▼女装小説
L' oiseau bleu
第十三回
【渚にて】
作:カゴメ
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「ナカジさん、バイト始めたんだって。廃品回収って言ってたかな」
「前のガソリンスタンド、首になったみたいだからね。まあ半年も無断欠勤すれば当然
だろうけど」

「あ、ナカジさんといえば最近よくあのゲーム一緒にするんだけど。今まで一度も負け
たことないんだよ、私。強いでしょ? 今度、環クンもどう?」
「好きじゃないんだよ、ゲーム」

「そういえば思い出してくれた? お祭りの最後の日、何か劇みたいなのがあるって言
ってたけど」
「さあ、そんな話したっけ?」

海を渡るバスの車内は相変わらず閑散としていて、傍目にもこれで運営が成り立つのか
疑問に思える。後部座席の窓際が環の定位置でその直ぐ隣、と言っても鞄がひとつくら
い入るほどの隙間を保ってミチルがしきりに話かけ続けている。一方の環は補習も無い
本当の夏休みの午前中で眠いのか、肘を開け放した窓のサッシに乗せて吹き付ける潮風
にその黒髪を泳がせていた。振られる様々な雑談には生返事と変わらない良く言えば簡
潔、悪く言えば無愛想な回答しかしようとはしない。
この近辺では『大陸』のデパートまで出向かなければ手に入らないファンデーションの
残りが心もとないので、梓の買い物を頼まれたミチルを連れて家を出てきたのだが、彼
女に限らず女性とは、何故こうも意味の乏しい話を延々続けることができるのかと内心
呆れていた。実際夕食のときなどの梓とミチルの会話は天気の話から学校の同級生の噂
など、様々な方面に飛びすぎていてテーブルの隅におかれた醤油を取ってくれ、と頼む
ことすら相当困難である。
見かけをいくら装っても、本質的な部分で自分は彼女たちとは違う生き物なのだと環は
思う。
一方のミチルもまた、話をすればするほど反応が薄くなってゆく環に半ばお手上げの状
態で、五人掛けのシートの中央にゆったりと身体を沈めた。考えてみれば彼女には環が
関心を示すような話題というものが思いつかないのだ。もちろんそんなものがあるとす
れば、なのだが。
「次、降りるから」環にそう言われて、車内の手すりに据え付けられた降車ボタンを押
す。女性の声のアナウンスが『次、停まります』と彼とまったく変わらない口調で告げ
たことに、ミチルの唇には乾いた笑みが浮かぶのだった。

『大陸』と一口にその広大な土地を呼称してみても、実際には異なる文化圏同士が隣接
しあっている所もある。その事実を踏まえるとナカジの出身地などは『街』からまだ近
いほうで、どのような形をしていてどこまで続いているのか、世界のどの辺りに存在し
ているのかは体験を伴わない情報でしか知らない。
だから環たちが単に『大陸』と呼称するときは、主に『街』から見て対岸に位置する橋
を渡ってすぐの大きな都市のことである。それが彼らの生活範囲が極端に狭いことに起
因するのか、広すぎるあまり便宜上そうしているのかについてはここでは触れない。

                ※   ※   ※

『街』では考えられないほどの人混みをかき分けながら様々なテナントを押し込めたビ
ルやらショップやらが規則正しく並んでいる都市の大通りを歩くことに、ミチルはよう
やく慣れ始めていた。十字路の交差点にはゆったりと行きかう自動車に混じってバスや
タクシー、地下鉄の駅なども見渡せる。交通機関の発達具合がその都市がいかに栄えて
いるかを測るバロメータだとして、一地方の中心地としては申し分ない。
「これだけ車多いと、道が混むからかえって移動に時間掛かったりして」
ミチルはふと、そんなことを口にしてみた。環は相変わらずぼんやりとうなずくだけだ
ったが、ややうつむき加減で歩く彼に、周囲の誰もがまるで目を留めずにすれ違ってゆ
く光景にミチルは足を止めた。
環の服装は彼女も二度ほど見かけたクリーム色のブラウスにブラウンのショートパンツ
なのだが、彼が女の子の服を着ているからといって何も気にならないのだろうか。もと
より存在感の乏しい環ではあるが、少女として街の風景に一体化しているというよりは
そこから置き去りにされているだけのような姿に、ミチルはどことなく寂しさを感じて
いた。
環は、ファンデーションを買いにきただけだと言っていた。
(それなら)内心、決意する。梓のもとに来て以来自分自身もほとんどまともにしたこ
との無い化粧で、彼がどれだけ変わるか見てみよう。それはミチルの密かな好奇心でも
あり、たとえ記憶は失われていても肌の色合いひとつ、目元のラインひとつでどれだけ
女が変わるかを知っている本能の思いつきでもあった。

デパートの一階は梓に借りたノースリーブには肌寒さを覚えさせるほどに冷房が効いて
いて、化粧水やらパウダーやらのむせかえる香りが充満していた。そのなかを通い慣れ
たふうに環はまっすぐに売り場の一角へと向かう。近くにいたビューティーアドバイザ
ーに何事か話しかけ、並んでいたファンデーションのパックを見せてもらった後にすぐ
さま会計へと足を運び、金を支払って丁寧な包装をされたそれを受け取る。
その間、わずか二分にも満たなかった。
「じゃ、君の買い物行こうか」そうあっさりと言ってのける環に思わずミチルは呆然と
する。リピート買いをしているからなのかもしれないが、それにしても購入までのプロ
セスに女をまるで感じさせない。無駄のない男の買い物そのものだ。
「ん、でもその前に付き合って欲しいんだけど」そう言うとミチルは、周囲をきょろき
ょろと見渡した。もちろん、梓から預かった金で化粧品を買おうなどとは考えない。少
し離れた別のテナントの店先には秋口に向けて新色のアイシャドウが展示されている。
「ふむ、今日の環クンは……今日って外結構暑いのに全然崩れてないんだねえ」
「な、何だよいきなり」
「お肌合格、もとが良いからね。シャドウちょっと地味かなあ……あと口元はこんな感
じだから……やっぱり目元だね」
不意に環の手を取ると、その店の奥にあるカウンターへと引っ張ってゆく。ベージュと
黒のラインが入ったスーツを着こなしている女性店員はふたりの姿を見つけると、丁寧
に頭を下げた。
「すいません。シャドウの新色、テストして欲しいんですけど」
かしこまりました、と微笑みながら答える彼女はミチルを空いた座席へと案内した。
「いえ、私じゃなくてこの子なんです」
「え? ああ、失礼しました」視線を向けられた環は驚きと抗議の意思をミチルに向け
た。
「おい、何のつもりだよ」その声に目の前の客が少年であることに気づいたらしい店員
もまた一瞬驚いたようにも見えたが、何かを問い返すようなことはしなかった。既に慣
れている、そう言わんばかりの落ち着き払いぶりだ。目の前に運ばれてきたサンプルは、
明るめの茶色を基本としている。
「なんで、僕が」小声でミチルに耳打ちする。
「へえ、結構いい色じゃない? ほら、使ってみなよ」
その言葉にはまるで耳を貸さずに、ミチルは環の背中を突いた。
「失礼します」穏やかな口調から年齢の不詳さをにおわせる店員は、指先に取ったシャ
ドウを目に近づける。思わず目を閉じた環のまぶたの周囲は、それまでのくすんだよう
な色合いから徐々に明るいものへと変貌(へんぼう)してゆく。
「うん、このくらいの色合いもいいんじゃないかな」どちらかといえば地味と評された
メイクが、それだけで顔の印象全体を変えてしまう。
「おい、止めろって。目立つだろ」
「お気に召しませんでしたか?」環の言葉はミチルに向けて発したものだったが、店員
の手が止まる。
「いえいえ、とっても似合ってるじゃないですか。どうでしょう、店員さん?」ミチル
はさらにビューラーで睫毛を逆立たせて、別に展示してあったマスカラを試してもらう
ことにした。
「環クンってば睫毛、あんまり目立たせてないでしょー。つけてもいいんだけど、男の
子にしては結構長いし、このままでも」
売り場近辺を行き交う若い女性がときおり振り替えるなかでひととおりの作業を終えた
環は、改めて小さな手鏡で自分の顔を覗きこんだ。睫毛にマスカラを重ねられたことで
星のような艶やかさが増した気がする。また、シャドウの色味を変えたことで顔全体さ
えも明るくなったように見えた。
「どう? こっちのほうがぜんぜん可愛いでしょ」ミチルは得意げに笑う。
「いや、その……」環は思わず言葉を失い、映し出された自分の顔にぼんやりと見入っ
ていた。何が違う、などと明確に言葉にできるわけではない。ほんの数分の作業で、し
かも店先のサンプル化粧品で劇的に表情が変化するとも思えない。
しかしそんな彼の認識とは裏腹に、間違いなく環の顔は年頃の少女としての魅力が底上
げされるかのように輝いていた。
「言ったでしょ? 女の子は明るく、堂々としてなくちゃって。前を見なさい、前を」
言葉とは裏腹にミチルは、梓が前にどこからかもらってきたらしい試供品を分けてもら
っただけの、最低限のお手入れで済ませていることに却って気後れしてしまった。
「とても、良くお似合いですよ。よろしければ他のサンプルなどもお配りしていますの
で」
旅行セットに入っているような化粧水の小瓶を受け取って、その店を後にした。
「また、今度ここに来ようね」ミチルはいたずらっぽく笑う。口元は不満げに閉じられ
ていたものの、プロの化粧で見違えるような自分になったことに環は戸惑いつつ、不思
議な高揚を感じていたのだ。

「それにしても梓の奴、買い物って一体何を頼んだわけ。随分大荷物じゃないか」
環の道案内で薬局、スーパーの生鮮食品からお菓子売り場、本屋あたりを一回りしたふ
たりの昼食は、デパートから五分ほど歩いたオープンカフェだった。快晴の鋭い陽射し
に映える赤と黄色の派手なパラソルの下で、環はスパゲッティ・ナポリタンを、ミチル
はトマトとローストチキンを挟んだサンドイッチを前にしている。
「ふふふふんっ」鼻歌交じりに機嫌よく笑うミチルの姿が、環には奇妙だった。
「何がそんなに面白いのさ」
「だって、気づかなかった? ここに来るまで、いろんな人が環クンのこと振り返って
たよ。それも女の人ばっかり。モテモテじゃん? まあ、私のメイク指導あってのたま
ものだね」品を欠いた笑い方が癇(かん)に触る。
「君じゃないだろ、店員さんにしてもらったんだから」口に運んだパスタは、微妙に硬
い気がした。
「選んだのは私じゃん、ちょっとは感謝してくれてもいいと思うけど?」一方のサンド
イッチはレタスの食感が良く、パンも程よい温かさだ。
「はいはい、どうもありがとうございました」ぶっきらぼうな棒読みのお礼がミチルは
おかしかった。
「どういたしまして。ほら、テーブルに肘付かないの」
「まったく、梓みたいなこと言うんだな」反射的に姿勢を直しながら、環はため息をつ
く。
そこで彼は、前言を内心撤回した。もちろん梓の前で同じことをしても、同じような注
意を受けるだろう。しかし目の前で美味しそうにサンドイッチをほおばる記憶喪失らし
い少女と、幼馴染みの口うるさい友人のような家族のような少女の間で、決定的な違い
を感じていた。梓の小言なら、聞き流していればいい。子供の頃からずっとそんな関係
だったし、これから自分が大人になれば自然と止めていくようなことばかりを言われて
いる気がする。
けれど知り合ってさほど日のたっていないミチルの言葉には、なぜかいちいち切り返し
てみたくなるのだ。それが生返事と変わらない良く言えば簡潔、悪く言えば無愛想な回
答であっても。実際環は、『大陸』まで来るバスの途中でも反応こそ鈍かったが彼女を
無視したわけでは無かった。梓とのやりとりが長い期間で出来上がったいわばテンプレ
ート的な軽口なのに対し、ミチルの言葉にはそれまで知らなかったような新鮮さを感じ
る。
何に起因するのかもわからない感情に戸惑う環は、手元のアイスコーヒーをストローで
吸い上げた。ごろごろと鈍い空気の音がする。既に飲み干して、氷から溶け出したわず
かな水しか残っていない事を忘れていた。そんな姿を彼女に見られていること自体に、
妙な意識を持ち始めると気づかなかった恥ずかしさがこみ上げて、あわててストローか
ら口を離して残ったパスタをフォークに絡めた。
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