▼女装小説
L' oiseau bleu
第十一回
【ほら、離せないぼくらのせかい】
作:カゴメ
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「また、あの夢を見たの」
冷房も入っていない休日の音楽室は古いじゅうたんのすえた匂いが漂っている。雨の降
りしきる外よりましとはいえ、湿気もあって快適とは言いがたい。環は楽器のことなど
まるでわからないが、おそらく吹奏楽部が練習をするには良くないコンディションだろ
う。
「いつもみたいに身体が落ちていくところで目が覚めた。あの女の人が誰なのかいまだ
によくわからない。どんな顔、してるのかさえも」
夢の登場人物は、梓ではない。全く見知らぬ誰かの体験が、彼女の意識を借りて再生さ
れているのだ。体験、と呼ぶにはあまりに不条理で現実味を伴わないものではあるが。
「膝を曲げて寝ると、落ちる夢を良く見るって言うらしいな」
「そうじゃなくて、すごく不安な気持ちになる。全然知らない人が、どうして私の夢に
出てくるの? なんで落ちるの? ……そういえば」
急に何かに思い当たった梓は、口元に手を当てる。
「あの女の人が拾った指輪、私持ってる。ずっと前に、環ちゃんにもらった」
「え?」突如名前を出されて、環は戸惑う。「梓に何かあげたことなんか無いだろ。勘
違いじゃない?」
「ううん、いつかもらったはずだよ……玩具の小さいやつ。多分、私が小学校入ったば
かり」
その頃は、環はまだ幼稚園児だった。仮にそんな事実があったとしても思い出せない。
逆に言えば、それはあり得ないとは言えないことなのだ。
「私ね、朝ミチルちゃんに話したことがあるの。夢とかの中には自分が覚えて無いこと
とか、忘れたような人の顔が出てくることがあるって」
「じゃあその、夢に出てくる女の人ってのも昔の知り合いなのかも知れないな。梓が思
い出せないってだけで」
梓もまたその通り、と言わんばかりに頷いた。
「ところで、何でわざわざ学校なんか来たんだよ? こんな話するんだったら家帰って
からでいいだろ」音楽室の五線譜が書かれた黒板の上には、有名な音楽家の肖像画が並
んでいる。環が顔を上げると、そのうちのひとつと目が合った。確か学校に伝わる怪談
では、深夜零時に目が合うと七日以内に呪い殺されるとされている。思わず携帯電話の
時計を確認してしまう。まだ午後二時だ。
「環ちゃんに聴いて欲しくなったの。私のフルート」梓はそう言うと、音楽室隅のロッ
カーを開いて、中から両手に収まる大きさのケースを取り出した。
「何でいきなり」確かに環は吹奏楽部に関心など無かったし、梓の演奏など聴いたこと
ももちろん無い。
「無理矢理連れ出さなきゃ、聴いてもらえないでしょ? 何だか、今聴いてもらえない
と一生こんなチャンス無いと思ったから。私がいつも何してて、何を思ってるかってこ
と、環ちゃんにも知ってもらいたかったから。だから夢の話だってしたんだよ」
まるでお別れの挨拶みたいだね。言いたくなって環はその言葉を飲み込んだ。以前、梓
にされた話を思い出したのだ。
自分には、目指す未来が見えない。どこに行けばいいのかわからない。それがわかった
からこそ、見えたからこそ感傷じみた行動を繰り返しているのかもしれない。そしてそ
の行き先は、当然ながら環と同じではないのだ。いつの間に、とも思ったがもとより梓
は環よりひとつ年上で、精神的な成熟はそれ以上に開いている。
そう考えると、彼女の奏でる柔らかなメロディーは窓の外で降りしきる雨のせいもあっ
てもの悲しげに聴こえるのだった。

帰路に着くころ、雨と風の勢いは若干収まっていた。
「これなら、傘入れてもらわなくて大丈夫だよ」環は相合傘の状態から離れて、梓の後
ろを歩く。肩を並べるのが気恥ずかしかったせいもあるが、つい先ほどの彼女の告白に、
子供の頃から意識することの無かった近しい距離が急速に遠ざかってゆくのを感じたか
らだ。
「別に遠慮することないけど?」
「いや、いいんだ……その傘に二人じゃ窮屈だろ?」
梓のほうでもそれ以上何かを言うことはせず、ほぼ会話を交わすことなく歩いてゆく。
「あ、やっぱり飾り落ちてる」ふと梓が足を止めるので、肩越しにレンガの橋を見つめ
ると、橋の手すりに巻きつけられていたらしい花の飾りが空しく道路に散乱していた。
これではとても祭りどころでは無い。
「良くて順延、悪くて中止か。いよいよこの『街』も」
「おしまい、で環ちゃんは本当に良いの?」梓はこちらを振り向かない。
「そういう問題じゃないだろ、現実に海の水位は上がってる。いつ沈んだっておかしく
ないってことさ」
「私は、このお祭りはこれからも毎年続いて欲しいって思ってるよ」二人の間を、風が
駆け抜けた。
「だって、ここは私たちの故郷じゃん。私にも、環ちゃんにもたくさん思い出があるで
しょ? なくなって欲しくないよ」
「いや、僕だって別になくなれとまでは思って無い。出来ることならここに居たいさ。
梓と違って僕には先のことなんかまるでわからないし、まだそんなこと考える余裕も無
い」そう言うと環は、路上に打ち捨てられたプラスチック製の造花をひとつ手にとって、
橋に据え付けられた針金へと巻きつけた。
「現実が目の前に迫ってるからこそ、抵抗したいんだよ。何の力もないから、こんなこ
とくらいしかできないけど」次々に落ちている花を拾っては、橋へと戻す。何もかも、
いずれ自分から離れてゆく。梓のことを特別に意識したことなど無いし、これからもあ
り得ないだろう。いくら幼馴染とはいえ、いつまでも子供のままの関係ではいられない
のだ。今だ曇天模様の続く空の下、胸のなかでくすぶっていた感情が晴れ渡ってゆく。
いつか失われるとわかっているのなら、せめてその場にあるうちは大切にしたい。
すると背後で、梓もまた傘をたたんで花を拾い始めた。
「結構散らばってるねえ、橋の下には落ちてないみたいだけど」レインコートのフード
の下から、笑顔がのぞく。思わずその場に硬直した環だった。
橋周辺を右往左往しながら、散乱した様々な色の花を再び灯らせてゆく。まさか『街』
の各所で壊れた飾りつけを直すわけでもないのだから、ふたりの行為は微々たる抵抗で
しかない。
それでも、目に留まる範囲の飾りを全て拾い集めて橋にくくりつけた頃には、ずぶ濡れ
の身体に陽だまりのような充実感がこみあげるのだった。

大急ぎで家にたどり着くと、ミチルが心配そうな表情で出迎えてくれた。
「あちゃあ、随分濡れたのね。あず、シャワー二度目行く?」
「そうしようかな。環ちゃんも、どう?」悪戯(いたずら)っぽく笑う。
「ば、馬鹿。自分の部屋帰ってからにするよ」何しろコートの下の服にすら雨水が染み
こんでいる。慌てて階段を駆け上がる環の姿が二人には可笑(おか)しかった。

翌朝、台風の過ぎ去った『街』は雲ひとつ無い澄んだ青空に包まれていた。気持ち良さ
そうに大きく伸びをする梓を先頭に、ミチル、環、そしてなぜかナカジまでもが続く。
四人で昼食を、などと言い出したのがそのナカジなのだ。『九郎人』の若旦那が作る油
そばが相当に気に入ったらしい。水たまりの残る地面には高く照りつける陽光が乱反射
していて水蒸気を立ち上らせ、道の向こうが湯気に覆われたように揺れている。海岸に
さしかかると梓は突然堤防から砂浜へと駆け下りた。ローファーのまま砂浜を駆け巡る
彼女を追って、ミチルが両手を広げて後を走り回る。
「何だ、あのガキども」苦笑を浮かべるナカジもまた、砂浜を跳ねるように凪いだ海へ
と近づいてゆく。その場に残された環も、渋面を浮かべながらも心は快晴の空と穏やか
な風の間に浮き立っていた。
「待てよ、昼どうするんだよ!」叫んだ環自身も含めて、誰もそのことは忘れていた。
靴を脱ぎ捨てた梓とミチルは浅瀬の部分で海水をひっかけあい始めるし、笑ってその様
子を見ていたナカジも台風で荒れた波に打ち上げられた貝殻やら植物の枝のようなもの
を海に向かって放り投げて遊んでいる。ぬかるんだ砂浜に環は足を取られて転びそうに
なり、慌てて両手をついた。けれどシフォン地のフレアスカートは少しだけ砂にまみれ
てしまった。
「わ、環クンのスカート、砂ついてる」
「ホントだ、じゃあいまからキレイにしてあげましょう」目ざとく見つけたミチルと梓
が襲い掛かる。
「や、やめっ」身をひるがえす間もなくスカートは、今度は海水まみれになってしまっ
た。当の二人ともショートパンツに上半身は半袖のカットソーで、既にずぶ濡れになっ
ている。
「まったく、そんなになって昼飯食べに行くのか? せっかくあたしがおごってやるっ
て言ってるのに」呆れた笑みを浮かべたナカジが傍に寄ってくる。
「気にするようなお店じゃないでしょ、『九郎人』は」ラフなスタイルで訪れる男性客
が多いラーメン屋は、店構えも古くお世辞にもきれいとか、衛生的とは言いがたい。実
際にこの季節は海水浴客が、水着姿で現れることも珍しくないのだ。
「ごもっとも。じゃあさっさと行きましょうか」肩をすくめるナカジに、ミチル、梓、
環の順番で続く。
「そういえば、昨日ちゃんと答えてなかったよね。夢のこと」先頭のふたりと距離をと
った梓が、小声で環に話しかける。
「もういいさ、そのことは」環のそれより腹が減る、とおよそ女の子らしくない言葉遣
いを咎めながら梓は続けた。
「ミチルちゃんが来てから、あの夢一度も見なかったの。だから、急に」
不安になったとは口にしない梓が、そして環がその意味を知るのは大分後の話になる。
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