▼女装小説
L' oiseau bleu
第二回
【薔薇の名前】
作:カゴメ

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 ――『気づいた』時、私は怠惰に揺れる夏の入道雲に見下ろされながら、古びた人気
のない街並みを見下ろしていた。 その光景は初めて目にするものだと断言することは
憚(はばか)られるものの、自分が何故そうしていたのか、どのような経緯を経てそこに
いるのか、説明しろと言われれば私は言葉も思考も失うよりほか無くなる。
 『よーい、ドン』と言われて駆け出して行く子供たちですらできる説明が、私にはシ
ンプルすぎるだけに複雑な理由で出来ないのだ。

 ただ、導くものはあった。 目指すべきゴールなのか、そこがスタートラインなのか
はわからないままに。
覚醒すると同時にただひとつの目的のためだけに動くという意味では、私は人間よりも
電源を入れると同時に動き出す機械に近いのかもしれない。 少なくとも今は。

               ※   ※   ※

「……だから、記憶喪失って言っても、生まれたばかりの赤ちゃん状態ってわけじゃな
くて、周りの何もかもがわからないって訳じゃないの。 夏は暑くて冬は寒い、水は冷
たくてお湯は熱い、朝と夜だけ飲めば効く! ……第一、何もかも忘れてたら、こうや
って会話もできないと思わない?」
 ガソリンの匂いがまとわりつくようなバスの車内に乗客は私と環だけで、その環は先
頭の窓際の座席に腰掛けた私から離れていくように最後尾の、私とは反対側の窓際へと
歩いていった。 背後を振り返ってその様子を見ると、脚をくみ上げて窓の枠に右肘を
ついた姿勢で、座ったというよりも半分寝転んでいるというのに近い。 ついさっき名
前を知ったばかりの、髪を伸ばしてスカートを穿いた少年の横顔は今にも寝入りそうな
のに眠れない、そんな不快感を滲ませながら、私の言葉を遮蔽するでもなく、冷房が効
きすぎている車内の空気と一体化しようとしているように見えた。
 「ねえ、環クンってば聞いてるの? 人の話」堅く、重いバスの座席の背もたれに半
身を圧迫されながら問いかけるが、途切れ途切れに動く唇は、耳を澄まさなくても質問
に関係のない独り言をこぼしているのだと判る。 席を立ち、バスの進行方向を反対に
歩く。 二度ほどよろけながら環との距離を詰めていくうちに、微かな声が、エンジン
音に混じって耳に響いた。
 「何で僕は、ここにいるんだろ」

……私が持っていた小銭や紙幣の類は、役立たずの文字通り金属の塊と紙切れでしかな
かった。 たとえ古銭、あるいは外貨だとしても、今は通貨として使用されていない物
ではバスには乗せられない――まだ若い運転士は、そう言いたげに首を横に振った。 
「君……外国かなんかの人なの」背後にいた環は、小銭を握り締めた私の右手と顔を交
互に見比べ、ほんの一瞬だけ戸惑いを深く沈んだ瞳に浮かべながら自分の鞄から財布を
取り出し、数枚の小銭を運転手に手渡した。 「乗ろう、君のぶんも払ったから」そう
言って私の背中をすり抜けていった環に、ありがとうの一言さえも忘れていた。
 環への感謝よりも、素性に関する情報をひとつ得たことに対する驚きと、相反する安
心感――去来する感情は私に、更なる疑問を与えていた。 だとすれば私がいま目指し
ている場所は、銀色の鐘の響きと咽る薔薇の香りを約束してくれるのだろうか? そも
そもこの街にいる事自体、間違いでしかないのだろうか?
「何で私、ここにいるのかな」嫌な呟き方だ、と自分でも思っていた。
『理由なんかない、あったところで思い出せないのに……!』

「環クン、環クンってば」私は最後尾の座席の、環のすぐ隣へと移動した。 放り出す
ように置かれていたスクール鞄を脇へ寄せて、こちらを振り返ろうとはしない表情を伺
う。
「客がだれもいないのに、わざわざ僕の隣に座らなくたっていいだろ」
「誰もいないから、わざわざ隣に座るんじゃない」環は答えずに、窓を開けていた。
吹き込む風になびく髪から、シャンプーの香りが漂う。
「ああ、金木犀ね……私なんかお風呂なんかいつから入ってないかわかんないんだよね。
 入りたいな、お風呂。 一応、これでも女の子なんだし」
「悪いね、偽の女の子でさ。 キミ、本当に何も思い出せないの?」
「思い出せないっていうか、なんて言うのかな……私が何年生きてるのかわかんないけ
ど、その間に覚えた知識みたいのは判るんだけど……私自身のことになるとさっぱり」
「そのわりには使い道のないお金なんかを持ってる。 だいたい、どうしてこれから行
く植物園が、キミの探してる場所だってわかるのさ」
……わからない。 そんな事、私にだってわかる筈が無い。 ただ、導かれてるという
ことだけは判るのだ。 植物園で変わらず鳴り続けているだろう鐘の音も、何本もの橋
と川を越えて街をさ迷っていたことも。 不意に窓の外へ視線を逸らすと、バスが私が
通った覚えのない陸橋を超えて行く。 私は環の質問をかわす為に口を開いた。
「……歩いてて思ったんだけど、この街ってずいぶん川が多いんだね」
「川じゃない、水路。 見てみなよ」驚くほど容易に話に乗った環を見て、無駄な質問
をしたと悟ったのか、そもそも自分には無関係な話だと割り切ったのか、判断に困った
ものの、言葉のとおりに環の背中越しに橋のむこうを眺めると、船――というよりは大
きめのボートと呼んだほうが相応しいものが船頭らしい人物の手漕ぎでゆったりと水面
をかき分けていた。 まばらに乗客さえいる。 「まさか、ゴーストタウンってことは
無いと思ってたけど」思わず洩らした言葉に、環の頬が少しだけ笑ったのは気の所為だ
ったろうか。
「もとは観光客を当て込んでたらしいんだけど、それだけじゃやっていけないから、地
元の人間も乗せてるんだ」遠い目で海岸を見つめる老人のような口調の環が言うには、
もともとこの一帯は大陸から切り離された浮島のようなもので、年々水路として活用さ
れている区域の水位が上昇しているらしい、とのことだった。 或いは島としての土地
自体が沈下し始めているのか、いずれにせよ世界にも類を見ない珍しい風土のこの街は
、遠くない未来には水没することが判明していて、そのことが住民の大陸側への退避を
促した結果、街の人口は緩やかに減少しているようだ。 水路の一部は沈下した道路で
あるともされ、私が渡ってきた橋の多くは後から区画整理で架けたものなのだろう。
「勿体ない話ね、建物なんかも古風で住みやすそうなのに。 環クンは、引っ越さない
の?」
「来年再来年の話って訳じゃない、それに好きなんだ、こういう……終わりの近づいて
るものって。 切なくてさ」意味するところを聞いたところで答えてはくれない、そう
言いたげな憂鬱が環の薄白い頬に影を落とした。
「好きって割には……全然楽しそうな表情(かお)してないよ」聞こえないように、環の
座席とは反対側の窓際に向かって小さく呟いた。 『街』と『大陸』とを結ぶ唯一の橋
を渡り終え、急に通りを横切る人や車の数が増え始める。

               ※   ※   ※

周囲を雑木林で遮られた、空の高さと虫の声のけたたましさだけを嫌というほどに感じ
るそこは、植物園というよりも広い庭園と呼んだほうが良いのかもしれない。
「ここから先は案内できないよ、僕だって来たの初めてなんだから」所在なさげに周囲
の親子連れや老人たちの集団に目を遣る環を一瞥し、手渡されたパンフレットを眺める。
 見覚えのない景色ばかりを写し出した写真が多く掲載されているなか、近隣都市間で
も最大とされる薔薇の庭園がこの植物園の売りらしい。 私には植物の知識は無いから、
その艶やかに咲き乱れる薔薇たちがいかなる品種なのかは知らない。

『私の知らない薔薇の名前は、私の知らない誰かが何処かでそれを呼んでいる』

「環クン、聞いてもいい? ……その格好の理由」
パンフレットの道順に従って庭園を抜ける砂利道を、後ろから他人の視線を避けるよう
に、ときに私を急き立て、ときに身を屈める環を振り返る。
「家が貧乏で制服が買えなかったから、近所のお姉さんのお下がりを着て通ってるんだ」
「その冗談、笑えない……だいたい、周りが気になるんだったら制服くらい着替えれば
いいのに」
「……あのね。 誰のおかげでこんな所歩いてるんだ、僕は?」前から歩いてきた男の
人が、すれ違い様に環に奇妙な目を向けた。 声と外見のギャップにでも驚いたのだろ
うか。 口を右手で塞ぎ、視線を泳がせる環は、やはり自分の姿に違和感や抵抗、それ
以上に止むを得ない事情があるのだろうか。 「あとは……大丈夫だよね、僕は……帰
るから……」声にならない言葉を懸命に伝えようとする環の腕を取って、肩を併せる。
 掴んだ手のひらは少しだけ汗ばんでいて、私よりも少しだけ大きかった。
「大丈夫だよ、こうすれば……女友達同士に見えるから」
「そ……そんな訳ないだろ? ……離れてくれって! 見られてるよ!」
慌てる環の手を引きながら、琥珀色の砂利を蹴って、走る。 夏の空気の流れを斬るよ
うに、笑い出したくなる感情のまま、スカートを穿いた少年と、小さい子供のように。
「だからぁ、そんな大声で喋ったらダメだってば! 女の子は華やかに堂々と、でもお
しとやかなのが一番じゃない? コソコソ隠れてないでさあ!」
「だからって、いきなり走るなって! 大体、騒いでるのはキミだけだろ?」そう抗議す
る環の顔に、少しだけ笑顔が浮かんだのは気のせいではないと、私は強く信じた。
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