▼女装小説
L' oiseau bleu
第十二回
【スイカとメロン】
作:カゴメ
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夜明け前に目が覚めるのは、あたしにとって珍しいことではない。
もともと寝付きは悪く、眠りは浅いほうだった。未だアルコールの抜けきらない頭を振
りながら、台所の蛇口をひねって適当なグラスに注いだ生温い水を喉に流し込む。父親
のもとで暮らしていた頃なら、ベッドの中から寝返りひとつ打たずに頭の中で覚えたて
の数式でも反復しながら再び闇の底へと意識が落ちるのを待ったことだろう。
気晴らしに部屋のテレビをつけると、何故か十年以上も前の子供向けアニメの再放送が
流れていた。
「誰がこんな時間に観るんだよ」そう呟いて、あたしじゃねえか、とひとり突っ込みを
する。教育に厳しい家庭の例外に漏れず、あたしも家にいたころはテレビ番組などほと
んど観たことがない。ただ、この番組だけは無性に気に入っていてどちらかと言えば甘
い、母親にこっそり頼んで魅せてもらったものだった。その時間帯には父親が仕事で家
に帰ってこなかったことも幸いしていたのだが。
リバイバルブームにでも乗ったのか、DVDとしても販売されているらしいそのアニメ
は今観てみると、何もかもが予定調和の話でノスタルジーくらいしか魅力を感じられる
ものは無かった。

気がつくとあたしは、窓から差し込む朝日とテレビのお天気お姉さんの快活な挨拶で目
が覚めた。
「いつの間に寝ちまったんだ」誰も答えるはずのない疑問を口にして、立ち上がる。不
規則な睡眠はお肌の大敵とわかっていても、手遅れなものを今更後悔しても仕方が無い。
冷蔵庫にはそのままで口にできるようなものが無かったので、服を着替えて顔を洗い、
髪を梳かしただけですぐ近所のコンビニへと足を運ぶ。メロンパンをひとつ、缶コーヒ
ーをひとつ持ち込みの麻袋に入れて帰る途中、アパートの門から飛び出してきた梓とぶ
つかりそうになる。
グレーのTシャツにスウェット姿の彼女は、これからジョギングにでも行くかのようだ。
「町内会のラジオ体操! 夏休みの間だけ、小学校の子たちの面倒頼まれてね。環ちゃ
んも誘ったんだけど、朝起きたくないって言われて」
「あいつがそんなもん、行くわけ無いだろ。そういえば、ミチルは? むしろあっちの
ほうが行きそうな感じだけど」
そう尋ねると、梓は顎で背後を振り返る。
「あず、お待たせ! ……あ、ナカジさんおはようございます」
このポジティブシンキング記憶喪失娘――長い。いい呼び名がなかなか決まらないな。
……まあ、ミチルは梓と同じような格好で現れる。二人とも当然、化粧などはしていな
いがまだ未成年ならではの瑞々しさを立ち上らせている。
あたしは彼女たちくらいの年だった頃、あんな無邪気に笑えていただろうか?
「せっかくだから、あんたもどう? 健康生活できるよ」
「結構だ。もう老化が始まってる身には、運動はこたえるよ」

朝のワイドショーでは、陸上競技から芸能人に転身した誰それの結婚会見とか、『大陸』
のある都心部に山から下りてきた野生の猿が現れた話などを延々垂れ流している。
あたしも確かに、小学校の夏休みにラジオ体操があったことは記憶している。最終日ま
で休まず参加すれば、ノートと鉛筆セットがもらえるあれだ。そんなものは家に売り物
にするほどあったし、夜中までの勉強が忙しかったせいで朝は眠っていた。それを両親
も容認していた。
あたしが学校では周囲から孤立していたなどということは無く、それなりに交友関係を
築けていたのは、今にして思えばそういう子供たちばかりを集めたコミュニティに属し
ていたからなのだと思う。
今はどうか知らないが、あたしのいた当時いわゆる進学校とは余分と思われる要素は極
限まで切り詰め、学力という名の筋肉を勉強という名のトレーニングで絞り上げていた
のだ。
もっとも、そんな過酷に鍛え上げた頭も、メロンの味などしないのに何故メロンパンは
そう呼ばれているのか、そんなことにすら明確な答えを出すことが出来ないのだが。

「環クンは、休みの日って何して過ごしてるの?」
廊下に出るとこれから学校に行くらしい環と、送り出す立場の梓とミチルがいる。
「特に何も。部屋で勉強したり本読んでたり、梓のとこでネット見たりしてるさ」
「そうなのよねえ。環ちゃんってば私が言わなきゃほとんど外なんか出ないんだから。
少しは外に遊びに行ったら? 日光不足でお肌が荒れるよ」
梓の言葉がさりげなく耳に痛い。
「あ、あたしはちゃんと外出してるぞ」思わず会話に割り込んでしまった。
「え、どこに遊び行くんですか?」ミチルが興味深げに尋ねてきた。
「最近は『九郎人』とか、梓たちの学校そばのゲーセンとか、あとはたまに『大陸』の
ほう行って服見たりとか、だな」
「ゲーセン、って。子供じゃないんだから」
梓が呆れたような目線を向ける。
「最近じゃアミューズメントパークって言うんだけどな。内装もキレイになってて、乗
り物のゲームなんかもあるから、ちょっとした遊園地なみだ」
「本当ですか? 私も行ってみたいなあ」ミチルが、梓と顔を見合わせて笑う。
「でも学校のそばのは、小さくて汚いところだよ。昔ながらのって感じで、よくクラス
の男子が溜まってるよ」
梓はまるで行ったことがあるかのような口ぶりだ。その横で環が、小さく行ってくる、
と告げて階下へと降りてゆく。
女三人に見送られて外出とは、いい身分だ。本人も見た目は女の子の姿を装ってはいる
が。
「さて……ミチルちゃん、じゃあいつものとおりお掃除と洗濯、それに玄関の草むしり
お願いね」
血も涙も無く朝から重労働を強いる奴だ。にもかかわらず笑顔でうなずいているミチル
の姿を見ていると、あたしまでお使いのひとつも頼んでしまいそうだ。そうでなくとも
記憶喪失で大変だろうに。

あたしの、彼女に関する考察――すなわち未来もしくは過去の人間であるという考えは
そもそも、まったく別の時間同士を点としたときにそれを繋ぐ線を引けるかどうか、そ
の裏づけを要する。昔読んだ本のなかに時間とは過去から未来に向かう流れの中に、未
来から過去へ逆行する要素があって成り立っているとか何とか、書かれていたような気
がする。それが確かな考証にもとづいているのか、フィクションならではの創作なのか
はもう昔に読んだものなので思い出す気にもならない。
まあ、夢と謎の多い話だ。

部屋に戻ると、蒸した空気といたるところに散乱したゴミや脱ぎ捨てられた服、出しっ
ぱなしのゲームソフトや本に出迎えられる。ここまで至る状況にまるで無頓着だったあ
たしも、さすがに少しは片付けと掃除をしなければと思う。
窓辺に立つと、アパート前の路地を駆け抜けてゆく小学生くらいの集団が見える。
「魚釣りでもするのかな」時代がどれだけデジタルな方向に進んでも、アナログな文化
は滅ぶことは無い。誰かがそう言っていた気がする。
実際、『街』を取り囲む海では釣り竿を持ったおじさんの姿をよく見かけるのだ。

それにしても、暇だ。
自分を振り返ってみて、そう思う。あたしがこの『街』に滞在している理由は、世間一
般で言われる夏休み、その開放感を楽しもうというものだ。思い起こせば子供の頃は、
勉強に次ぐ勉強で、大多数の人間がかつて経験したような公園やプールでの遊びやお菓
子の買い食い、町内会のお祭りに旅行などといった絵日記に描くような思い出はほとん
ど無い。
だから今更、夏休みをどう楽しめばいいかがわからないのだ。
「ねえ、ナカジさん」ドアをノックする音がして、梓の声がした。
「ちょっと相談があるんだけど、いい?」
「家賃ならもう払っただろ」
「そうじゃなくて、お願い。入っていい?」
相手は仮にも大家(おおや)様だ。勝手にどうぞ、そう声をかけると甲高い、ドアの金具
が摺(す)れる音がした。
「相変わらず散らかしてるのねえ。床や壁に傷つけたりしないでよ、補修費用だって高
いんだから」
どうせそんなもの、いくらかかった所でこっちに請求するんだろうに。
「はいはい、気をつけますよ」そう言って、わざとベッドに寝転んでみる。窓越しの陽
光に照らされた布団はちょうどいい具合に温まっている。
「暇そうねえ」梓はため息をついた。
「おっ、幸せがひとつ逃げる」
「余計なお世話よ。それより、ダラダラしてるくらいならバイトでも行ったら?」
ガソリンスタンドのバイトは、先日半年以上も無断欠勤していたことを理由に首になっ
ていた。まああたしが雇い主でも当然そうするだろう。
「うっさいなあ、他にすることもあるんだよ」図星を言い当てられたときの人間の反応
として、最も模範的な受け答えをしてしまった。
それが結果的に、梓に対して隙を作ったことになる。
「まあキツくていいなら、他に紹介してあげられるけど。バイト」
いきなりの上から目線に面食らう。
「お前、いきなり何言い出すんだよ」
金に困ってるわけでもないあたしに、何の仕事しろって言うのか。「何だか知らないけ
どそんなのこそ、あのミチルにでもやらせれば良いだろ」
「ふうん、ミチルちゃんに譲っていいんだ。せっかく暇で暇で頭も身体もぼんやりして
るみたいだから、少しは身体動かして、ついでにお金ももらってくればって言ってるの
に。環ちゃんですら補習は真面目に行ってるのに。いつもああだと助かるんだけどね」
確かに、このまま家で食事とゲームと本まみれの生活を続けていては夏休みを楽しむも
なにも無いだろう。梓が部屋に入ってきてから三回言われるほどに暇なのは事実だ。
「まあ散歩がわりに、ちょっと付き合ってよ。嫌だったら断ってもいいからさ」
「わかった、わかった。何企んでるかわからんが、そこまで言うなら話くらい聞いてや
るよ」
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