルは自室へと足を運んでいた。
アパートに備え付けの浴室でシャワーを浴び終えて汗は一通り流すことはできたものの、
レンガ道を蒸すように照り付けていた太陽のなかを歩き通した両足は、今も泥沼に沈み
そうな疲れを残していた。 着替えなどは当然無いのだから、梓のパジャマを借りては
みたもののミチルには少しだけ肩口が圧迫されるように感じる。
(どういう、意味だったんだろう)梓の言葉がリフレインする。
……環ちゃんは、籠の中の鳥だから。
……環ちゃんが環ちゃんでいる間は、あいつはなりたい自分にはなれないんだよ。
自分の記憶喪失を棚上げして、なぜ環のことをいちいち気にしているのだろう。
空っぽの自分と向き合うのが怖い? それとも記憶を取り戻したときの自分が、『なり
たくない』自分だったらって考えて、逃げてる?
ミチルは不意に、自室のドアの前で身を翻して、廊下を反対側へと向かった。

白の鉄扉の脇に、申し訳程度にチャイムのブザーが据え付けられていたが、押せども空
しいプラスチックのこすれ合う音だけがする。
チャイム自体が故障しているのだろう、そうミチルは思ったが、一方で環が来客を意識
してそれに見合った準備を整えるタイプとも思えなかった。 しかたなくミチルは右手
で軽く拳を作ると、鉄扉を二、三度ノックした。
「何だよ、梓……もう寝てるよ」若干の間があって、鈍い声が届く。 梓に浴室を案内
されたときには、眠るには少しだけ早い時間だと認識していたが、声の主――環はよほ
ど疲れていたのだろうか。
「私だよ、ミチル……環クン、少し話してもいいかな」

辺りを支配していた静寂は天井の蛍光灯に体当たりを繰り返す、窓から紛れ込んできた
甲虫の類の羽音でかき乱されても無骨な鉄扉が開放される様子は無く、環自身もまた気
配を殺したかのように物音ひとつ響かせることがない。 「環……クン?」再び冷たい
鉄扉に手を触れて呼びかける。
「そこでいいならね」
部屋には上げない、という意味のことを告げる声が返ってくる。 昼間と少しも変わら
ない、気だるさが纏わりつくような、無愛想で他人の干渉を拒む声だ。
(……この偏食!)環には聞こえないように呟きながら、冷たい扉に身体をもたれ掛け
る。「寝てたのにごめん、ちょっと聞きたくて――」
「ああ、良く寝てたのに……今日も素敵な一日だったからね」
「何それ、嫌味のつもり?」
「まあいいさ、母さんにも連絡しないといけないからね……それより話って何?」
梓のように、環も母親と離れて暮らしているのだろうと、ミチルは理解した。 「昼間
も聞いたと思うけど、環クン、どうして女の子の制服着てるの? 女の子になりたいわ
けでもないのに」
少し間が開いて、「呪われた制服でね。 教会でお金を払ってお払いしてもらわないと
脱げないんだけどさ、その寄付金がなくてね」
考えたらしい割りに面白くない冗談を無視して、ミチルは開け放たれた窓を振り返る。
幾重にも重なり合った木の枝が、その古ぼけた窪みさえも廊下の照明で映し出されてい
る。
「あずあずは、環クンは籠の中の鳥だって言ってた。 呪われた勇者でも鎖に繋がれた
囚人でも同じことだと思う。 環クンがなりたいのは違う自分……なんだよね、私がな
りたいのはもともとの自分。 でも私は、本当に記憶を取り戻したいのか、よくわから
ない。 だって、記憶が戻ったって、それがどんな自分か全然わからないんだよ? そ
れが好きじゃない自分でも、無条件に受け入れないといけないんだよ?  このままじ
ゃいけないってことはわかってるけど、これから……どうしていいかわからないんだよ」

重なることの無かった視線。 扉の隙間から微かにこぼれる灯火と、囲繞する暗闇。 
そして沈黙。 漣のように緩やかで、潮風のように冷たく時は流れている。
縋るもののひとつも無い少女に、結局環は慰めも励ましも見つけることは出来なかった。
 ひどく空虚な言葉ばかり、こんな時にはよく浮かぶものだと思う。
(大体あの子をここに連れてきたのは、梓だし――)そう責任逃れの言葉を呟き、洗面
所の照明を点灯して、鏡に映し出される少女の姿を眺める。
つい先刻までこの姿のままベッドに横たわっていたのだから、袖のあたりに皺が残って
いる。 環には再び、眠りに断ち切られた思考が蘇る。
(……僕が、籠の中の鳥か)それが自分のしたいことが自由にできないという意味なの
か、誰かの意思で生かされているという意味なのか。
だとしたら、それは誰の所為なのだろう。 水道の蛇口を乱暴に捻り、勢い良く噴出し
た水を両手に掬って顔にこすりつける。 鏡に映る崩れた表情の自分が、堪らなくおか
しかった。 滴り落ちる水と化粧品の雫にまみれた自分は誰のものでもない、環という
少年だけのものだからだ。
『一日を素敵に生きた人だけが、深く穏やかに眠ることが出来るの。 穏やかで優しい
眠りは、目覚めと共に訪れる新しい一日をより良く生きるためのエネルギーになるの。
 だから……、どんなに辛い日でも、必ず一つだけ素敵に輝く何かを見つけなさい……』
優しい声が、環の耳に不意に届く。 涼風のような、声が。
「……そうだね……ごめん、母さん。 明日は……必ず眠れるようにするから」

探す、と決めた筈の自分自身。 見つける、と誓って自らに与えた「ミチル」という仮
初めの名前。
肉体も精神も既に疲労の限界で、ベッドの供する安らぎに身を任せることしか出来なか
った。 しかしそのなかでも思考だけは止むことはなく、無理やりに閉じた目は開け放
した窓から吹き付ける潮風が室内のさまざまな生活の残滓を掻き乱していくさますら映
すことはなかった。 掃除は梓の言うように、何時間後かに明るくなってからで構わな
い。
「おかあさん、か」環の、何気ない一言が思い出される。 彼や梓がそうであるように、
自分にも肉親や、それに近しい人がいるのだろうか、と思う。 今この場で「おやすみ
なさい」の一言を掛けてくれる誰かがそばにいたとしたら、それが良いものであれ悪い
ものであれ、混沌とした精神と肉体の副産物である夢の世界へこのまま直ぐにでも埋没
できるのかもしれない。
視界を塞ぎ、耳を澄ませども響くのは波の音だけの室内で、夢のひとつも与えてくれな
い浅い眠りだけがミチルに優しかった。

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