▼女装小説
L' oiseau bleu
第十五回
【女神の半身】
作:カゴメ
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「ごめん、環だけど。入ってもいい?」勝手知ったる部屋とはいえ、今は病人ひとりが
休んでいるところだ。一応は断りを入れ、ドアをノックする。
少しして日頃より弱々しい声がどうぞ、と告げた。
アパートの管理人室でもある梓の部屋は六畳一間程度の広さで、その奥では布団に身を
くるんだミチルが開け放した窓のほうを向いてベッドに横たわっている。手前のテーブ
ルにはこの部屋の主が気を利かせたつもりなのか、スナック菓子とアイスティーが出し
てある。
「あず、さっき出かけてった。大変だね、彼女も」
「あいつの両親が結構この辺で顔が利く人でさ。あいつも子供の頃から大人たちの間で
育ってるんだよ。地元のこういう祭りとか、手伝ってくれる若いのは重宝されるって言
ってた」年齢に似合わない大人びた、ときどきおばさん臭い振る舞いはそんなところか
ら来てるのかとミチルは思う。
「それより、具合のほうは?」
「うん、少し疲れてただけかも……。薬、あずからもらって大分楽になった」
それは良かったな、と答えて環はテーブルのアイスティーをグラスに注ぎ、自分とミチ
ルの分を用意した。
「飲むか」
「うん、ありがとう」化粧をまったくしていないミチルの頬は未だ風邪の熱に染まって
いるようで朱紅(あか)い。グラスを手に、ミルクを数滴落とした琥珀色の液体を飲み込
んでゆく唇が心なしか震えていたようだ。
「ふう、お祭りかぁ。私も行きたかったなあ」何気なく、ミチルはつぶやいた。その憂
いを帯びた横顔が環の胸に、懐かしさと新鮮さを混ぜ合わせにした果実のような思いを
抱かせる。「環クンは、行かないの?」そう問いかけられて、こちらを振り返る彼女の
漆黒の夜を思わせる黒い瞳と思わず目が合った。
「明日も……あさってまで続いてるから、後で行くよ。今日は梓から、君のこと頼まれ
てるし」
「そっか、ごめんね。こんなことになって」
「だから、何で謝るんだよ。そんな必要ないよ」沈んだような声のミチルに、思わず語
気が強くなった。「その……別に今日はどうだって良いんだよ。もともと梓ほど、お祭
りお祭り、って騒いでたわけでも無いし」
環は、喉の奥までこみ上げる高鳴りを飲み込んだ。
「だから、君の具合が良くなったら……明日にでも、あさってでも……その、連れてい
くから。もちろん、君が行きたいんだったらだけど」
灰色の空の向こうでかすかに陽光がまたたいた気が、ふたりにはした。
「ありがとう」
その一言がミチルの唇から発せられるまでの時間にしてみればほんの数秒の沈黙は、数
時間の空白のようにも感じられた。

「そういえばさ」
午後になってわずかに空が本来の明るさを取り戻してきた頃に、環はコンビニで買って
きたドライカレーを食べ終わり、ミチルの分にと用意したレトルトのお粥を器に注いで
いた。彼女の不意の問いかけに、思わずその袋を手から落としそうになった。
「前に環クンが言ってたじゃない、お祭りの最後の日に劇があるって。あれってどんな
話だったの?」
「ああ……そんなことも言ったっけな。うん、今朝丁度思い出した」誰にともなく、環
はうなずく。
台所には食べ終わったグレープフルーツゼリーのパックと、そこに小さなプラスチック
製のスプーンがある。
「梓の奴、ほったらかしにしてたな」それをごみ箱に捨てて、戸棚からさじをひとつ取
り出した。ラーメンを食べるときのレンゲのようだが、環はまあこれでも良いか、と考
えてお粥に添える。
「本当? じゃあ聞かせて? すごい気になってたんだよね」
「何でだよ、どうでも良いような話だぜ」お盆をベッドで半身を起こしているミチルに
渡す。「卵、苦手じゃないよね」お粥の中身には、環が別に用意した卵がひとつ溶いて
ある。彼自身が子供の頃風邪をひいたとき、母親がよくこうしてくれたのだ。
「イイじゃない、教えてよ。なんか寝てばかりだと、退屈だしね」
「仕方ないな。じゃあ……簡単に話すぞ。長くなるからな」環が仰々しく咳払いをする
と、ミチルは笑顔を浮かべて拍手をした。

               ※   ※   ※

遠い昔、この世界に大勢の神様がいた頃のお話です。

ある国に君臨していた女神様は、太陽が昇る昼の間だけ人々の前に姿を表すことができ
ました。
その美しさと気高さ、慈愛(じあい)に満ちた優しさはほかに並ぶものが無いと人々はお
ろか神様たちの間でも誉めそやされ、長きにわたって敬愛され続けていたのでした。
けれどある時、その評判をねたんだ他国の女神様たちが手下の軍勢を率いて彼女のおわ
す神殿へと押しかけたのでした。
『おまえの瞳は夜空の星よりまばゆく輝くと言うが、おまえ自身はそんなものを見たこ
とがないではないか。本当の星と比べてみなければ、そんなことはわかるまい』
『おまえが身にまとっているドレスは月の光で出来ているというが、おまえ自身は月が
どんなものかを知るまい。見たこともないものをお前は手にしているというのか』
『おまえがおらぬ夜の間、国のものはおまえの護りを受けることができずに闇や獣にお
びえているのだぞ。それでも人間たちを護る女神と言えるのか』
女神様が夜には消えてしまうのを承知で、無理難題を次々浴びせます。そんなとき、神
殿を訪れたある人間の若者がこのように告げたのでした。
『女神様は消えてしまうのでも、我々を護って下さらないのでもありません。確かにお
姿こそ現すことは出来ませんが、その御身はこの国のひとりひとりに星の光となって降
りそそぎ、夜の闇に浮かぶ月となって我々を導いてくださるのです』
他国の女神様たちを相手に物怖じすらしない若者に、女神様は深く感心し、同時にいつ
しか恋心を抱くようになりました。
けれど神様と人間の恋など、もとより成り立つはずもありません。そのことに心を痛め
た彼女はいつしか昼間にすら姿を表すこともなくなり、神殿の誰にもたどり着くことの
出来ない最奥で泣き暮らすのが日課となりました。
果たして国は、人心は荒れ、その隙に攻めてきた隣国によって征服されてしまいます。
わずかに残った人々の間では、かの若者が他の者達からの非難にさらされてしまいまし
た。
『お前のせいで、女神様は深い悲しみに沈まれたのだ!』そんな言いがかりとも言える
怒りによって若者は、国のはずれの岸壁から海へと突き落とされてしまいました。

               ※   ※   ※

「そして、さらなる悲しみに襲われることとなった女神様は――」
そこまで環が話を終えたとき、ミチルが驚いたようにベッドから跳ね起きる。
「女神様は、その身をふたりの女に分けて……人間として生きていくんだよね」
突然の声に、環は思わず床のじゅうたんに転げそうになった。
「な、何だ……知ってるんじゃないか……って、何でだよ!」環の顔はみるみる蒼くな
る。
「わからない、わからないけど……聞いたことあるの。その話」
「どこで聞いたことがあるっていうんだ!」
「知らないよそんなの! でも、そのお話だけは」
「そんなはず無い! だって、この話は……」お互いに荒げる声のトーンを少しでも落
とそうと、環は一呼吸つく。「これは、今僕が考えた作り話だぞ。お祭りの劇なんて、
小学校の頃に見たのが最後だから、思い出せなくて」
その代わりに話したということなのだろうか。だとしたら、私は環クンの考えているこ
とを読んだことになる。そうミチルは考えた。
「まさか、ねぇ」全身に鳥肌が立つような不快感を無理矢理収めようと、彼女は笑う。
「ごめん、私の勘違い。ありがちな話だから多分こんなオチだろうって想像しただけだ
よ、きっと」
その言葉に環の胸にも、いちおうの安堵が訪れた。
「そ、そうだろうな……思いつきで話しただけだからね」
「環クン、小説家の才能は無いね。私にでも予想ができるような話じゃ誰も面白がって
くれないよ」口元をゆがめて笑う余裕は出来た。
「そ、そうかもな……もう少し、休むか? 良かったら外で何か買ってくるけど」
「ん……じゃあ麦茶を一杯だけ。それとあずが、テーブルに風邪薬置いてくれてるはず
だからそれも」
言われたとおりに麦茶と薬を彼女の手に渡すと、環は部屋をあとにした。

               ※   ※   ※

午後には晴れ渡っていた空がワインレッドに染まる頃、ナカジは大山家からアパートま
での複雑なレンガ路のルートを辿っていた。丁度祭りも夜の部へと移行する時間で道端
の出店に集まる人も少ない。祭りといっても、実際に行われていることは外国のカーニ
バルに近い。古い街並みのいたるところに造花や輝く鈴、モールの飾りつけなどが施さ
れている。橋の下の水路を行くボートには観光客らしき姿が目立ち、手にしたカメラで
ファインダーに映る風景を片っ端から撮影している。
ナカジもまた、橋の柵にもたれかかって海辺へと広がる『街』の姿を一枚だけ携帯のカ
メラに収めた。
メールの作成ボタンを押して、撮ったばかりのそれを添付する。
送り先は、たったひとつだ。

額とインナーのカットソーに汗を浮かべて梓がアパートに戻ってきたのは宵口を過ぎて
からだった。窓からそよぐ潮風は幾分涼しく、頭痛がようやく治まったばかりのミチル
には心地いい。
「あ、町内会のおじさんたちにご飯ご馳走になったから」何か食べないの、と尋ねられ
たので梓は鷹揚(おうよう)な態度で応えた。お土産と称して饅頭(まんじゅう)のような
お菓子を手渡される。
「それ、この時期しか売ってくれないヘコミ屋のコーヒー大福。美味しいよ」
「ヘコミヤ? 変な名前」思わずミチルは苦笑する。
「ほんとうはクニミヤ、って言うんだけどね。国味屋。お店の看板の『国』って字を誰
かがテープでいたずらして『凹』にしちゃったから、そう呼ばれてるだけ」
「ふうん、ひどい事するのがいるのね。それって、もしかして……あず?」
「なわけないじゃん。さーって、これ、環ちゃんにも持っていかないと。留守番、アン
ドミチルちゃんのこと看てくれたお礼」どことなく、その笑みはひきつっていた。
「うん、それじゃ私からもありがとうって伝えておいて?」

洗面所で顔を洗ったのは部屋に帰ってきてから三度目だ。胸の動悸は一向に収まらない。
彼女の前では笑ってごまかした言葉も、自分自身を騙(だま)すことには役立たない。
(どうして彼女が、あの話を……?)答えの出るはずのない自問を、何度しただろう。
「環ちゃんー! いる?」不意にドアが乱暴にノックされる。騒々しい梓の声が響き渡
っている。うんざりしながらもタオルで顔を拭き、戸口でドアを少しだけ開ける。
「どうしたんだよ、まさか飲んでるのか?」
「未成年だよ? そんなはず無いじゃん。それよりこれ、ヘコミ屋の」
本物の女の子以上に甘いもの好きでもある、環の大好物のコーヒー大福だった。
「あ、ありがとう。彼女なら、特に変わったことは」嘘をついた。というよりも、梓に
話したところでどうなるものでもない。
「うん、ミチルちゃんからもありがとって。ご苦労さま。明日は良かったらお祭り行く
?」
「補習。大体、僕はそんなに行きたいわけじゃないぞ」
「またまたあ。ミチルちゃんのことでもこっそり誘ってるんじゃないの?」
反論するかわりに、梓の手が離れていることを確認したうえで思い切りドアを閉めた。

あの日。
姉さんは僕に、一冊の本を見せてくれた。

それは図書館の子供向けのコーナーに置かれていた児童書で、表紙には胸に圧迫感を覚
えそうなイラストが描かれていた。
内容はといえば女神様が若者への片思いに心を痛め、自ら人間になってしまう……とい
ったようなもので、ありがちな他愛ない話だと思っていたんだけど、姉さんはその本を
神妙な顔をして何度も何度も読み返していた。

受験勉強しようよ、そんな本より。
そんな僕の声も少しも届いていないふうで、結局その日はずっと本から目を話す事がな
かった。
そんなに気になるなら、借りて帰ればいいのに。

姉さんがいなくなったのは、雲ひとつない青空の下で、海に乱反射する陽射しがきつい
日だった。

それがこの世に一冊しかない『本当のことが書かれた本』だと姉さんは言っていた。
だとしたら、姉さんとなんの接点もない彼女が、なぜその内容を知っているんだろう。

本の女神様みたいに、姉さんと彼女がもとは一人の人間だった、とか?
バカバカしい空想をする時間を他のことに充てようにも、思いつくなにかが存在しない。
友達に他愛ない話で電話したり、夜空の下を散歩に出かけるような行為に少しは価値を
見出せるようになりたいと考える僕こそ、女神様のように本来必要なものの半分を失っ
ているのかもしれないが。
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