▼女装小説
L' oiseau bleu
第十五回
【女神の半身】
作:カゴメ
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少年の姉は、彼女を知る決して多くは無い人々の間に内在する。

そこは交わした言葉やわずかな触れ合いの記憶であったり、一方的な思慕だったり、友
人関係や家族の情だったりするが共通するのは、そこが暖かな居心地の良い場所だとい
うことである。
少年はそんな姉が幸せと思うか、誰にも見られることも触れられることも、話しかけて
もらうこともできない不幸だと思うかこの一年ほど判断出来ないでいた。それと同時に、
かりそめの(日々身体の成長と共に乖離(かいり)してゆく)姉の姿をその身にまとう自
分はやはり、幸せなのかそうでないのか、結論は出ないままだった。
他人の目が気にならなかったといえば嘘になる。夏休み明けと同時に女子の制服で現れ
た少年に対する周囲の視線は陰に日向に冷たいもので、それを理由に授業を受けさせて
くれなかったことにはさすがに動揺を覚えた。ただ、もともと交遊範囲の狭い、という
より高校に上がる頃にはほとんど無かった少年にとっては次第に静かな凪のようなもの
になって、いまやそれも止んでいた。

仮に少年が誰かの内面にしか存在できないとしたら、そこは姉のように心安らげる場所
だろうか?
考えるまでもない、彼はそうつぶやいてカーテンを開く。窓越しに見える海がいまだ深
い闇の底にあるのを確認して、真夏ではこの時間しか得られない、澄み渡った冷たい空
気を胸に吸い込んだ。浅い眠りが引き剥がされたときには冬の寒空であっても決まって
行うことだ。
高鳴りの渦巻いていた身体に、平静が甦(よみがえ)る。
(ナカジさんなら、煙草でも吸うんだろうな)少年の記憶ではあの喉を焼くような煙は、
かつて父親と呼んでいた人物も漂わせていた。

少年の荒涼とした住処は意外にも片付いている。いや、そこには置くべきものがあまり
ないというだけの話なのだがそんななかでもただ一人、彼の姉の居場所だけは特別待遇
で保護されている。それは彼女を知る決して多くは無い人々と同じなのだが、彼の入り
口にあたる重い鉄扉をノックする誰かの存在を少年は感じている。
響き渡る音が決して不快なものに聞こえないのは、音の主である少女が誰だかわかって
いるからだ。けれど少女は自らを、誰なのかわからないと言う。それは少年の思う少女
は、彼女の思う自分自身とは同じではないという話とは次元すら違う。
けれど少年は、伝えたいと思う。
君の名前を。
決して悲観することなく現実に向かい合う君の強さを。
そんな君に励まされながら、向かい合うことを止めていた自分自身をもう一度探す事を
決めた僕のことを。
それはとても勇気のいることで、ときには苦しいかもしれない。けれど失われた君の代
わりに、新しい君の話をしたい。こみ上げてくる気恥ずかしさと高鳴る胸が、補習の無
い一日を寝不足のまま過ごさせようとする。
白む夜の終わりを告げるように、窓の向こうで乾いた花火の音がした。
一年のうちで最も『街』が賑わい、そしてまた一歩夏の終わりへと近づく祭りが始まる
のだ。
『神様同士の恋の話……って何だっけ』環は、いつかミチルに話してやると言ったその
内容を、未だ思い出してはいない。

               ※   ※   ※

薄くかかった雲にさえぎられた太陽の光が、弱々しくその隙間からこぼれている。木々
の合間に漂う涼しげな風が、うっすら汗をかいた額に心地よい。梓は小学生たちと一緒
にラジオ体操の皆勤が出来たら、景品のノートと鉛筆セットをせしめるつもりでいた。
「もらえるものはもらっておかないと。長生きの秘訣だよ」いきなり壮大な話をされて、
ミチルは苦笑するしかない。
「朝から身体動かして、健康がキープできるからじゃない?」
「そんなマジに考えなくても。……環ちゃんも、来ればいいのにな」
ラジオ体操の会場は、梓や環も小学校の頃によく遊んだ林の間にある小さな『公園』で
ある。とはいえ遊具らしいものは見当たらず、ボール遊びをする程度の広さしかないの
だが未だにそこでは午後の授業を終えた子供たちの歓声がよく響いている。
まして夏休みの今なら尚更(なおさら)だ。
「あず、ちょっと飲み物もらっていいかな」ミチルは梓が手にしていたスポーツドリン
クのペットボトルに目をやった。身体を動かして心地はいいはずなのに、節々に痛みが
走る。頬に触れてみるとぼんやりと熱い。
一口飲み込んだドリンクは、フルーツのような甘みがした。あまり冷えてはいないため、
喉の奥に薄い皮のようなものが引っ掛かる感覚がした。
「ごほんっ」咳払いをする。梓もその異変に気がついたようで、自分とミチルの額に同
時に手をやる。
「……やだちょっとミチルちゃん、ラジオ体操に来て風邪ひいたんじゃ冗談にもならな
いよ」言葉に反して、その表情は真剣だ。
「ううん、大丈夫……昨日からちょっとこんな感じだけど、家帰って休めば……平気、
だから……」みるみるうちに翳(かげ)りを帯びる笑みは、その言葉に説得力をまるで感
じさせない。伝う汗は、運動後のそれとは違うようだ。
「しょうがない、つかまって」梓は自分より少しだけ背の高いミチルの身体を肩に抱え
る。閑散とした朝の街並みを、誰ともすれ違うことなく家までたどり着いた。

部屋のベッドにミチルの身体を横たえると、梓は冷蔵庫からおやつのつもりで取ってお
いたグレープフルーツゼリーを取り出す。『大陸』のスーパーでもらったプラスチック
製の使いきりのスプーンを添えて、額に冷やしたタオルを乗せたミチルの口元へ近づけ
た。
「ありがと、少し……いただくね」半分にも満たない量を食べて、あとはいいよ、と答
える。その残りを冷蔵庫に再びしまいこむと梓は、いまだ浮かべている渋面を崩せずに
いた。
「うーん、参った」思わず漏らした独り言に、ミチルはごめん、と力なく謝る。
「え、ううん。そうじゃないの。今日からお祭りじゃない? 私、町内会の手伝いに行
かないといけないから……ミチルちゃんのこと、どうしようかと思って」
「私ならいいよ、しばらくこうしてるから……。お祭り、行って来て」
祭りの初日に天気が思わしくないのは何年かぶりくらいだ。梓はふとそんなことを思い
出す。その時も確か環が熱を出して倒れた記憶がある。
「……そうか、ちょっとお願いしてくる」梓はそう告げると、部屋を飛び出した。

「お前が酷使しすぎたんじゃねえの?」
ナカジは開口一番、そう言った。確かにミチルを家に泊める条件として様々な家事を中
心とした労働をさせているが、無理をさせすぎたのかもしれない。いつもなら減らず口
の応酬になるに違いない彼女との会話も、今回ばかりは押し黙るしか無かった。
「まあどっちにしろ、あたしは無理だな。これからバイトだし」重ね着したカットソー
とジーンズのラフなスタイルに身を包んだナカジは、廃品回収の仕事を休むことなく続
けている。
「今日からお祭りじゃない、大山さんとこもそっち行くんでしょ。あのおじさん、この
時期は気合入ってるから多分骨折してたって」
「そう思ってたんだけど、おばさんが『大陸』に買出しに行くっていうから車廻すんだ
ってさ。ほら出てった出てった」煙草を灰皿でもみ消したナカジに背中を押され部屋の
外に出てくると、丁度廊下を通りがかった環にぶつかりそうになる。
「おっと、おはよう。どうしたんだ? ふたり共」
「ちょうど適当な暇人がいたじゃないか。あとは任せるぜ、お嬢様」
ナカジの手荷物はあまり物の入っていなさそうなトートバッグひとつのようだ。
「あ、ちょっと! ……全く、薄情モノ」その背後で梓は、ため息をついた。
「だから、何があったんだよ」
「ミチルちゃんがね、風邪ひいたみたいなの。で、私は町内会の手伝いがあるから代わ
りにナカジさんに見ててもらおうと思ったんだけど」
「別に、僕でも構わないけど。あの人が言うとおり今日は暇だから」
梓はその申し出に、素直に驚いたような表情を見せた。頼まれて、渋々でも他人のため
にはなかなか動こうとはしない環を小さな頃からよく知っている彼女にとって、心境の
変化などと言われたところで納得が出来ないことだった。
「え……良いの?」
「良いも悪いも無いだろ、病人相手なんだし」
環は耳にかかっていた髪を軽くかき上げた。その黒髪は自分で伸ばしたものである。最
初のうちこそウィッグでごまかしていたが、ある程度伸ばした時点で手入れにも、梓以
上に拘っている。そのため、揺れるたびに艶とシャンプーの香りが漂うのだ。
「うん……じゃあ、お願いしていい? ミチルちゃんには私から話しとくから」
「ああ、あとで一度様子見に行くって伝えといてくれ」
そのまま環は、自分の部屋へと戻っていった。残された梓はひとり、腕組みをして考え
る。
確かにミチルと出会ってからの環は、幼馴染の視点からしても変わったと思う。それは
一言で良いとか悪いとか断じることができるものではなく、目に見えない雰囲気とか、
周囲に対する彼の目線や感じ方が梓には予想外のものであることが多くなった。
身近に接する事のできる人間が増えることは、その人にとって何かしらの成長を及ぼす
ものなのかもしれない。
そんな以前読んだ新聞のコラムの文章を思い出して彼女は、そう結論づけることで納得
するのだった。

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