▼女装小説
L' oiseau bleu
第十四回
【久遠】
作:カゴメ
30P

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部屋のドアはノックせず、外から声を掛ける。
「姉さん、環だけど。母さん、再婚するんだね」
「ごめんね、さっきは取り乱して」ドアを一枚挟んで、二人は背中合わせにもたれかか
っている。互いに言葉のひとつひとつを選んでは検証しているのか、長い無言の時間が
続く。
「僕には母さんとあの人が一緒になるのがいいことなのかどうか、わからない。でも母
さんがそうしたいんだったら、反対する気は無い……僕は僕、母さんは母さんだから」
「強いのね、環」
「どうして?」一方の姉は珍しく弱々しい声だ。女の子みたいな顔立ちだからとよく子
供の頃、苛められていた自分を梓と一緒になって助けてくれた姉が、である。
「私はそんなふうに割り切れない。たしかに私たちの父さんは私たちを捨てた。でも、
父さんであることに変わりは無いわ」
両親は、父親が事業に失敗したことによる協議離婚である。そのことを子供だった久遠
が理解できるはずも無く、その誤解はしばらく後まで解けることは無かった。解けたと
はいえ、彼女の父親への複雑な感情が払拭されることはなかったが。
「それはそうだけど」
「本当に、梓の家に行くことになるかもしれないわね」
学校帰りの梓の無邪気な言葉が蘇る。
「まさか、本気にしないほうがいいよ。梓の言ってることだし」
「環はどうしたいの? 母さんと『大陸』に行く? それとも梓の家にお世話になる?
 どうするにしても私は環について行くわ。あなたとまで離れて、暮らせないもの」
狼狽する。
「僕は――」どうしたらいいだろう。新しい父親を迎えることに抵抗が無いとは言えな
い。いまさら家族が増えたところで自分の何が変わるというのだろう。けれどその事に
よって自分の周りだけは確実に変化する。おかしなものだ。

小さな頃から姉と間違われていたのは、自分。
女っぽいと笑われるのは、自分。
友達から遠ざけられるのは、自分。
なにひとつ選んだことは無いのに、いつしか僕だけはつまはじきにされ、孤立する。

そんな自分が、初めて何かを選ぶのがこんな時だなんて。
他人の価値観だけで、自分の人生が決められてきた今までがあるのなら。いっそ僕も何
かを変えてみたい。そのために少しだけ壊れる何かがあったとしても、今まで僕が世界
に対して与えてきた貸しを返してもらうだけだ。

「僕、『街』に残るつもりだから」
数日後母親にそう告げた環と久遠は、さぞかし強く反発されるかと思いきや深々と頭を
下げる彼女に驚かされた。
「ごめんね、久遠。環。私も焦ってたのかもしれない。お父さんが居なくなって、三人
でやっていこうって決めたのに。どうあれあなたたちを傷つけた私は、悪い母親よね」
そう言って大きな手が、ふたりを同時に抱きしめた。幼い日の、暖かな匂いが漂う。
それでも母親が再婚を決意したのは姉弟の居場所を作りたいが為で、ふたりもそれが理
解できたからこそ言葉を飲み込んで承諾するのだった。いつかは新たな父親を受け入れ
ることができるのかもしれない、母親が選んだ相手なのだから。
「女って、そうしたものなのよ」呟いた独り言を、環は耳にしてしまったことを内心少
しだけ後悔した。
そして久遠は、梓からの申し出を母親に告げる。親子三人の暮らしを、少しでも楽にし
ようと思ってのことだった。
しかし母親は、静かに首を横に振る。
「それはできないわ。『街』が危険だってことに変わりはないもの。どんなことがあっ
てもあなたたちを『大陸』に連れていく」
それは母親としての毅然とした態度だった。
「……いつかは、ね。今の私たちには冷却期間が必要なのかもしれない。いいわ、梓ち
ゃんと暮らすなら心配ないでしょう」
母親のそんな優しい微笑みを、ふたりは久々に見たような気がした。

約束ごとは、週に最低三回は連絡を寄越すこと。
家賃は母親が、友人同士でもある梓の両親に直接手渡すこと。
環と久遠は『街』で子供たちだけの生活を選び、母親は『大陸』の新たな家でふたりの
帰還を待つこととした。

               ※   ※   ※

「行方不明って、どういうことですか」ミチルの口調は重い。環や梓が何も話そうとし
なかった理由はそれなのだろうか。
「去年の夏の終わり頃のことだよ。このアパート出てく奴が居て、朝から引越し屋が来
てうるさかった日だから覚えてる。確か、受験勉強だって言って環と出かけたんだ。あ
たしはガソリンスタンドのバイトにそのまま行って、夕方に帰ってきたらそこの門のと
ころに停まってた引越し屋のトラックが警察のパトカーに変わってたのさ」
そこまで語ってナカジは新しい煙草を取り出そうとして、海外製のそれは既に空箱とな
っていたことに気づき舌打ちをした。包装ごと握りつぶして、台所隅のゴミ袋へまっす
ぐに放り投げる。
「もちろん警察の事情聴取さ。あんなに取り乱した環を見たのは後にも先にもその時だ
けだ。梓も間に入ってなだめたりして、大変だったみたいだぜ。その後は夜真っ暗にな
るまで街中の捜索してな。あたしもあちこち探した。これだけ海に囲まれたり、水路が
あったりするだろ? 下手すれば落ちて溺れてたりするかもしれないからな。でも結局、
大勢の警官やらレスキューやらが何日調べても見つからず終い。今でも交番の掲示板に
あいつの写真出てるぜ、行方不明者扱いでな」
息を発する事さえためらわれて、ミチルは床に正座しているはずなのに背中から力が抜
けそうになる。
「そんなことが……」
「で、もってだ。それからなんだよ、環の奴があんな格好するようになったのは」
女装のことか、即座にそう思いつく。
「どうして、なんですか」
「さあな。知りたきゃ本人に訊くんだな」テーブルに肘を付き、目を細めるナカジにも
また隠さなければならないことがあるのだろうか。
「あの、もうひとつ良いですか?」立ち上がろうとして、ミチルは足に痺れが来ていた
ことに気づく。
「何だよ」
「久遠さんって、どんな人だったんですか? ナカジさんから見て」
「そんなこと言われてもなあ。あたしも一ヶ月ちょっとしか一緒にいなかったし、あん
まり話しても無いからな。ただ、本をよく読んでた。あたしの持ち物なんかもよく貸し
てやったし。何でも、世界にただ一冊だけ存在する『本当のことが書かれた本』なんて
のを探してるんだと。まったく久遠といいアンタといい、そそられる奴が多いな」
重い話の後とは思えない笑みを浮かべるナカジに礼を言い、足の踏み場を探しながら部
屋をあとにした。

交番までの道は、間違うことも無かった。『大陸』へと続くバス停のすぐ向かいで、そ
こは初めて環に声を掛けた場所でもあった。あの時、環には警察の保護を受けることを
勧められた。けれど今の自分は、その言葉に従っていたら無かったかもしれない。自分
の名前すら誰からも呼ばれないまま、外界から閉鎖された場所で流されるままに訪れる
運命を待ち続けるしかなかったのだ。
交番のなかにはふたりの警官がいた。どちらも若く、制帽の下にかいたらしい汗を拭っ
ている。ナカジに言われたとおりに右手の掲示板に目をやる。そのひとつに、白黒の少
女の写真が一枚。
「環クン」思わずミチルは、そう声にしてしまった。写しだされている長い黒髪、中性
的でしとやかな表情、もう見慣れた学校の制服。一卵性双生児と聞いてはいたものの改
めてその姿を見ると、同一人物と呼んでも差し支えないほどに似通っている。
『環ちゃんが環ちゃんでいる間は、あいつはなりたい自分になれないんだよ』
いつかの梓の言葉が甦る。もしかして、彼はそのために――?
「どうしたんだ、こんな所で」
背後から声がする。今最も疑問をぶつけたい相手が、そこにはいた。

カモメの鳴き声。打ち寄せる波の音。ときどき路を駆け抜けてゆく車のエンジン音。
そういったものがわずかな言葉の合間に、ふたりの間を流れてゆく。
「そうか、聞いたのか」翳(かげ)りを帯びた表情は、バス停の標識から延びる影がかぶ
っているせいだけではないだろう。どこか諦観(ていかん)さえうかがえる。
「お姉さん……何も手がかりとか無いの」
「わからない。あの日、僕と姉さんは朝から中学校の図書館に勉強に行ったんだ。数学
の参考書持って、問題集やってたんだけど。姉さんってば本が好きでさ、その日も勉強
しないで本ばかり読んでた。図書館はそういうところだから当たり前だけど、僕は勉強
見て欲しくて姉さんのところに行ったんだ。そのとき、言われたんだ。『探してた本、
見つかった』って。その時、すごく寂しそうな顔してたのだけは覚えてる。最初なんの
ことだかわからなかったけど、すぐにそれが姉さんの言ってた『本当のことが書かれて
る本』なのかなって思った」
ミチルは傍らで話を聞いていて、胸が締め付けられる思いを感じていた。そして堰(せき)
を切ったような環の話は、続く。
「まあそれが何の本だったか、僕は気にしなかったからその時はそのまま勉強してたけ
ど。昼飯を食べに家に帰る途中だった。ちょうど家の前あたりで、後ろから姉さんの声
がしたんだ。外国の言葉みたいだった。それで振り返ったら、姉さんは」

消えていたんだ。
環はそう、はっきりと告げた。

人が消えるなどということが現実に起こりえるかどうかは、問題ではなかった。
久遠はわざと何処かに隠れて環を驚かすような、つまらない悪戯(いたずら)をすること
は無い。大体背後で声がして、環が振り返るまでの時間は一秒にも満たない。警察にも
何度も証言したことだ。
「この服、姉さんのなんだ」環はそう言って、制服のタイをつまんでみせた。「いや、
これだけじゃない。普段着てるのもね。化粧品は、使ってなかったから梓に色々教えて
もらったけど。あいつも驚いてた、僕が姉さんになりたいって言ったときには」
「久遠さんに、なりたい?」
「姉さんがいなくなったこと、母さんには一度も言って無いんだ。僕よりずっと姉さん
のこと、大事に思ってたから。頭も良かったし、将来のこととかすごく期待してたから
ね。でも最初は確かにそんな理由だったけど、僕もこうすることで姉さんを近くに感じ
られた。いなくなったなんて思わずに済むんだ」
制服を着て、髪を伸ばした環の姿は確かに掲示板に張り出されている写真と酷似してい
る。けれど半袖のブラウスから伸びた腕、徐々に大人の肉付きを帯び始めている首周り
はそれが間違いなく環という少年のものであることを明示している。
「探さないの? お姉さんのこと」向かい風に叫ぶように、ミチルは問いかけた。
「警察やいろんな人、梓やナカジまで一緒に探して見つからなかったんだぞ? どうし
て姉さんが消えたのかはわからないけど、多分僕はもう姉さんには」
「だったら今度は、私と一緒に探そう。キミは私の記憶を探してくれるって言ってくれ
た。だから、私も同じことをする」
その目は強い決意に満ちていて、環は何かを言い返すことが出来なかった。
今まで心の奥底で、何度考えたかわからないことだ。そのたびに実現することなどでき
ないと、あきらめてきたことだ。
けれど、今は違う。自分に手を貸してくれる人間がすぐそばにいる。だとしたら。
環は差し出されたその手に、自分の手を重ねた。

宵闇を染める花火の音が鳴り響く。アパートの軒先にビニールシートを敷いてスイカを
食べるような優雅な時間を過ごせるのは、ナカジが大山さん夫妻からおすそ分けでもら
ってきたおかげだ。
「ちょっと環ちゃん、種ちゃんと出しなさいよ。お腹の中から草伸びてくるから」
「そん時ゃ腹さばいて、またスイカが食えるってわけだな。いいぞ環、どんどん食べろ」
無邪気な笑顔に溢れるのも、明日から始まる祭りに躍る心が抑えられないせいだ。
「お祭りかあ、楽しみだね」
「そういえばミチルちゃんの新しい人生最初の、ってことになるね」
「新しい……人生?」環がふと問い返す。
「記憶がなくなったってことは、初めての出会いが二度楽しめるってことじゃない」
「ああ、そうか!」梓の言葉に、ミチルもまた手を叩く。「子供の時、初めてのお祭り
って誰でも楽しい思い出でしょう? 今度もまた、ってことだね」
「へっ、この前向き青春くん共」ナカジはこそばゆそうに笑い、くわえていた煙草を落
としそうになった。
「そうか、そうだな……うん、違い無い」環の胸には、すぐ隣のミチルがいなければ考
えもしなかった姉との再会の瞬間が甦っていた。もう一度、姉さんと出会う。
夢みたいな話だが、夢だけに心は高鳴るのだった。
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