▼女装小説
L' oiseau bleu
第四回
【浅い眠り】
作:カゴメ
9P

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「……炬燵」
雑然とした生活の匂いを残した薄暗い部屋のなかで、その異質さ際立つ存在に梓は苦笑
いを浮かべ、ミチルは付け足すべき言葉を見失う。 テーブルの上には煤けたグラスや
空のビール缶、紙皿、真ん中で手折られた割り箸、丸めたティシュペーパー、床に転が
っているファッション誌の表紙には妙に逆立った睫が印象的な美人の笑顔の上に「春物
特集」のポップな文字が躍る。 季節を二跨ぎした外界から放逐されたかのごとく静止
した空間に、海との距離がそう離れていないことを告げる波音がカーテンに閉ざされた
窓の向こうから響く。
「こりゃ、手こずりそうだね」
「……あずあず、片付け手伝ってくれてもらってもとっても助かるかもしれないよ?」
「やだなあ、ミチルちゃん。 言葉の使い方まで記憶喪失?」呆然とした表情のミチル
を振り返りながら、梓は部屋の照明を恐る恐る点灯させるとそこには、最早二の句をつ
けるのも躊躇われる光景が二人の眼前に浮かぶ。 散乱した塵芥、乱雑に並べられた本
に映画のディスク、足元で複雑に絡み合うノートパソコンやらテレビやらのコード。 
生活空間と物置との極めてあいまいな境目のなかを、二人は忍び足で歩を進めた。
「と、とりあえず寝るところだけでも確保しないとね……掃除は明日、明るくなってか
らでいいから。 それにしてもナカジさん、いくら夜逃げったってこりゃ散らかしすぎ
だよ……これが本当に女の部屋?」梓の一人言に耳を傾けながら、ミチルの胸中にはふ
と違和感が生じる。
生活の匂いが、あまりに強すぎるのだ。
確かにかつての部屋の主は、『街』のかつての住人の大多数がそうしたように『大陸』
へ移り住んだのかも知れない。 とはいえ、災害に直面したくらい逼迫した事情でも無
い限り家具や生活用品の類をそっくりそのまま残置することなどありえるだろうか? 
まして女性なのだとしたら尚更、手放すことの出来ない品の一つや二つ、必ず存在する
筈だ。 ……記憶喪失の自分ですら、どのような価値を有しているのかわからない物に
まみれたバッグを肌身離さず抱えてきたというのに。
「これじゃ、突然いなくなったみたいだよ」
「そりゃそうでしょ。 引越しの挨拶してから夜逃げする人なんかいるわけないじゃん、
大体ここの人、家賃2ヶ月滞納してて――」
ベッドの周りに積み上げられた本やゲームソフトの大群と格闘している梓は何を当然の
ことを、というふうで取り合おうとしない。
……ミチルは内心、笑われるかも、と思う。
「ううん、そういう事じゃなくて。 ……言い方変えるね、ここに住んでた人……消え
ちゃったみたいだね」
「消えた、って? ああ、宇宙人にでも攫われたのかもしれないね」
「もっと身近なところで、なにか事件に巻き込まれたとか。 こんなに物を残して引っ
越すなんて、変だよ。 警察に届けたほうがいいんじゃない?」
梓もさすがに動きを止めて、腕組みをする。 「警察か、とりあってくれれば良いけど。
 家賃も回収しないといけないからねえ」
この『街』の警察は捜索願いに対応しないほど職務怠慢なのか、と問いかけようとして、
ミチルは梓の勘の良さに驚かされる。
「さっきも言ったように最近、『大陸』に逃げる人たちが多いんだよ。 きちんと転居
の申請したり家族を頼って行くのは可愛いほうでね、何せ観測で1センチ水位が上がれ
ば50人は『街』からいなくなるって言われてるからね。 なかにはアテもないのにパ
ニックになって夜逃げしたり、逆に『大陸』にいられなくなってこっちに逃げてくるの
だっているんだよ……ここに前住んでた人もちょっとワケありみたいでね、あてになら
ないんじゃないかな」
「『大陸』にいられない人って?」ミチルはあえて、話の腰を折ってみた。
「追われてる人」梓は漠然とした単語を、しかし淀みのない声で答えた。

夕ご飯出来たら呼ぶね、と言い残して梓が階下の自分の部屋へと戻ってから、少しの時
が過ぎた。
(追われてる人、か)自分もそうしてこの街にたどりついたのかもしれないとミチルは
思う。 それならば寧ろ、救われる。 ……自分を知っている誰かがこの世界にいるの
だから。
一人きりになった部屋が、相変わらず散らかったままなのに急に広々と感じられる。 
埃に煤けたカーテンを押し広げて、窓の向こうに遠く広がる『大陸』の街灯りを見渡し
た。 その光点は暗く広がる波の揺らめきを輝かせながら、頭上に見えるはずの星の海
を、丁度鏡のように映し出している。
それは遠くない未来に、物言わぬ建造物すべてを飲み込む獰猛かつ貪欲な獣。
あるいはごく近い未来に、育まれたあらゆる生命を故郷へと還す導き手。
俄かには信じがたい御伽話のような、しかし神秘と郷愁を何処かに秘めた終末を思い出
しては、静寂に空想の紙飛行機を放り投げた。

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