▼女装小説
L' oiseau bleu
第十四回
【久遠】
作:カゴメ
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極めて低い確率だが、性別の異なる双子が生まれることはある。
さかのぼること十五年ほど前にこの世に生れ落ちたうり二つの容姿を持つ男女の一卵性
双生児。姉は久遠、弟は環。彼らとの出会いを途切れることのない、最大級の幸せであ
ると喜んだ両親が、窮(きわ)まることのない幸福に満ちた人生を歩んで欲しいと願って
与えた名前である。

「大きくなったわねえ、久遠ちゃん」親戚の伯母さんは幼稚園に入ったばかりの環の頭
を撫でながら微笑みかけた。やけにかさついた、大きな手だ。
お母さんのにおいとは、少し違う。
「いえ、そっちは環ですよ。義姉さん」父親の言葉に彼女は驚いた顔を見せる。
「あらあら、やっぱりこのくらいだと男の子も女の子も変わらないのねえ」彼女には子
供が居なかった。他愛ない立ち話が始まったのでその場にひとり残された環は、頼りな
い足取りで居間を後にする。法事のあとだったので、黒い服に身を包んだ大勢の見知ら
ぬ大人たちが家には集まっている。その間をかいくぐって廊下をすぐ挟んだ向かいの子
供部屋へと駆け込んだ。ドアノブは同じ年頃の子供と比べても背の高い環が手を伸ばし
ても届かないくらいの位置にあるので、扉じたいは閉めていない。
姉弟がいくら散らかしても散らかしても、母親の手で常に整頓されている部屋のなかは
それまでいた居間とはうって変わって静寂に包まれている。もちろん外からの話し声は
届いてくるのだが、環の視界にはそこにいるはずの姉の姿はどこにも見えない。
幼い彼の思考では、この部屋に来ればいつも読み聞かせてくれる絵本を広げた久遠がい
るはずなのだ。急速に不安な感情がこみ上げて背後を振り返ると、開け放たれた入り口
の廊下から、良く知った気配が近づいてくる。
鏡に映したように同じ茶色の瞳、同じ長さのおかっぱの髪。着ている服さえ同じ淡いク
リーム色のスモッグだ。両親の悪戯も半分含まれているうり二つの姿は、胸のワンポイ
ントが環は太陽のマーク、久遠は鍵のマークになっていることに気づかなければ伯母に
限らず親戚の誰にも見抜けないだろう。
手には小さなクッキーやチョコレートなどのお菓子を乗せたトレイを持って、環に一瞥
をくれて反対側の居間へ入ってゆく。どうやら集まった親戚に供するものを母親と一緒
に運んできたらしい。ふとその背中がこちらを振り返り、次いで母親のほうを見上げて
告げる。
「たまきと、おかしたべてくる」そのことばに、環は幼いなりの安心感を覚える。見知
らぬ大人たちの間で小さくなっているよりも、ふたりにして遊ばせておいたほうがいい
だろう。そう考えた母親もトレイのお菓子を久遠に少し手渡した。
「くおん」環はその名をか細い声で呼んだ。
「いっしょに、ほんをよもう」そう言って久遠は、環の隣へと腰を下ろす。
ベッド脇の小さな棚から、一冊の絵本を取り出した。何度か環も読んでもらったことの
ある昆虫の一生を題材にした絵本だ。
「やだ、やだ」物語の最後で昆虫は死を向かえ、新たな命へと引き継がれていくのだが
彼にはその結末が気に入らないらしく、拒絶の意志を示した。同じ年齢でも、ふたりは
ボキャブラリーがかなり違う。久遠のほうは大人ともある程度コミュニケーションをと
れるほどに喋ることができるのだが、環のほうは何故、その本を読むことが嫌なのかを
明確に伝えられるほどではない。不満そうに唇を曲げ、久遠の手からチョコレートを奪
うだけである。
「このおはなしは、まだたまきにはむずかしいわね」仕方ない、といったふうにため息
をつく久遠の態度は、年齢にそぐわないほど大人びている。
結局この頃環が幾度も読み返し、本そのものが傷んでしまった子豚の本をふたりで読む
ことにした。外国の絵本で、子供心にも可愛らしいとはいえない絵が逆に気に入ってい
たようだ。
「……これでおしまい。おもしろかった?」春の真昼の暖かな光が差し込む部屋のなか
で、環は笑顔で相槌を打った。

やがてふたりが幼稚園に通うようになり、環も乏しいながらに周囲とのコミュニケーシ
ョンが取れるようになったあるとき、彼は一度久遠に尋ねたことがある。
「どうして、くおんはいつもごほんをよんでるの?」鬼ごっこやヒーロー遊び、ブロッ
クや工作といった男の子なら誰もが関心を示すような事柄に心が向いていった弟に反し
て、姉のほうは相変わらず静かに本を読んでいることが多く活動的な遊びからは離れて
いったのだ。
「たまきは、どうしてほんがあるのかわかる?」突如そう問いかけられた環は、目を白
黒させて硬直した。
「このほんのおはなしは、ほんとうのことじゃないの。でも、ほんとうのことがかいて
あるほんが、せかいにいっさつだけあるの。でもわたしは、ほんとうのことがかいてあ
るほんをよんだことがないの。だからさがしてるの、ほんとうのことがかいてあるほん
を。わたしはそれを、よまなければいけないの」
久遠はそれだけ言うと、再び視線を手にした本のほうへと戻した。それは日頃読んでい
る絵本などではなく、母親が持っていた文庫本だった。当然漢字なども入っていて、傍
目にも彼女に書かれている内容が理解できるとは思えない。それでも首を上下させ、文
章を追う久遠の姿に、環は自分とは違う何かを感じ取るのだった。
「ほんとうのほんって、どんなごほん?」おずおずと環はそう問いかける。
「それはね……」
「たまきちゃん、はやくおいでー! けんじがセイバーのえほんみせてくれるって」久
遠の言葉にかぶさるようにして、女の子の声が背後から環を呼ぶ。幼稚園に入って知り
合ったばかりの梓だ。
「うん、わかった。……いってくるね」姉の話にも興味はあったが、そのときの環が心
を奪われていたヒーロー番組『超人セイバーダイナ』の魅力には抗し得ない。
ひとり残された久遠は、文庫本を教室の床に放り出して視線を窓の外へと向けた。
「あら久遠ちゃん、みんなと一緒に遊ばないの?」大人用のスモッグを着て、髪をおか
っぱにした若い女の先生が環と入れ違いに入ってきた。
「ねえ、せんせい」
「うん?」
「ぎんいろのかねがいつまでもなってるところ、しらない? わたし、いかないといけ
ないの。そこでまってるひとに、いわないといけないことがあるの」

               ※   ※   ※

「そんな話、したかしら?」初夏の燦々とぎらつく陽射しが照りつけるレンガの路に三
つの影が並んでいる。そよ風を流れる黒髪に漂わせる久遠は、背後の環に静かに微笑み
かけた。
「幼稚園の頃じゃ、忘れてても無理ないわね。なかなか面白そうな話だけど」一足先に
高校の制服をまとっているのは梓だ。姉弟の受験が控えているので前年、自分が使った
参考書を学校帰りに持ってきてくれたのだ。
「僕ははっきり覚えてるんだけどね。姉さんが相変わらず本ばっかり読んでるのはそれ
が原因だって、ずっと思ってたから」小学校の半ばあたりから彼は、呼び捨てにしてい
た久遠の名を、『姉さん』と呼ぶようになっていた。それは両親が離婚して、ふたりが
母方に引き取られたのと同時期である。生活は祖父母の援助を受けていたらしいので裕
福とも貧しいとも言えなかったが、女系家族で育った環は中性的な顔立ちもあり、興味
の対象も昆虫採集やスポーツではなく室内で折り紙や読書に向いていったので同級生の
男の子からは次第に距離を置かれるようになっていた。
だから学校でも話をするのはかろうじて梓や姉くらいで、それでも環は現在ほど内向的
な性格ではなかった。
「でも環、それならあなたその頃あんなに好きだった子ブタの絵本、どんな話だったか
すっかり忘れてるでしょ。私、何度も読まされたから今でも覚えてるわ。ええと……小
屋の前で、きょうも子ブタは日なたぼっこをしています……」
「さあね、あの本じたい引っ越したときにどこか無くしたと思うけど」環は気恥ずかし
そうに顔を背ける。
「子供の記憶なんて、そんなものよ」どこか寂しげな笑みが、久遠の横顔に宿る。
あの頃は、笑顔の絶えなかった家族四人。よく海辺で釣りを楽しんでいた父親に、母と
一緒に作ったお弁当を運んでいったものだ。
『今日の夕食は、鯛やヒラメの踊り食いだ』そんな冗談をよく口にしていた。潮臭い大
きな手が、よく久遠と環の頭を撫でてくれた。
結局一度も、そんなものは食べたことはなかったけれど。
そんな記憶。楽しかったことだけが、蜃気楼のような理想だけが都合よく切り貼りされ
た、夢と紙一重の遠い思い出。

「久遠たち、『大陸』に引っ越すの?」
ふと梓が、帰り道のコンビニで買ったチョコバーを口にしながら訪ねた。最近発売にな
ったそれは、いまや彼女にとっては必需品らしい。
「いつかはそうしないといけないけど、それがいつなのかは判らないわね」
「母さんは行きたいみたいだけどな、『街』も随分人少なくなったし」言われてみれば
学年が上がる毎に少しずつ減ってゆく同級生の数が、報道などで伝えられる『街』の危
機をより深刻なものとしているのだ。
梓は輝かせた目で、ふたりの顔を見据えた。
「もしまだ行かないんだったら、うちのアパート来ない?」
「え?」日頃冷静な久遠でさえも思わずそう聞き返した。
「うちの両親、『大陸』行くって聞かないの。当然私もってことになるんだけどさ、正
直あんまり付いて行きたく無いんだよね。学校変わるの面倒だし、『街』のことも好き
だから。でも私一人でここに残るって言ったら当然反対されるでしょ? だからもし良
かったら、久遠と環ちゃん、それにお母さんに部屋貸すから住んでもらおうかなって。
いまのお家よりは、家賃も下げられると思うから」
「そんなこと、勝手に決めていいのかよ」環は梓の突拍子もない発言には慣れていると
はいえ、さすがにそこまでの大きな話を中学生相手に突きつけられても困惑するだけだ
った。
「何とかなるって。それに憧れてたのよね、親元を離れての生活って」
それが本音なのか、環は呆れた表情を浮かべる。
「まあ確かに、梓をひとりにしておくのは不安ね。お話はわかったけど、それは今答え
られることでは無いわ。母さんとも話し合わないと」久遠は対照的に、年齢にそぐわな
い落ち着き払った様子を崩さなかった。
「うん、別に今すぐって話じゃないから。気が向いたら連絡して」チョコバーを食べ終
わった梓は、いつもの分かれ道にたどり着いて手を振る。

それを運命と呼ぶかどうかはわからないが、世の中の流れを司る人知を超えた大きな力
が存在するとすればそれは唐突に、姉弟の前に訪れた。
母親は何かに取り付かれたかのような目で、久遠と環に今現在『街』がどのような状態
にあるかをまくし立て、『大陸』で暮らそうと言い始めたのだ。
「でも母さん、私も環も来年は受験があるのよ。今更『大陸』の学校に通うことは考え
られないわ」冷静ながらもそう抗議する姉の姿に、環は驚かされた。
「どこの学校だってあなたならやっていけるわよ、久遠。ここは危険なのよ」
「落ち着いて、母さん。なぜそんなに急がなければならないの」
すると母親は、新聞記事のスクラップらしい切れ端をふたりに見せた。
『街』の水位がこの数年、上昇率を増しているとの報道だ。ところが久遠は、その記事
を一瞥して語気を強めた。
「こんな記事のことは良いの。何か、私たちに隠してはいない?」
母親が思わず顔を背けたのを見て、環も何も感じ取れないほど鈍感では無い。数日前の
こと、ふたりは母親に連れられて珍しく『大陸』のレストランで夕食を摂った。肉をメ
インディッシュにした外国の料理だった。その場になぜか、母親の勤める保険会社の同
僚と名乗る男が同席していたのだ。年齢は三十代後半といったところだろう。その年頃
の男性が匂わせる濃さを感じさせない柔らかな物腰と穏やかな口調で、ごく自然に母親
との会話をこなしていた。
「私たちに、あの人と暮らせってことなのね」それだけで、全てが氷解する。けれど久
遠が嫌悪をむき出しにした口調でそう吐き捨てたのは、婉曲(えんきょく)した言い回し
に対する不快感からだ。
ふたりは、新しい父親を得る事になる。
その事実に対する反発はやはり、娘である久遠のほうにこそ強かった。そこには、日頃
大人しく理知的な彼女の姿は無い。だからこそ話し合いを放棄し、自ら部屋へと閉じこ
もってしまう。
あとに取り残された環もまた、母親といるのが気まずく感じられて姉の後を追った。
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