▼女装小説
L' oiseau bleu
第十二回
【スイカとメロン】
作:カゴメ
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あたしには梓の誘いを断るだけの材料が無く、彼女の後を付いていくことにした。
道路の向こうがすぐ海に面しているアパートの近辺から、水路を越えて橋を渡り、レン
ガの細い路地を抜け、坂を上りきったところにある古い家の前で立ち止まった。そこは
どうやら高台になっているらしく、振り返っても前を見ても下り坂になっている。多少
海の水位が上がっても、この一帯ならそうたやすくは沈まないだろう。その蒼海を見渡
すと、今日の波は比較的穏やかでサーファー連中が浜辺を所在なさげにうろついている
のが見える。
「大山さーん、連れてきましたよ」梓は、木製の門につけられたチャイムに呼びかけて
いる。
少しすると、中から恰幅(かっぷく)のよい、いかにも人のよさそうなおばさんが現れた。
「あら梓ちゃん、ご苦労様。そちらが……?」あたしへと視線を移すと、なぜか納得し
たような表情になる。
「ええ、朝話した中島さん。力もあるから、大丈夫だと思いますよ。うちのドア、酔っ
払って壊したくらいだし」
嫌味たらしくこちらを見る梓と一緒になって、ソプラノ歌手のような朗らかな声で、お
ばさんは笑う。
力、と言われて何やら不穏な空気を感じずにはいられなかった。

縁側に案内され、出された麦茶に口をつけようか迷っていると、松葉杖を持ったおそら
くはおばさんの旦那だろう、気の良さそうなおじさんが姿を見せた。
「大山のおじさん、どうですか? 足の具合は」
「なあに、大したこっちゃないんだけどな。大げさにぐるぐる巻きにされちまったよ」
「何言ってるのよ、この人は。腰の湯治に行って、露天風呂で転んで骨折して帰ってき
てどうするんですか」
あたしを振り返る梓に、目線で紹介を求める。
「こちら、町内会長の大山さん夫妻。で、この人が中島薫さん。暇してるから、明日か
らでも働けるよ」
「バイト、ってそのことだったのか。ここで何をするつもりなんだ?」交互に紹介をす
る梓に聞こえるようにだけ耳打ちする。
「それじゃ、中島さん……ちょっとこちらへお願いできるかしら」
おばさんに呼ばれて裏手に廻ると古ぼけたトタン屋根のガレージがあり、中には白い小
型トラックがある。
「車、ってことは」
「あんたも免許くらい持ってるでしょ? バイト、ってのはこれ」
「いや、話がいまいち見えない」
「だから、廃品回収だよ。町内会の」

梓の話によれば、町内会では定期的に新聞紙やら雑誌類、古くなった家電製品などをリ
サイクル目的に回収しているらしい。持ち回りで今月は大山さんの担当だったのだが、
見たとおりの状態で車を運転することはおろか、荷物の上げ下ろしも叶わないというこ
とだ。
「で、あたしがそれを代わりにやれってことだな」
「そういう事。飲み込み早いじゃん」
「冗談じゃねえ」そう言いかけた時だった。ガレージの隅にある、小さな三輪車のよう
なものが目に入った。赤いフレームはさび付いていて、動物のイラストが描かれたサド
ルは破れて中のスポンジが飛び出している。
梓の肩を引き寄せて、小声で尋ねる。「大山さんって、子供いないのか」
「いるけど、『大陸』に住んでるの。いつもはこの時期、孫連れて遊びに来てるらしい
んだけど……まあいろいろ、さあ。あんたにだってあるみたいに」
抱え込んだ頭を小突いて、庭の辺りを見回した。ぺしゃんこにつぶれて立てかけられた
ビニールプールや小さな虫取り網までがいちいち何かを語りかけるようだ。
見たところこの大山夫妻は、あたしの両親(特に父親)のような厳格なふうでは無いし、
何かトラブルを抱え込んでいるようにも見えない。
「明日、何時に来れば良いですか」
親子関係など当人同士にしかわからないってことは、あたし自身がよく知っている。
共感などというおこがましいものは持てないが、この夫妻には何か気にかかるものがあ
る。

                ※   ※   ※

翌朝九時丁度に、あたしは大山さんの家へと到着した。徒歩にして十分くらいの距離を、
さながらジョギングのように軽く走る。途中までは環と同行していたが、お互い口数は
少なかった。
「夏休みだってのに毎日学校って、つまんねえな」
「そうでもないですよ。誰もいないから、楽しいんです」
そんな程度の、よくわからない会話をしただけだ。大山のおばさんから『街』全体の地
図を受け取り、赤い線のルートを巡って収集を行って欲しいとのことだった。町内会、
といってもその範囲は『街』と呼ばれている島全体になる。
「それじゃ中島さん、気をつけてお願いね! 今はかき入れ時なんだから」おばさんか
ら目覚めの一杯と言われて飲んだ麦茶には、ピンポン球程度の大きさの丸い氷が入って
いる。
「あれ、珍しいですね」
「フフ、特別な製氷機があるのよ」しゃれっ気を込めて笑うおばさんは、ほんの一瞬若
返ったようにも見えた。

スピードを落とし、教えられたとおりにカーステレオ脇のスイッチを押す。
『こちら、町内会の廃品回収です。ご不要になりました新聞、古雑誌、ダンボール、テ
レビ、オーディオ、パソコンなどの回収を行っております……』
間延びした男の声が、屋根の部分に取り付けられた拡声器から流れる。大山のおじさん
の声では無いらしい。海岸線の道路にさしかかったところで車の窓を開けると、潮風が
頬に吹き付けてくる。このあたりはあまり家もなかったはずだが――そう思っていると、
古い雑貨屋の入り口から飛び出してきたおばあさんが、大きく手を振っている。
「早速のご用命か」ブレーキを踏み、トラックを停止させる。
「おはよう、大山さん! 今日は……あら」窓越しにあたしの顔を覗きこんだおばあさ
んは、さすがに面食らったようでそれがあたしには面白かった。
「あの、あなた……娘さんかしら」
「いいえ、大山さんが足を怪我されたので……しばらくの間、手伝いです」
驚いていたおばあさんは、けれどすぐに納得したようで軒先の新聞紙の束を運んでくる。
それを受け取って、荷台の隅に積み込んだ。大した量は無かったが、これを『街』のい
ろいろな所でやるとすると結構重労働かもしれない。軍手とタオルを買っておいたのは
正解だった。
おばあさんに丁寧なお礼を言われ、勧められるままにまたも麦茶を一杯ご馳走になって
から再び車をスタートさせた。喉には心地良いが腹が冷える。昼過ぎまではこれきりに
しておこう。

給料がどの程度もらえるか、そんな話は全く聞かされていない。おそらくは時給いくら
で、廻るべきルートを完了しさえすれば早かろうと遅かろうと、それで一日の仕事は終
わりなのだ。
つまり、休憩なども勝手に取ることが許される。誰に監視されているわけでも無いのだ
から。停めた車の荷台に座り、広がる海を眺めながら携帯電話を取り出す。
「……ちっ、またかよ」新着として表示されていたのは、弟を名乗るあいつからのメー
ルだ。あの日以来文字通り一日も欠かすことなく最低一通は届く。内容はその日あった
こととか、母親と食べた飯の話とか、ときどき親父のことだ。
奴から語られる内容でそこそこに重要と思われることは、母親が遺産の相続分として法
外な額を要求してきたのには何か理由があるらしいこと、父親はあたしに接していた時
とはまるで違い優しく、どちらかといえば甘いくらいだということだった。
もちろんあいつが小さい頃の記憶を都合よく捻じ曲げてそう言ってるだけなのかもしれ
ないが。
「あたしにはガキの頃から厳しかったくせに」今日届いたメールには、地元の特産でも
ある桃を使ったパフェの写真が添付されている。
『いつか、姉さんと一緒に食べたいです』そんなメッセージが付記されていた。
もちろんあたしは、今までただの一度も返信をしたことは無い。

大山のおばさんが『かき入れ時』と言った意味はその後すぐに理解できた。祭りを控え
て『大陸』から戻ってきた連中がついでに、本格的な引越しをするために出したものの
量が多いのだ。なかにはまだ使えそうなステレオやパソコンのモニタなどもある。
不謹慎な考えが頭をかすめるが、トラックの積載量を余裕でオーバーしかねない状況に
陥ったので、携帯を取り出して教わった連絡先に電話をする。
「えっ、もうそんなに集まっちまったのかい。いやあ、一生懸命だねえ。感心感心」お
じさんの素っ頓狂な声がする。大して頑張ったつもりは無いのだが、確かにトラックの
助手席に放り出したタオルは汗を吸ってくたびれている。
「それじゃ、『大陸』の集積所に運んでくれるかね。場所は地図に描いてあるから」
渡された地図には、確かに橋の向こうのそれらしい場所に×印がつけてある。
高く上った太陽が昼時を告げている。飯ついでに一度、『大陸』へとアクセルを踏んだ。

『街』は全体が小さな島になっているとはいえ、収集の仕事をしながら制限以下の速度
でゆったり廻っていれば一周する頃には陽射しも翳(かげ)り、蒼とグレーのグラデーシ
ョンの空に一番星が浮かぶ。
二往復目の橋を『大陸』から戻ってきたところで、街灯のともり始めた商店街の入り口
を通りがかった環の姿を見つけた。
クラクションを数回鳴らして、トラックの窓から身を乗り出した。
「な、何してるんですか? ナカジさん」不機嫌そうな表情はいつもと変わらないが、
やはり声はうわずっていた。
「バイトだよ。家まで送ってやろうか?」どうせ、あとは大山さんのところまで帰るだ
けだ。少々の寄り道は構わないだろう。
環は少し戸惑った様子を見せたが、手に掲げた袋から先に放り込んできた。
「すいません、それじゃお願いします」
「梓に頼まれたのか?」中身の食パンが助手席に飛び出している。あいつは頻繁にミチ
ルや環に買い物を頼んでいる気がするが、食材だけいつもそんな大量に買い込んでいる
のか? 環は答えずに、その袋を膝に抱えて座る。レトロな印象を受ける制服は環の華
奢(きゃしゃ)な身体をごく自然に包んでいた。
「ナカジさんって、お金持ってたんじゃないんですか? どうして今更バイトなんか」
エンジンのかかりが悪く、動き出すと同時に席ががくん、と揺れた。
「ん? まあ……その何だ、毎日の充実の為にかな」確かに怠惰(たいだ)で退屈な時間
に飽きていたことは事実だ。
でも、本音の部分では違う。
「ナカジさんが、そんなこと考えてるなんて」
「梓みたいなこと言うんじゃねえよ。この半年、いろいろあったからな」
祭りのせいで人は増えていても、行き交う車の台数はそうでもない。仕事終わりのトラ
ックのアクセルを強めに踏み込むと、軽く制限速度をオーバーしてゆく。
「ちょっとは、世間ってモンを見たいんだよ」
ありふれた夏休みの一日。
ラジオ体操、公園やプールでの遊びやお菓子の買い食い、町内会のお祭りに旅行、最後
の日になって慌てて始める宿題、そんな絵日記に描くようなノスタルジックなイベント
とは今や無縁の、暑い一日。
人のよさそうな老夫婦のもとで、額に汗して働く一日。
新聞紙をはこんでくるおばあさんの笑顔が清々しかった一日。
『街』にあれほどたくさん人がいるという事実を知った、休みじゃない夏の一日。
あたしはとうに学生の身分じゃないから、ごく当たり前に生きるということが夏を楽し
むことになるのかもしれない。
そうですか、と納得したように環はつぶやいた。あるいはあたしの考えていることなど、
正直どうでも良いのかもしれない。
「お前は、何か楽しいこと無いのか? 学校ばっかりで」
「言ったじゃないですか、楽しいって」
「そうじゃなくて、色々こう……あるだろ? 『大陸』に遊び行ったり、旅行行ったり、
女の子とデートしたり」
「考えられませんね。僕はそういうことに興味が無いから」
あっさりと切り捨てられたところで、車はアパートの前に着いた。
まあ環の奴に、浮いた話なんかあるはずもないが――と、そこで玄関口で出迎えに現れ
たミチルの姿を見つける。
暮れ始める空に映し出されたふたりが、何処かしら懐かしさのような感情を思わせるこ
とにあたしは笑うしかなかった。
もちろんエンジンを踏み込んで、けたたましい排気音を鳴らして。

車庫入れを済ませて、大山のおばさんに一日の仕事を報告する。
「ごくろうさま、薫ちゃん。お菓子あるから少し食べて行きなさいよ」
いつの間にか呼び名が『薫ちゃん』になっていたが、特に不快な感情などは起こらなかっ
た。縁側には、お茶と小皿に乗せた羊羹が置いてある。
「これで足りる? お父さんのぶんもあるから出しましょうか?」
「ま、待ってくれ! そいつは井村堂の一日十個限定だぞ、勘弁してくれ」
おじさんは悲痛な声を上げる。
「いやいや、そんな欲張りませんよ……美味い!」
プレミア性をもたせているだけあって、深い甘みが口の中に広がった。疲れた身体には
特に心地が良い。仕事からの開放感からか、あたしも飲んでもいないのに珍しいくらい
に笑い、ふたりの間にいることが楽しかった。
「そうそう。田舎からスイカ届いたから、ひとつ持って帰りなさい。梓ちゃんにもよろ
しくね」
帰りしなに丁重に辞したにも関わらず、おばさんが渡してくれたのは見事な大きさのも
のだった。冷たいさわり心地に思わず頬を寄せ、漂う甘い香りを吸い込んだ。
「そうだっ」あたしは坂を下り、海岸沿いの開けた道まできたところにあるコンビニ脇
の駐車場で、そのスイカを地面に置いた。
携帯のカメラで丸々としたそれを画面いっぱいに撮影し、届いていた一通のメールに返
信する形でその写真を添付する。
『Re;姉さんへ』昼に弟の奴から届いた最新のメールだ。送信ボタンを押す前に、一言だ
け書き添えてやる。
「お前には、食べさせてやらねえ!」
どっちが年上かわからない、子供染みた初めてのメールだった。
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