▼女装小説
L' oiseau bleu
幕間 一
作:カゴメ
33P

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『信じていたものを疑う行為に、勇気は必要ありません。人類がその数百万年の歴史の
なかで蓄積した知識とは猜疑心(さいぎしん)の副産物に過ぎないからです。その最もわ
かりやすい例を挙げるなら、食物でしょう。原初の時代から生命活動と密着しているだ
けにその研究には膨大な時間と多数の労力が費やされてきました。味の良し悪しもさる
ことながら、毒物の調査には犠牲さえ払われたことでしょう。見た目を、味を、予後を
疑うことで今日我々の食生活は当然のもののようにあるのです。
ともあれ人間はある事象を認知し、理解すると同時に新たな疑念を持つことが自然に組
み込まれた生物で、それはさながら血液が全身を循環することで身体機能を活性化させ
る仕組みのようなものです。
ところがその思考の巡りにも、停滞が訪れることはあります。人はときに、自分が他人
に比べて劣っている、あるいは価値が低いと感じることがあります。限界のある能力を
最大まで引き出して、なおかつそれが意味を成さなかったとき、状況に埋没し、流され
ることを選ぶのもまた人です。それを一律に弱さ故と断じてしまうことは容易いですが、
劣等感から反発力を生成することもまた時間の経過に伴う自分自身への疑いと理解の繰
り返しが成せるのです。
人の活力はこのように上昇と下降を繰り返すもので、表面上にはその人の性格や環境の
変化にしか表れません。だから、人は変わるものだから敬意を持つことが出来ない、と
は非常に愚かで寂しい考え方だと僕は思います。
対象を肯定するためにも、否定するためにも継続的な理解が必要なのです。

個人が生命体として完成しているのみでは、そこに世界は存在し得ません。そのことは
以前君にも長々と話したとおりですが(あの時、僕が酒に酔っていたせいです)、個人
の思考は他人の価値観という不定形なものに対し優先されるべきなのか、あるいは竿を
立てずに流されることで均一を図るべきなのか、僕には未だ結論づけられません。状況
との兼ね合い、バランスなどという便利な言葉では自分を納得させられませんでしたし、
それほど器用だとも思えません。
しかし僕は、他者という存在が必ずしも自分にとって善を成すものとは言い切れない以
上否定する行為もまた必要だと思います。愛情がそうであるように、憎しみもまた他者
とのつながりを持つ手段の一つなのですから』


                  幕間 一


かつて戦争があった。
といっても、新聞や歴史の教科書に載るような国同士の大掛かりなものではなく、私の
ごく身近に起こった銃も爆弾も使われることのない戦争だった。けれどその時私が受け
た傷は休火山のように今なお再発の恐れを抱え、悲しみや怒り、畏怖(いふ)の記憶は頭
の中よりも指先やつま先、髪の毛の先に至るまで全身に刻みこまれている。私がそれを
あえて戦争と呼んでいる理由は後々まで残る、治りにくい傷跡と将来に渡って支払わな
ければならない破壊の対価にほかならない。そして何より性質の悪いことだが、発生に
いたるまでの過程が複雑でどちらが正しく、どちらに非があるのかを一概に言うことが
できないのだ。

               ※   ※   ※

「つまり、読解に語学力なんか必要無いのよ。大切なのは一を聞いて十を知るフィーリ
ング、それに書き手の心理状態を再現する想像力。自分なら、どんなことを考えながら
その文章を書くのかってね」
学食の窓から照りつける五月も終わりの爽やかな陽光は、岡崎さんの周囲にだけ暖かく
降り注いでいるように見える。彼女は昨年までOLをしていたらしい聴講生だ。一輪挿
しの花のように高くスタイルの良い容姿は学内の女性の羨望と相反する嫉妬を一身に集
めている。もっとも私は、お昼休みにクラスメイトに誘われるまま甘口のカツカレーを
美味しそうに食べる彼女が嫌いではない。彼女の対面、すなわち私のふたつ右隣に座っ
ている石田君などは熱烈なファンを仲間内だけではあるが公言しており、近代文の授業
の続きのような話におもちゃの水飲み鳥のようにうなずきながら聞き入っている。
「ははは、そこまで出来たら俺でも作家とかになれそうですね」
「そうね。良かったら石田君、何か書いてみたら? 確かサークル入ってるんでしょ
う?」
「無理ですって、岡崎さん。『エウレカ』は文芸サーとは名ばかりの、コンパとゲーム
大会ばっかりのお遊び処なんですから」
石田君のさらに隣の中条が負けじと横槍を入れる。顔を決して見合わせようとしない二
人の間には、剣呑な空気が漂っている。彼らは目の前に並べたおそらく学食メニューで
最も安く、そして味も不味い醤油ラーメンの温いスープの味もわかっていないだろう。
彼らの話から蚊帳の外になってしまったので、ハムとレタスのサンドイッチを食べ終え
てぼんやりと窓の外を眺めた。大学のキャンパスにいわゆる校庭が無いことを知って驚
いたのは三年前の秋口、学校見学に来たときのことだった。その頃は、早く一人暮らし
を始めて自由になることしか考えられなかった。結果、一年間の予備校生活を経てもな
お、滑り止めで受けたこの大学しか合格できなかったのだ。もっとも今は、そのこと自
体後悔も反省もしていないが。
「シズカ、何ぼんやりしてるの?」
向かいの席の茜(あかね)が声を掛けてきて、私は現実に引き戻された。同級生だが一歳
年下の彼女と初めて知り合ったときも、私はこんな風に教室の窓からキャンパスを見下
ろしてフラッシュバックするあの日を思い返していた。その様子が彼女には面白かった
らしく、以降次第に話をする仲になっていた。
「ううん、ちょっとね。家に心理学のノート忘れてきたの思い出しただけ」
気だるさがこみ上げて、適当な嘘をつく。
「あら、だったら私の使う?」そう言って割り込んできたのは岡崎さんだった。「今日、
これから予定あるから早退するつもりだったの。良かったら使って?」
まとめ下手で有効活用できていないとはいえ、社会学と併用のノートはちゃんとカバン
に収められている。返事に戸惑う私に、岡崎さんはその大人の女性の柔らかな笑顔で一
冊のノートを取り出してくれた。
「いえっ、でも……あの」アイボリーの表紙のそれを目の前に差し出されると、すぐ隣
の男二人の視線が痛々しいほどに突き刺さってくる。下手な断り方をすれば私が悪者に
されるような雰囲気だ。「……すいません、ありがとうございます」受け取ってしまっ
たのは居心地の悪さを払拭するためだったのだが、必要もないものをわざわざ借りたこ
とで、後ろめたさは形を変えてのしかかって来るのだった。
中身を数ページめくってみると、確かに自分でまとめたものより丁寧な字で見やすく、
かつわかり易い。
その学食からの帰り、岡崎さんと別れたあとですぐ隣を歩く茜の機嫌がなにやらよさそ
うなことに気がついた。
「今日、藤村君たちと飲み会なの」
「あれ、先週もじゃなかった? ハードスケジュールだね」
「そうでもないよ、でも女子が一人足りないんだよねえ」あえて私を誘おうとはしない。
彼女に限らず、私はクラスの間では男嫌いで通っているようだ。それがかえって助かっ
ているところもある。
校門を出て、キャンパスに隣接されている大きな市立公園へと足を運ぶ。入り口脇には
スケボーのバンクがあり、Tシャツにショートパンツの男の子たちが代わる代わる飛び
跳ねていた。おもにうちの大学の学生なのだが、ファッションと日焼けした顔つきのせ
いで少し年齢が低く見える。連なっている木々の間を通る、車でも入っていける道の途
中にある陽当たりの良いベンチで飲み物を飲んだり、話をしたりしながら時間をつぶす
のがこのところの昼休みの過ごし方だ。
茜はコンビニで買ったアップルティーのパックを開けた。
「それにしても、空が高いねぇ」のどかな表情でそう言う彼女に続いて、私は大きく伸
びをするように雲ひとつない晴天を見上げた。目を閉じても視界に残る赤と黄色と、緑
の入り混じった光はとても遠くにあるようで、けれどその存在感は押しつぶされそうに
大きい。ベンチの背もたれの傾斜に沿って背筋を伸ばし、両手を広げるだけで飛んでい
けそうなほどの清々しさはこの季節の特典だ。
「空の高さなんて、下から見てるだけじゃわからないよ」
鳥のざわめきに混じるように、不意にそんな声がして私も茜も慌てて正面に目をやった。

そこにいたのはTシャツに薄手のパーカーを重ね着して、ジッパーがいくつもついてい
る立体裁断のジーンズを履いた男の子だった。レイヤーを入れて一見乱れた髪から、コ
バルトブルーの瞳がこちらを覗く。背はさほど高くなく、ぱっと見でも私より少しある
くらいだ。
暗い。それが私の第一印象だった。
「何よ、君になんか何も言ってないでしょ?」茜は野良猫を追い払うような手つきで抗
議する。彼の視線は茜を無視して、私のほうに向いている。
「空を、歩いたことはある?」予想外に明瞭な声で、そう尋ねてきた。それはあまりに
も突拍子のない内容で答えられるはずもなく、目が点になる。
「……僕はあるよ」少年は小さな声でそんな言葉を残して、すぐにその場からいなくな
った。
「何だったの、今の」茜のほうを振り向くと、彼女は肩でため息をついている。
「あいつ、一之瀬(いちのせ)だよ。経済学部の」
「知り合いなの?」
「別に。サークルが同じだったから、顔と名前くらいは知ってるだけ。話なんかも全然
したことないよ」
同じサークルといっても、彼は一年の中ごろ、夏休み前くらいに脱退しているようだっ
た。彼女や、石田君も所属している『エウレカ』というサークルは名目上文芸、ようす
るに小説や詩、短歌などの創作や批評をメインとしているが学食での話の通り実際には
遊びがメインだと、茜からも聞かされていた。今日の合コンらしき集まりも、その一環
らしい。
「あいつには、合わなかったんじゃない? さっきの見たでしょ? ノリも悪いし、何
考えてるんだかわからないし。大体経済やってるならウチのサークルになんか入らなきゃ
いいのに」
「でも文芸サークルって、ああいうタイプの人ひとりはいそうだけど。ほら、昔の小説
家とか、あんなイメージじゃん。ちょっと陰があって、何考えてるかわからない感じ」
「酒で体壊してそうな? あはは、それ偏見。今何年だと思ってるの?」確かに日本文
学科の学生としては不穏当な自分の発言に、笑いがこぼれる。

待ち合わせの四時ちょうどに、私はS駅から少し離れた所にあるゲームセンターで姉と
合流した。が、対戦格闘ゲームで八連勝ほどしていたところを捨ててしまうのは惜しかっ
たので、その後手抜きをして負けるまで十分ほど待たせてしまった。
「相変わらず強いんだねえ、あんた。あたしもよくボコられたしな。おかげでキックボ
クサーは見るとトラウマになるよ」
地下駐車場にとめてあったセダンの助手席でシートベルトをきつめに締める。姉の運転
は上手いほうだが、スピードを出しすぎる傾向があるのでこうしておかないと不安にな
るのだ。急勾配の坂を上って地上に出ると、ラジオに耳を傾けていた姉が舌打ちをした。
「二十六号線で玉突き事故だと。回り道するから、遅くなるよ」

「結局どいつもこいつも、考えることは同じだな」
姉の言葉通り、市街から中央道へ抜ける大通りは事故を回避して流入した車の群れで渋
滞になっていた。幸いこの季節で日が長くなったことが今のところ私には幸いしている。
夜の帳よ、まだ街を包むな。
緊張から舐めていた飴を氷のように噛み砕く。
「急ぐなら、駅で降ろすけど?」こちらを振り返らずに、私以上にいらだった様子で姉
は言う。
「ううん、大丈夫。これで電車も遅れたりしたら、それこそ困るから」
座席にもたれかかり、少しずつ動いてゆく車の群れに目をやる。吸ったことなど無いが、
煙草が欲しくなるのはこのような時だろう。
いまだに私は、乗り越えることが出来ないらしい。動かすことのできない事実と体験は、
闇に対する拭い去ることの出来ない恐れを与え続けているままだ。徐々に進み続けてい
る車の速度が家路へと続く中央道に入るとともにあがってゆく。夕暮れが少しずつ空を
薄紅く染めてゆくなかで、ラジオから数年前にヒットしたユニットの曲が流れる。ボー
カルがパンキッシュな女装をしていたユニークな二人組だったので、その名前と曲は覚
えている。

青空の高さを知るように、誰もが自分が何者かを知っている
海原の広さを知るように、誰もが自分の感情を知っている
渇することの無い欲望を、誰も満たそうとは試みず
とめどなく溢れる欲求を、誰も抑え続けてはいられない

知ることとは、さらに無数の知らないことを増大させる
空に手が届かぬように、海を手に収めることが出来ないように

そんな歌詞を聴いているうちに、昼間出会った一之瀬の、不思議な言葉が蘇った。
『空を、歩いたことはある? ……僕はあるよ』寂しげな、けれど他人の介入を拒むよ
うな口調。彼はいったい、何を伝えたかったのだろう。それは少なくとも茜に向けられ
たものではないようだった。だとしたら、私?
ただの一度も話したことも、まして存在さえ知らなかった相手が?
どうにか明るいうちに家にたどり着いた頃には、すっかり思考が混乱していた。
「ほら、早く夕食にするよ。今晩はカレー! あんた、大好きでしょ」
母親のはつらつとした声に、昼間岡崎さんが食べていた学食のカレーが思い起こされる。
ノートはお陰で大変役に立ちました、そう伝えよう。

               ※   ※   ※

私が週に一度だけ参加するサークルには、経済学部の学生も少なからずいる。そのうち
の何人かが彼、一之瀬を知っていた。最初の印象からして人付き合いの広そうなタイプ
でないことはわかっていたが、そんななかでも仲の良い数人とはよくツルんでいるらし
く、とりつく島のないような人間でもないらしい。
「俺、たまにあいつと話すけど……。まあ変わってるっちゃ変わってるよな。飲み会な
んかほとんど来ないし。天気屋って言うのか? 機嫌の悪いときは誰が声掛けても全然
反応ねえの。そうかと思えば妙にペラペラ訳わからんことを話しかけてきたりな。……
そうだ、この前アイツ」
「何かあったの?」
「おうよ、まだ誰にも話してないんだけどさあ……席が隣どうしだったから、あいつの
机に置いてあったペンケースの中身がたまたま見えてよ。そのなかに、何があったと思
う?」
声を潜めてささやくようにするその手の話の常として、既に何人かには語っているに違
いない。私は、そのことは口に出さず黙って耳を傾ける。
「口紅だよ、口紅。俺の彼女が持ってるのと同じやつだったから覚えてる。普通に鉛筆
とか入ってるなかにありゃ、目立つだろ」
「家族の持ち物が紛れ込んだだけじゃないの?」そう考えるのも自然だ、といわんばか
りに話の相手は言葉を続ける。
「まあ、続きがあるんだよ。その後俺も、気になってしばらく様子見てたんだよ。で、
その後昼休みになって弁当食べてたとき、あいつハンカチ持ってたんだけどよ。それが
ラヴィアンだったんだぜ」
ラヴィアン・イーストエンド。海外の女性向けファッションブランドだ。
いくら家族のものを間違えて持ってくるようなズボラな性格でも、女性のハンカチまで
は仮に持っていても使わないだろう。
「で、まあそのことは俺の胸にしまってある秘密なんだけどよ。あいつに何か用がある
のか? ってかシズカ、お前いつと知り合いだったのか?」
「特にそういうわけじゃないんだけど。昨日友達といるときに見かけたから」
「おいおい、そいつぁもしかしてフラグですか?」急ににやけた顔になる相手に礼を言っ
て、サークルが集会に使っている空き教室をあとにした。

本当にただの変わり者なのか。
たったの一言二言が、妙に私の胸をざわつかせている。三時限目以降の授業は自主休講
することに決めて、学生たちの活気にあふれた歩きづらいキャンパス内を通り抜けた。
地価の高い都市部にある割には広いので、迷うこともある。二年目だし、いい加減慣れ
なければと思う。校門付近にさしかかったところで、偶然と言えば出来すぎなくらいの
一之瀬の姿を発見した。
「あ、あのっ」駆け寄って声を掛けるべきなのか、瞬時の迷いが生じた間に到着したバ
スの中へとその姿は消えていた。慌てて小走りに追いかけようとするが、乗る気も無い
バスであらぬ方面へ連れて行かれたらどうするのか。行き先は『深見植物園前』となっ
ていた。彼の家のほうだろうか?
その時、背中を指で突かれる。乗車口前で思案をしている私に、すぐ後ろの男が苛立っ
た様子で立っている。
「乗るの? 乗らないの」しばしの躊躇(ちゅうちょ)も許さないような口調に押されて
私は、銀色のタラップを駆け上がってしまっていた。車内を見回すと一之瀬はちょうど
運転手のすぐ後ろの席に座っていたので、思わず最後部の五人がけの席の、左端に座る。
この位置からなら彼の様子はよく見渡せる。頬杖をついて、窓の外をぼんやりと見つめ
ていたかと思うと授業で取ったと思われるノートを取り出している。意外と勉強熱心な
のかもしれない。
走り出すバスの中で私は、ともすれば包み込まれそうになる眠気をこらえながら文庫本
で顔を隠しながら彼の様子を窺(うかが)う。先週発売されたばかりの小説はまるで内容
が頭に入っていかない。途中まではとても面白い本だったのだが。
昼前の時間帯の割りに混んでいるバスは停留所をいくつか通過するが、そのたびに降り
る客とほぼ同数の客が乗り込んでくるので車内密度は一向に変化しない。そういう路線
なのか? 美容院で先週ショートにしたばかりの髪は開け放した窓から吹き込む風を受
け止めて、男の子のように乱れている。が、そうでもしないと揺れるバスの心地よさに
眠ってしまいそうなのだ。

結局一之瀬が降車したのは、終点の植物園入り口だった。

               ※   ※   ※

あろうことか降車時の人ごみに紛れた彼の姿を、私は見失っていた。
「何をしにきたわけ」思わず一人、つぶやいてしまう。辺りには人気(ひとけ)もすっか
り無くなって、植物園の入り口だけが私を待ち受けている。
入場料、大人400円。学生は300円らしいがそれも高校生までだ。安っぽい、紙に金額と
時刻が記載されただけの券をモギリをしていたお姉さんに差出して、代わりに受け取っ
たこれまた手作り感漂う園内のマップ(ピンク色のコピー紙に、手描きの絵図が載って
いる)を眺めてみる。それによるとこの植物園の最大の売りは、国内でも有数とされる
薔薇園らしい。海外産の珍しい品種やら、毎年のコンテストで賞を取った品種やらが並
んでいるそうだ。
そもそも何を目的としているかもわからないまま来てしまったので、そのまま勢いにま
かせて十五分ほどのルートを歩き出した。平日だからか客は多くないと思っていたが、
おじいさんおばあさんの集まりや、遠足らしき小学生たちをよく見かけた。周囲を雑木
林に囲まれている園内には鳥のさえずりが響き渡っていて、初夏の長閑(のどか)な陽射
しは柔らかかった。

突然、どこからか鐘が鳴り出した。金属を打ち付けているがざらついた耳障りのない、
澄んだ音色だ。見ると通路の先にある開(ひら)けた広場で、柱が一本の木のように幹と
枝を広げていて、その先に木の葉のように連なっている銀色の鐘が電動式なのか、揺れ
て音を立てている。
腕の時計を確認すると十二時ちょうどだ。この時間に鳴るように、セッティングされて
いるのだろう。
広場の中央には大きめの噴水があって、それを取り囲むように辺りには、無数の薔薇が
咲き乱れていた。薄桃色、オレンジ、ベージュ、紫、ホワイト……。そのひとつひとつ
の名前は知らないが、いずれも群生する花のなかで自らがもっとも華麗で美しいといわ
んばかりの強烈な存在感を顕(あらわ)にしている。自己顕示欲の強さは人間も花も同じ、
と言ったところか。ましてやここにあるもののほとんどは人間の手によって品種改良さ
れたものだ。
ふとその中に、平日の植物園にはおよそ似つかわしくない姿を見つけた。
それこそ薔薇の花びらのような幾重ものフリルをつけた桃色と白を織り交ぜたワンピー
ス。華奢(きゃしゃ)な二の腕を出しているかと思えばひじまである長いレースのグロー
ブ。その指先がときどき、長い髪をかきあげている。彼女は身をかがめて辺りに漂う香
りを楽しんでいるようで、その小柄な後姿と上品な所作が整い過ぎていて、その周囲だ
けが非現実の空間のように感じられる。だからこそこの場には不釣合いなのだ。さなが
ら少女マンガや絵本の世界から飛び出してきたようなお姫様然とした立ち居振る舞いに、
思わず目を奪われてしまう。
鐘の音が止むと同時に彼女はこちらの視線に気付いたのか、ゆっくりと振り返った。
華奢で小柄な身体は男のほうに喜ばれそうだ。そして目、鼻、口すべてのパーツが小さ
い端正な顔立ち――「えっ?」それを見て、私は思わず声を上げてしまった。
化粧をしてはいるが、見覚えは間違いなくある。
サークルの仲間の話を聞いたから、錯覚しているのかもしれない。けれど。
疑念は、見つめあう静止した時間のなかで確信に変わる。
そうだよ、間違いない。彼女、いや彼は。
「でも、どうして?」思わず口にしてそう尋ねた。

「新しい、空の歩き方」
女装をしていた一之瀬は、昨日とは違うはっきりとした声でそう答えた。

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