▼女装小説
L' oiseau bleu
第十三回
【渚にて】
作:カゴメ
28P

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帰宅の途につくバスの発車時刻まではしばらく時間がある。停留所から少し離れた海岸
には、『街』と変わらない砂浜が広がっていた。もっとも『大陸』は防波堤などの設備
が整っていて、かつ地表も大分高い位置にあるのでいつかは海の底へと飲み込まれてし
まうなどという心配は無い。陽光を乱反射しながら打ち寄せる小波は眩しく、環はその
輝きのなかでミチルの姿を見失いそうになる。麻のバッグを振り回していた彼女は、ふ
とその動きを止めた。
「なんか、不思議だよね」突如、口にする。
「何が」
「いつもは『街』のほうから見てる海だよね、ここ。だからほら、あっちはいつも通っ
てる砂浜のそばの道でしょう?」
「それがどうしたのさ」
「なんか、こうやって同じ海を見てるのに……ここからのほうが懐かしく感じる。一度
も来たことないところなのに。もし、私が記憶……全部思い出したら、どうすると思う
?」
「どう、って。元の生活に戻るんだろ」それがこの世界のどこなのか、環には当然見当
もつかない。知らない街、あるいは外国とも呼ばれる知らない大陸での日々なのだろう
か。
「そっか、そうだよね」やや間があって、ミチルは腕組みをする。
「やっぱり、そうなったらあずや環クンに迷惑かけられないよね」
「どうしたんだよ、いきなり。何か思い出せたのか」
光のなかでシルエットとなる彼女は首を静かに横に振った。
「思い出せないんだけど……思い出したく、ないのかも知れない」
波の音さえも止んで、静寂のなかに環の耳は彼女の言葉だけを捉えている。
「こんなこと言うのも変だけど私、今の生活って楽しいよ。そりゃ、ふたりには色々悪
いって思ってる。でもこうやって色々な話をしたり、遊んだり家事したりするのって、
あずや環クン、あとナカジさんかな。だから楽しい。前の私がどんな子だったかわから
ないけど、今の私は好き。あなたたちと一緒にいる、私が好き」
振り返るその笑顔が華やかで、でも砕けてしまいそうなほどに儚(はかな)い硝子(がらす
)のようで。
胸にこみあげるその思いを何と呼べばいいのか。目の前にいるのはミチルという少女に
して本来あるべきではない存在である。
「その、僕は……。君が望んだとおりに物事が進むのなら、それが良いと思うけど」た
どたどしい言葉しか出てこない自分を今更ながら恨めしく思う。ほんの一瞬でも梓にな
りたい、梓のように言葉が意志のまま出てくればいいのにと願ってしまう。
「……なんてね、厚かましいよね。居候のくせに。さあ、頑張って記憶取り戻さないと
! 銀の鈴、どこかなあ」
空に向けて高々と拳を突き上げて伸びをするその背中に、環は静かに呟いた。

「いいよ、いつまででもここに居れば。今は僕たちの『街』が、君の居場所だ」

視線は合わせようとしない。翳(かげ)りを帯びて振り返るミチルの顔は化粧など施さな
くても瑞々しいうるおいに満ちていて、濡れた唇は驚きを表すようにかすかに動いてい
る。環の手元にカメラがあったら、それは瞬く間にシャッター越しの暗箱に収められて
いることだろう。
けれどその表情はすぐに見慣れた笑顔に戻る。無邪気で、何かを繕うような。
「あはは、ありがとう。それじゃもう少しお世話になることに――」
ミチルがそう言いかけたとき、堤防の上で自転車のブレーキがけたたましい音を立てた。
振り返ると、環や梓と同じ制服を着た背の高い少女が砂浜へと続く石段を駆け下りてく
る。
「久遠(くおん)――!」長い髪を振り乱しながら、彼女はそう叫んだ。「い、一体いま
までどこに行ってたのよ! 学校のみんな、どれだけ心配して」そこまで一方的に大声
をあげたところで、少女は呆然としている環をまじまじと見つめた。
「あれ……もしかして、君、弟さん」その口調は先ほどまでの騒々しさとは裏腹に、触
れてはならないものに触れてしまった、そんな気まずい様子だ。環は何も答えず、海の
ほうへと視線をやる。「ごめんね、人違い。それじゃ」疲れたような微笑を浮かべて、
彼女は降りてきた階段を再び駆け上がっていった。
「何が……あったの?」場の空気に取り残されたのはミチルひとりだ。
「何でもないよ。そろそろバスの時間だ、行こう」昼下がりの時間帯は、『街』へ戻る
バスは三十分に一度しか来ない。

                ※   ※   ※

「前にも、聞いたことある」このバスの車内に自分たち以外の乗客が同乗しているのは
ミチルにとっては初めてだ。運転手のすぐ後ろの座席には文庫本に目を落としている若
者、シルバーシートにはくすんだ灰色のポロシャツを着た老人がうつむいて腰を下ろし
ている。だから後部座席のミチルも、声をひそめて窓際のひときわ憂鬱そうな環に話し
かける。
「何のこと」
「久遠、って人の名前。さっきの子、環クンのこと弟さんって言ってた。お姉さんなの
?」
「知らないね」いつも以上に他人の干渉を強く拒むその口調に、さっきの言葉は幻聴だ
ったのかもしれないとミチルは思う。
でも、なぜだろう。環のプライベートな部分など、偶然出会っただけの自分が追求して
いいことでは無いはずだ。それをいちいち環が答えてくれなかったからといって、何も
気に病む必要は無い。別に私たちは、恋人や友人同士ではないのだから。
でもだとしたらこの感情は、どこから来るのだろう。なぜ、そこまで環のことを深く気
になるのだろう。
バスは潮風を開け放たれた窓に取り込みながら海の上を渡る。
あの『街』って、こんなに遠かっただろうか?

「環ちゃん、夕食いらないって」
「そう」
日もすっかり落ちて、梓の部屋のテーブルには昼間買いこんできたトマトとかぼちゃの
サラダが置かれている。鮮やかな彩りだ。相変わらず節電のために冷房は使っていない
ので、奥の寝室からそよいでくる潮風だけが心地よかった。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」スープをすすりながらミチルは、テレビのニュ
ースを眺めている梓の横顔に問いかける。
「どうしたの、改まって」
「久遠って人のことなんだけど。環クンのお姉さんなの?」
その名を耳にして、梓の動きがぴたりと止まった。ゆっくりとミチルを振り返る。
「誰かから、聞いた?」
「今日、ふたりで買い物行ったときにね。環クンのことを、その人と勘違いした人がい
た。弟さん、って言ってたよ」
いつになく真剣な表情の梓は無言で、部屋にはニュース番組の天気予報が明日の高気圧
に覆われた空の解説をする声だけが流れていた。
「難しいね。そうだよ、って言っても違うよ、って言ってもミチルちゃんは納得しきれ
ないと思う。でも私は、環ちゃんと約束してるからそのことは話せない。だから、どん
な質問にも答えられない」
ミチルの考えていることは、正解なのだ。と、なると次に生じるさらなる疑問がある。
(どうして、ここにはその久遠さんはいないの? やっぱり『大陸』でお母さんと暮ら
してるの? 環クンをひとりにしておくのは? 私に隠さないといけない理由は何?)
声には出さないものの、聞きたいことは溢れかえりそうだ。けれど梓は答えない、と言
った以上この場で何を言っても得られるものは無いだろう。
「ごめん、じゃあその話は終わりにする。ごはん食べようか」わざと快活に声を上げる。
梓もまたその思いを察したのか、頷(うなず)いて勢いよくトマトの切れ端のひとつをフ
ォークに取った。
「ん、美味しいじゃない! ミチルちゃん、いいの選んできてくれて助かるよ。環ちゃ
んにいかせたんじゃあいつ、適当に買ってくるからさあ。『安かったから』とか言って」
環がその場にいなかったのはかぼちゃとスープに入っていたオクラが食べられなかった
からなのだが、それでもふたりの間にはかえってそれが話のネタとなり明るい笑い声が
絶えなかった。

陽が沈みきった頃に窓のカーテンを降ろした環は、そのまま部屋の照明もつけずにベッ
ドへ倒れこむ。それ以上何かをする気力は無いが、メイクだけは落とさなければ。
数度寝返りを打ったあと、身体を起こして洗面所の鏡へと向かった。
彼女が選んだ、新しい自分がそこにはいる。考えてみれば環は化粧というものに対し、
意識して変化をつけたりより良いものを目指そうなどという意識は無かった。
ただ教わっただけの繕いから、新たな自分自身へ昇華させようとする試み。訪れる戸惑
いと浮き足立ちそうな感覚。彼女――ミチルと出会ったことで知ることとなったのはそ
んな胸の高鳴りだ。
けれど環は、手放してはならない。身にまとった少女の服が、心を締め付けるように汗
で肌に張り付いている。自分が自分で居る限り、決して忘れてはならない存在を。
「バカげてる」一言そう呟いて、手のひらにすくい取った水で乱暴に顔を洗い始めた。

「ねえ、ミチルちゃん」
深い夜の闇のなか、ベッドの上から梓の声がする。
「このアパートには一人だけ、さっきミチルちゃんが知りたがってたことに答えてくれ
そうな人がいるよ」その声が床の布団に眠るミチルに聞こえているのかどうか、梓は確
かめない。
これ寝言だから。律儀にも、そう付け加えたものだった。

翌朝のそれぞれ補習と部活に足を運ぶ環と梓を送り出したあとで、ミチルはアパートの
二階へと足を運んだ。その環の様子は日頃と特に変わらず、無愛想で気だるさを顔の前
面に押し出している。昨日の手直しされたメイクの輝きが新鮮なうるおいに満ちていた
だけに、一層沈み込んで見えた。
本当にこの人が? 内心そんな思いを隠しきれない。ある一室のドアの前に立ち、ノッ
クを数回する。
「ああ、なんだ。ミス・ベルタ」
「何ですか、その呼び名」
「名前なんて記号みたいなもんだろ、ましてあんたみたいな場合は。でも、いまいちし
っくり来ないんだよなあ」
だったらちゃんと『ミチル』って呼んで下さい、そう言い掛けて止めにした。
おそらくこのナカジという人は、呼び名をあれこれ迷う行為自体を楽しんでいるのだか
ら。

雑然としたこの部屋を、梓と一緒に片付けたのが遠い昔のように感じる。ミチルは足元
のビールの空き缶をけり倒してしまい、それを慌てて拾い上げようとすると放り出され
ていたTシャツに足を取られて転びそうになった。
「何で、そんなこと聞きたいんだよ」くゆらせていた煙草をもみ消して、ナカジはテー
ブルに肘を乗せた。「アレか、環に惚れたか? まああんな格好してるけど顔はそこそ
こだからなあ」
「そんなんじゃありません」反論しながらもミチルは、確かにそんな理由でもなければ
第三者のナカジにまで尋ねるようなことではないと納得できた。けれど実際、違うのだ。
恋心とか、そんな単純化して呼べるような感情は彼女の中には無い。だから戸惑うし、
悩みもする。
「ま、あたしには環に黙っててやる義理があるわけじゃないからな」ナカジの長い指先
が新たな煙草に手が伸びた。「久遠ってのは環の……あんたの思ってる通りだよ。双子
の姉貴」
やっぱり、ミチルは無言でうなずいた。
「まあちょっとわけありで、今は居ないんだけどな」
「いない、って……離れて暮らしてるってことですか」たしか環や梓の親は、『大陸』
に移り住んでいると聞いた。
「そうじゃない、『居ない』んだよ」押し殺したようなナカジの口調に、環が黙して語
らない理由が含まれている気がする。
「もしかして、亡くなったとか?」
「行方不明。生きてるか死んでるか、それすらわからないって事さ」
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