▼女装小説
L' oiseau bleu
作:カゴメ

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高めの波が来れば、その時点で街の半分くらいが水没してしまいかねない。 そう思わ
せるほど、彼方に水平線を見渡せる港全域には堤防と呼べるものが存在しない。無造作
に繋ぎ止められた小型の船が何艘(なんそう)か、波風に涼しげに揺らめいている。 時
間の流れが怠惰に感じられるのは、まどろんだ夏の午後の大気の所為だろうか。 少し
だけ前を歩く、少しだけ物憂げに首をうな垂れたり、不意に両手を風に晒す所在なさげ
な後ろ姿に駆け寄ると、靴音に反応したのかストレートの黒髪がゆっくりと振り返る。
「あっ、こんにちは」
笑顔を浮かべて手を振ったその瞬間よぎった違和感こそが、私が初めて人間を、世界を
認識できた理由なのだと気づいた。

深海のような蒼い瞳は、私の視線を吸い込むように瞬きひとつせず、しかし其処には淀
みや穢れの色を持たない、見つめられていることそれ自体に心地よさを感じる。 癖な
のか、時折髪を掻きあげる長い指は絡みつかれるでもなく、水が流れるように零れ落ち
てゆく。 ほのかに濡れた艶をたたえた唇の形を見ても率直に、整った顔立ちと解る。
 しかし、私はその愛らしい表情を賛美することから会話の契機を引き出すことはしな
かった。
「……キミ、男のコでしょ」
彼女(彼)の顔立ちが一瞬、いぶかしむように崩れる。 実際、一見完璧に着こなして
いる服や仕草では隠しようもない顎の形や露にされた筋ばった肩、腕の肉付きは、女の
コとは違った成長を始めた、男性へのステップを踏み始めている少年のそれなのだ。
「笑いたいなら、他所でやってくれるかな? オカシイってことくらい自分でわかって
たって、気分がいいモノじゃない」透明感のある、しかし凛とした言葉が響く。
「あっ、良かったぁ……言葉、通じる」端正な表情に戸惑いと疑問が一瞬だけ浮かび、
すぐに霧散した。 代わりに『関わりあいになりたくないからどこか行って』、そんな
ニュアンスの視線が注がれる。
「……なんで、女のコの制服着てるの? 確かに、上手く着こなせてると思うけど」
薄くルージュのかかった唇が、冷淡に「何か用?」とだけ答える。
「……道案内、頼まれてくれる?」私の言葉に彼は、視線を水平線にあわせたまま、先
ほど通ってきた路地とは別の方向を無言で指差す。
「……ナニ?」
「その先に交番があるから、そこで聞きなよ」
「うん……でも、今の私……お巡りさんは、ちょっとヤバいんだよね。ちょっと訳あり
でさ」警察に保護、というよりも拘束されて、再び世界という情報から隔離される訳に
はいかない。
「警察に頼れない不審者を、一般市民が相手にすると思う?」呆れた、といわんばかり
に両手を広げる。 けれど相手が女の子だと判ってる以上、あまりにも露骨に警戒する
ような素振りは見せない。
「私だって一般市民だってば! 私の道案内なんかでお巡りさんを無駄に働かせたくな
いだけよ」
「私……あ、いいや、僕なら働かせてもいいの?」クラスの席に佇んでいれば羨望の視
線を一身に浴びそうな美少女を外見以外で取り繕う気を失くしたらしい。 しかしこち
らとしては、付け入る隙があるとわかった以上、手は休められない。
「へえ、『僕』だって……男のコなら少しは女のコに優しくしてもいいじゃない」
「……初対面だってのに」なおも何か言いたげに、髪に指を絡める。 釈然としないま
でも、もう無下に拒否する気もないようだ。
「植物園の場所、知りたいの。 薔薇がいっぱいあって、その中に銀色の釣鐘があると
ころ」
「植物園って……そこのバス停から直通のが出てるけど。 20分くらいで行けるよ、キ
ミの行きたいところかはわからないけど」
五月蝿そうに答える彼の向こうで、低いエンジン音が聞こえた。 脳裏に、薔薇の香り
が漂う噴水の風景がふたたびよぎる中、私はその長い指先に手を触れる。
「ありがと。 ついでだから、現地まで一緒に来てくれない?」
「そんな暇あるわけ……」
「お願い、記憶喪失の女の子を助けると思って!」振りほどかれようとした手を握り締
めて、エンジンを振動させるバスの背中へと駆け出した。
「記憶……喪失!?」
「例えばさあ、キミの名前は?」
「は? た……環(たまき)、だけど?」
「そう、環……私、自分の名前もトシも、何処に住んでるかもわからないんだ! これっ
て、すごく困ることじゃない?」
唐突な話の流れに、言われたほうが困惑の表情を浮かべていたのが可笑しかった。

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