▼女装小説
L' oiseau bleu
第三回
【願いと想い】
作:カゴメ

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波止場の灰色に煤けた路面を蹴りつける靴音が響く度に、痩せた海鳥が飛び立って行く
空は夕暮れの薄桃色に染まりつつある。 まばらにいた子供達が家路を辿る、伸び縮み
する影を見送りながら、梓(あずさ)は波打ち際に座りこみ、脱いだローファーとハイソ
ックスを放り出した。 跳ね上がる飛沫が、火照った足元を優しく濡らす。
ショートボブの髪は潮風のなすままに乱れ、額に滲む汗を散らしてゆく。
「んーっ……」両手をコンクリートに着け、軽く背中を反らして伸びをすると、首から
顎のあたりを撫でる冷たい空気に、図らずも穏やかさを感じる。
涼しげな笑顔を浮かべられる、宵闇に沈む刹那がこの季節の彼女にとって最も幸せを感
じられる時間なのだが、今日に限ってはセーラー服を鼠色に染める汗のように不必要な
疲労が纏わりついていた。 (環ちゃん、さきに帰ってるんかなあ)待ち合わせの約束
で互いを縛るのが嫌いな性格が、梓にとっては災いした。
「たまきぃー、どこ行った? しょうがないから、面白くなさそうな映画借りて来ちゃ
ったぞー!」探し人など見つかる筈もない水平線の向こうへ小さな身体には似つかわし
くない張りのある声を出すと、その声に呼応した訳ではないだろうが、背後で到着した
バスの鈍いエンジン音がする。
梓はその時代錯誤な外観も、環境保護の風潮に逆行するかのような排気ガスの濃い灰色
も嫌いだった。 猫のような両眉をしかめて振り返ると、自分とは対照的な長身の見慣
れたセーラー服姿の、しかし肩や腰までに流れる直線的なラインと端正な反面、違和感
のある尖った顎――風に揺れる黒髪がカーテンのように時折隠す、何時もながらの不機
嫌そうな顔立ちで、なにごとかを呟いている姿が見える。
……独り言の多いタイプではないから、誰かと話でもしているのだろう。
「待ち人来たる、だね」そう口にして立ち上がる梓は、立ち上がって駆けだそうとする
と、自分が裸足だったことを忘れている。 藍色のスカートを翻してローファーに足を
通すと、待ち人――環の表情は露骨に、『面倒な相手に会った』そう言いたげな翳りを
落とした。
「……だから、それじゃあ私の気が済まない!」
環の背後から不意に女性の声がして、人影がバスのタラップを乱暴に駆け下りてくるの
が見える。 梓はその姿を注視した。
……年齢は、自分や環とそう違わないだろう。
男性としてはそう背が高いほうとは言えない環と比較して、頭ひとつ程度低いだろうか。
鮮烈な白地に紺色の半袖のコントラストが目を引くカットソーは制服姿の目には涼しげ
で、少し着古したようなデニムのミニスカートと薄手のウエスタンブーツが少女の快活
な印象を強調させている。 それだけにピンクのハンドバッグは浮いた印象を受けるが
シャギーの目立つボブカットと、怒っているようだがどこか人懐こそうな視線が、梓に
好感を覚えさせた。
「おやおや、環お坊ちゃんもいつの間にやら女連れ――」
「別に、君の気を済ませてやる必要はないだろ」およそ恋人相手にかけるとは思えない
言葉を、振り向きざまに放つ。
「冷たい、環クン。 さっきはあんなに格好いいこと言ってくれたのに」
「口説かれたの?」梓は、環の脇を素通りして背後にいた――ミチルに声をかける。
環の肩から顔を覗かせる、幼げな顔立ちの少女の突然の言葉に、
「僕の肩越しに、会話するなよ」遮ろうとした環に、両耳にステレオで、
「この子、知り合いなの?」「こちら、環ちゃんの彼女?」同時に異口同音で質問が飛
んだ。

               ※   ※   ※

真夏の空にも緩やかに夜の帳が降り、三人にはよくわからない種類の虫たちが点り始め
た街灯に集うなか、歩きながらの自己紹介が始まっていた。 女の子二人を引き連れて
夜を漂う真似はしたくないとの、環の配慮からである。 最低限、梓だけでも帰らせな
ければ――そう思いかけて、逆にミチルの身を案じざるを得なくなる。
(やっぱり、警察に連れて行ったほうが良かったんじゃ)
ふとセーラー服の裾を引っ張りながら、視線で紹介を求める梓が、思考を中断させる。
「こっちは、梓。 小さい頃からの腐れ縁で、学校もずっと一緒」環と比較すると姉妹
ほどに背丈の違う頭を撫でながらこれでも僕より一つ上だ、と付け加える。
「これでも、は余計。 梓です、人には『金曜日のあずあず』って呼ばれてるけどね」
頭に置かれた手を乱暴に振り払う梓を見て、ミチルは瞬時に二人の間の距離感や呼吸を
把握して、苦笑する。 (私にも、こんな風に言い合える誰かがいたのかな)一度は人
と、世界との関わりを絶たれたことに対する自覚が、すぐ傍にいる筈の彼らが隔たりの
ある存在に見える。 不意に足を止めたミチルは、そのことに気づかない判で押したよ
うなふたつのセーラー服の背中を見送る。
――このまま私が消えてしまったら、あの二人はどう思うだろう?
風に舞う鳥の羽のようなつかみどころのない妄想が、滑稽に感じられる。
「僕は呼んでないぞ、第一金曜日ってなんだよ?」
「そもそも環ちゃん、この街学校は小中高と一つずつしかないじゃんっ」
「質問に答えろって」
「うっさいなあ、だいたい今日だってビデオ借りに行くから校門で環ちゃん待ってたの
に……デートならデートって先に言えばいいじゃん」
「デートじゃない、たとえそうでも梓に話す必要は――」
「あー、それで、私のことは? 環クン」
売り言葉に買い言葉が続くなか、数メートルほど距離の開いたところで呼びかける。
「ととっ、ごめんごめん……あなたのこと、何も聞いてなかったよね」
子供の無邪気さを丸出しにして駆け寄る梓を見送る環の唇が、開きかけて止まる。
どう説明すればいいんだよ――代わりに不確かな視線がそう言っていた。
「さっきから気になってたんだよね、『格好いいこと』ってそこのお坊ちゃん、もとい
お嬢ちゃんに何を言われたのかがさ」好奇心と野次馬根性は似て非なるものだと、環は
その不躾な態度をいつかは諌めなければいけないと思ってはいたが、ミチルの表情もと
くに不快感を露にするようなものではなかった。 寧ろ、よくぞ聞いてくれましたとで
も言いたげな環には癇に障る、女の子特有の笑い方をする。
(ホントの女同士って好きだからかな、そういう話が)環の記憶している範囲では、あ
る男性アイドルユニットの二人の間柄が云々と力説していたときの梓の表情が、それに
近い。 「あははっ、気になる? それがね……」
もともと環は、口が上手いほうではない。
僅かな時間の接触ではあったが、ミチルもそのことは十分に理解できていたから、自分
の口で、言葉で梓に『気づいたとき』からの全てを話すことにした。

自分には、今日の昼下がり以前の記憶が殆ど無いこと。
なぜこの街にいたのか、ここが何処なのか、時間や貨幣の感覚など、人間社会で生きて
いく為に必要な最低限の知識すら、ところどころ欠落していること。
決して鳴り止むことのない、実在しない銀色の鐘。
何時かは海に沈むとされている街並み。
見覚えのない、すがり続けていた幻想とは違う姿を見せた植物園。
舞い散る噴水の飛沫のなかで見知らぬ花の名前と自分を同化させて、再び世界にその手
を差し出した瞬間。
そして、何を信じて良いかすらわからないこの場所でその手を伸ばしてくれた、せせら
ぎのように靡く黒髪と淡く輝く瞳を持ち、スカートを穿いた理屈っぽさと無愛想のなか
にほんの少しの優しさの粒子を持った少年。

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