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 目の前の噴水が跳ね上がり、うっすらと小さな虹を掲げている。
 群生する無数の薔薇は瑞々しい香りを漂わせ、噴水の飛沫にその身を晒すことで涼を得
 るかのように華やいでいた。 噴水に足を浸し、駆け抜けようとする小さな子供を母親
 の手が遮る。 確かに私の記憶には、そんな静止させてしまいたい時間が流れていた。
 穏やかで、涼しげで、幸福感と呼べる時が。
 
 けれどそこに、風を震わせて響く、銀色の鐘などは見つけることはできなかった。
 通りがかる誰も、樹木のように立つその釣鐘のオブジェなど、見たことがないという。
 耳を澄ますことも目を凝らすことも無意味で、私は予想していたほどに混乱することも
 なく、噴水の傍らに座り込むことしか出来なかった。
 「薔薇園は……ここだけみたい」環がパンフレットに再び目を通すが、思っていた通り
 の回答をする。 仮に他の薔薇園があったとしても、それは私の脳裡に何も呼び起こす
 ことは無いだろう。
 「少しでも……何か思い出せた? 探してたのは此処――」
 「無理、全然ダメ」
 「どんな小さなことでもさ、思い出せれば」
 「……ごめんね、環クン。 迷惑かけて引っ張りまわして、女の子の格好のままで」
 ――どうして良いのか判らないから、何も出来ることはない――
 「やっぱり私、最初に環クンに言われた通り、警察にでも行ってくるね。 そうすれば
 ――」視線を合わせる気力も沸かない環の言葉を待つ。 少しだけ噛み合わない会話は、
 平行線のままなのが可笑しい。
 「名前くらい、思い出せないの」
 「……そんなの、もうどうだっていいよ、名前なんて……記号でしかないじゃん。 私
 は……私は、本当はここに居ない、いちゃいけない人間なのかも」
 環は私の隣に座り、その瞳に写る私の翳りに語りかける。
 「でも、君はここにいて、誰も追い出そうとしない……だったら、君は自分が何者か、
 何をしたいのか、知ろうとしてもいいんじゃないかな……探せばいいと思うよ、見つか
 るまで。 誰も自分の名前を呼んでくれない世界がどれだけ寂しいかなんて、どう伝え
 ればいいのかわからないけどね」言葉を曖昧に切ろうとする環の寂しげな瞳に映る空の
 色は切なく、それは私の目にも宿る同じものを洗い流すかのように見えた。
 薔薇は名前など与えられなくても、薔薇であり続けることは出来る。
 人がヒトとして生きることを望むなら、たとえ仮初めでも人の間で存在しなければいけ
 ないのなら、私は私であることを、彼に伝えよう。 今日という日を共に歩いてくれた、
 見知らぬ誰かがいつかその名を呼んでくれることを願って。
 「……ミチル」私は不意に視界に移った「光流」と書かれた小さな立て看板を読み上げ
 ていた。 そこでは、舞い散る水しぶきの向こうに、薄桃色の小さな花を開いた薔薇が
 透き通るほどの青空から降り注ぐ陽光を浴びていた。
 
 銀色の鐘は鳴り続ける。
 忘却の彼方に全てを棄てられた少女の胸に。
 銀色の鐘は待ち続ける。
 スカートを穿いた少年が痛みに目覚める遠い日を。
 いつか失われた、果たされぬ約束の時を臨み、清んだ音色をたたえながら。
 
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