▼女装小説
L' oiseau bleu
第三回
【願いと想い】
作:カゴメ

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「……つまり、環ちゃんはミチルちゃんの記憶が元にもどるまで手伝ってあげる、って
言ったわけね。 うんうん、男のコ男のコ」勝手に納得した表情の梓は、すぐ脇で揺れ
ている袖口までに伸びた黒髪を軽く撫でてやる。
「手伝ってあげるなんて一言も――」その環は、前方のカーブを緩やかに曲がってきた
セダンのヘッドライトに思わず目を細めた。 視界に残る赤と緑の残像が舞台の緞帳の
ような揺れ方をして、その向こうでは髪の先からつま先まで、雨に射たれてしとどに濡
れた少女の姿へと変貌する。 彼女は笑っているのか泣いているのか、或いはその両方
を意味しているのか、小さな口元を歪めている。 (――またか)環は舌打ちをする。
……珍しい事態では無かった。 子供の頃から時折、誰かにいつも見られて――監視さ
れているというほうが正しかったが、いるはずのない人の視線を感じることは幾度かあ
った。 それは水路に立つというよりも水面に浮いている老人であったり、誰もいない
はずの集合マンションの一室から覗く若い女性の視線であり、幽霊さながらのようにも
見えるが、薄気味の悪さという以外の共通点は乏しく、その視線は環に何かを訴えかけ
るでもない、実験動物を見るかのような好奇の目だった。 生気に満ちた、明確な意図
のある目だ。 ――いずれにしろ人に話せばどれも怪しまれるような話ばかりである。
 そのことがより環を無口にさせ、孤独にさせてきたのかも知れない。
「……だから、私は環クンに借りを返さなきゃいけなくて、それで何か仕事をさせてく
れって言ったんだけどね……」
ミチルの声でふと、我に返る。 彼女としては行きがかり上とはいえ、偶然出会っただ
けの環に行き帰りのバスの運賃に加えて植物園の入場料までも払わせてしまい、ただサ
ヨナラする訳には行かないと考えているらしいのだ。 その殊勝な心がけには協調性の
乏しさで知られる環といえど感心せざるを得ないが、同時にこれ以上係わり合いになる
のは願い下げたいと思う。 そもそも、自分のどういう言葉を以てして『記憶を取り戻
すのを手伝ってもらえる』などと判断したのだろう?
「仕事って言ったって、何してくれるのさ」
「うーん、炊事に洗濯、お買い物……ほかには掃除、片付け、肩たたきに――」
指折り数えるミチルの前で、両手を大げさに広げてみせる。
「もういい、このうえ家にまで来られたら却って迷惑だ」にべも無い環の言葉に、ミチ
ルの表情が曇る。 思いついたままに口にした言葉だったが、あわよくば住処の確保を
と、全く考えていなかった訳ではない。 だからこそ、環の当然すぎるほど当然の対応
も十分理解できる。 
「……ふむ」二人のやり取りを傍観していた梓が、腕組みをしながら唸る。
「そもそも環ちゃんが彼女に貸したお金って、どのくらい?」
「それは」ミチルには聞きなれない、貨幣の単位を口にする。 やはり私は、この場所
にいるべき人間ではないのだろうと、漠然と思う。 社会における貨幣の存在は(ミチ
ルの認識する)現代では、言語とほぼ同レベルの重要なウェイトを占めていることは明
白であり、そのシンプルながらも高度なシステムに適合できなければ、文字通りの放浪
者だ。
「もう良いよ、私は」細々と零れる掠れた声を遮るように、梓は幾枚かの紙幣と銀貨の
ようなものを取り出し、それを環の掌に握らせた。
「梓、これは?」環の目が点のように丸くなる。
「だから、これで環ちゃんとミチルちゃんとの間に貸し借りは無し! 今から私が、ミ
チルちゃんの身元引き受け人。 問題ないでしょ?」
今度は、ミチルの目が丸くなった。 「身元引き受け人、って……梓さん?」
「あずあずって呼んでよ、これから暫くは一緒に暮らすんだから」
「マジか」その言葉に何故か、環のほうが早く反応する。
「暮らすって、梓……あ、あずあずのところで?」たどたどしくそのあだ名を呼びなが
ら、ミチルの心中には複雑なものがこみ上げる。 梓にしてみれば助け舟を出してくれ
たつもりなのだろうが。 つい今しがた出会ったばかりの相手を自宅に迎え入れる行為
の突飛さを考えると、翻って自分が環に対して申し出たことの不躾さを思い知らされる。
「困ったときはお互い様。 第一、とても『大陸』から来た風には見えないからねー。
 ほら、そこが私のウチ」点滅する街灯がぼんやりと、二階建てほどの古ぼけたレンガ
造りのアパートを映し出している。 吹き付ける風にところどころの窓が軋んだような
音を立てている。 ミチルは昼間、こんな古風なつくりの建物を何度も見てきたことを
思い出した。 「ここが、あずあずの家?」
「そう、そして……」相槌をうつ梓がゆっくりとぼんやりとした表情の環を振り返って、
「環ちゃんの家でもあります」小さな口から白い歯を覗かせて笑った。

外観のわりに通路に煌々と電灯の灯ったアパート内は明るく、一方で人の気配も生活の
匂いもほとんど感じ取れない。 「住んでた人は、みんな『大陸』に移っちゃったかん
ね」
もともとアパートの管理をしていた梓の両親は、住人が居なくなったことで糧を得る手
段を失ったため、一年ほど前から梓を残して『大陸』へ働き口を求めて渡ったらしい。 
『街』は、いつかは周囲に広がる深く冷たい蒼の海に飲み込まれる神秘と、同時に恐怖
にも支配されていた。 その事実は安住を求める人々の心を『大陸』への退避へと促し
た結果、梓の両親に限らず労働力となる成年層――残された梓や環たちはひとくくりに
大人、と呼ぶ世代は次々に、『街』を離れてゆくことを余儀なくされていたのだ。
そこで、空き家になったアパートを一部屋づつ、環を招き入れて利用している。
「私はただ、この街が好きだったから残っただけなんだけどね。 むしろ、私が親を置
いてけぼりにしたのかな……で、環ちゃんはガードマン代わり。 もっとも、見た目こ
んなだから私のほうが役に立つかも知れないけど」
「こんなで悪かったね。 一人だと不安だの怖いだのって喚いてたのは――痛っ!」
抗議する環の右腕を笑顔で捻り上げる梓は、二階の最も南に位置する部屋の前で足を止
める。
「ミチルちゃんは、ここに住んで。 前住んでた人が散らかしてるかもしれないけど、
テキトーに掃除して。 中の物は何使っても構わないから」
そう言うと梓は、鈍く光を反射しているドアノブに手をかけた。

               ※   ※   ※

環は部屋へと入ってゆく二人の姿を確認してから、自分に割り当てられている部屋へと
戻り、うっすら汗ばんだ制服を着替えることもせずに、カーテンを閉め切った薄暗い自
室のベッドに身体を横たえた。
「……変な一日だった」思わず言葉にする。
記憶喪失――実際なってみたら当然、大変なのだろうけど。 環はその四文字にどこか、
心惹かれていることを自覚し始めていた。
今とは違う自分。 今よりもっと輝いてる自分。 もっと、好きになれるはずの自分。
……そんな自分になれるなら、今日までの全てを失ってもいいと思えるのだろうか?
もっと恵まれていて、周りにはいつも誰かの笑顔があって、自分も笑っていられて。
……そんな自分になれるなら、失っていいと思えるほど、僕の周りは無価値なものばか
りだろうか?

そして、偽りの女の子の姿。 偽りの自分。

「いや」いっそのこと、何もかもを失っても本当の女の子になることが出来たら、それ
は安い犠牲なのかもしれない……。
「……危ない、かな」そこまで思考をめぐらせて、環は疲労の波に包まれるように枕へ
顔を埋めて意識の流れを断ち切ることにした。

浅い眠りは不意に醒めた。
視界は完全に闇に断ち切られている。 ドアの向こうから響くノックの音に振動する室
内の空気は静寂に沈んだ佇まいを一変させる。 もとより物の多くない室内を、環は何
かにぶつかる事もなく玄関へと歩み寄った。 乱れる長髪を手櫛で整えながら、ドアの
向こうに叫ぶ。
「何だよ、梓……もう寝てるよ」梓のちょっかいは珍しいことではなかったが、声の主
は彼女のそれより少しトーンが低い。
「私だよ、ミチル……環クン、少し話してもいいかな」
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