▼女装小説
L' oiseau bleu
幕間 二
作:カゴメ
34P

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理由や意味は、聞くに聞けなかった。
生活のにおいを感じない、平日昼間の植物園でははっきり言えば派手なスタイルに身を
包んだ一之瀬はこちらに構う様子も無く、噴水そばのベンチに腰を下ろしてウィッグの
髪を風に泳がせている。遠目にはわからなかったが薄いチークが、男としては白い両頬
を染めていた。
「何か、用があったの?」不意に声を掛けられたことで戸惑う私の心中を察したかのよ
うに続けた。「この公園に。花を見に来たって感じじゃなさそうだし」
「失礼なこと言うね。 ……友達に、綺麗な薔薇園があるって聞いたから」
「汗、かいてるみたいだけど。何か探し物でもしてたの?」涼しげな笑みを浮かべた一
之瀬の指摘はその通りで、知らない間にずいぶん早足で歩いていたのかもしれない。ハ
ンドバッグから取り出したハンカチで額をさっと拭うと、ちょうど一人分開いているベ
ンチの隣へ座り込んだ。薄手のパーカーにハーフパンツの私とピンクのワンピースを着
こなした一之瀬とが並ぶと、どちらが男で女なのか、わかりはしない……事は無い、と
思いたい。
「ねえ、昨日の話なんだけど」先に口火を切らないと、ひどく居心地が悪いように思わ
れた。「空を歩いたとかなんとかって。本当なの? もしかして君、マジシャン?」
茜はあの後、一之瀬のことを夢と現実を混同してると言っていた。内心私もそう思う。
「本当だよ。二、三歩ですぐに落ちたけど」
「落ちた?」
「高校の頃、校舎の三階から。幸い怪我はそれほどでも無かったけど、しばらく学校行
けなくなって留年しかけた」卵を割り損ねて指が白身まみれになった、とでも言うよう
な軽く淡々とした語り口だったので、私はかえって自分の耳を疑った。今は、とんでも
ない話を聞かされているのではないのか?
「何でそんなこと」問いかけた直後に私は、その言葉を取り消すように首を横に振った。
それこそ聞いてはいけないことだと思えたからだ。多分彼は、もともとの中性的な外見
と内向的な印象からいじめのようなものにでもあっていたのかも知れない。それを友達
でもない私が不躾(ぶしつけ)にほじくり返すわけにはいかないだろう。
(でも、それって)
私の胸には、未だに明けることの無い闇夜がある。そこには何があるのかわかっている、
けれど月も太陽の光も届いてはいけない、真実を知らしめてはいけない。そんな誰も覗
くことすら許されない深い淵を、彼もまた持っているということだろうか。
常識的に考えれば、なんの理由も無いのに校舎の三階から飛び降りることなど考えられ
ない。確かに一之瀬はいきなり女装をするような、突飛な行動をしてはいるが。
ベンチの背もたれに寄りかかって眺める空は高い。筋雲がときおり流れていく。視線だ
けでその揺らめきを追いかけていると、ついさっきの言葉がよみがえってくる。論理的
とは思えないが、そう考えれば彼の行動は一応、裏づけがあるのだ。
「そういえばさ、その服装。新しい空の歩き方、って言ってたけど。何で?」
そもそも、空に歩き方などというものがあるのだろうか――私の思考は、黒髪を指先で
もてあそんでいた一之瀬の唐突な言葉でさえぎられた。
「率直に、どう? この服装」
「どう? って聞かれても……派手だと思う。男の人はそういうの好きなんだろうけど、
女の私服でそれは無いよ。コスプレとかならわかるけど」
「うーん、そうだとは思ってたけど。やっぱり改善の余地ありかな」それまでのはっき
りとしない口調とは裏腹な、納得したような語気でひとりうなずいている。
「どういうこと? 何か、実験でもしてたの」
「実験っていうか、試みだね。自分がどれだけ非日常的空間に近づけるのか。そしてそ
のままの状態で、どこまで日常に溶け込めるのか。自分は自分のままで、同時に他人に
なれるのか」
「ヒニチジョウテキクウカン?」経済学部というところでは、そんなことを勉強するの
だろうか。「それが空を歩くってことと、どう関係があるの」
「さあ。空を歩けないなら海に潜ったっていい。でも僕は、落ちたことはあってもおぼ
れたことはないってだけだよ」
目の回る言葉だ。私が何も言い返すことができないでいると、彼はベンチから立ち上が
り、長いスカートを翻しながら別れの一言もなく立ち去っていった。その時、右脚の動
きに違和感を覚えたのは気のせいだったろうか。
(三階から落ちた……って言ってたっけ)
薔薇に薫る穏やかで暖かな風が、一本の木のように立ち尽くす銀色の鐘を撫でている。
置き去りにされた釈然としない思いが、私には残されたのだ。

その日は姉と待ち合わせをすることは無かったので電車を乗り継ぎ、早々に帰宅するこ
とにした。考えてみれば私は大学に入ってからただの一度も、コンパや夜遊びの類に参
加したことが無い。それだけで付き合いづらい人間扱いされることも無いのだが、変わっ
ているとは思われても仕方ないだろう。
「ただいま」この時間は母も買い物に出かけているせいで家にいるのはおそらく私ひと
りということになる。窓辺から夕日が差し始めた時間だったので家のなかは薄暗く、朱
と黒の影に彩られていた。私は居間をはじめとして廊下、二階へと上がって自分の部屋
の電灯のスイッチを入れて白い光でその両者を中和する。それと同時に心臓を握り締め
られたかのような胸の鼓動が収まるのを感じていた。これでひとまずは、あの暗闇に飲
み込まれそうな、底の見えない深遠に落ちていきそうな恐怖を感じなくても済むはずだ。
机の上に広げられた原稿用紙は現代文学の課題で、身近な人間を題材に小説を一篇仕上
げろというものである。日本文学科に入ったのは単純に数学より国語の出来が良かった
ためで、高校のときに担任から薦められた読書感想文コンクールくらいしか長い文章な
ど書いたことのない私にとっては正直、手に余るものだった。まして起承転結の存在す
る物語なんて、どう取り掛かればいいかすらわからない。
岡崎さんが言っていたことには、書きたいと思う人がどういう人なのかを読み手に伝え
るつもりで書けば良いそうだ。とはいえ私の周りにはそんな、小説の主人公が務まるよ
うなエピソードを持っている者はいない。家族にしろ友人にしろ、私の目からすれば善
良で、かつ平凡な人々だ。私自身の話を書いたほうがまだ形になりそうだ。決して書こ
うとは思わないけれど。
そういえば。一之瀬を主人公に話を書いたらどうなるだろう。
彼がなぜ、女の子の姿をするようになったのか。
どうやって、服を選んだりメイクを学んだりしたのか。
髪型から手足まで女の子になって、何を思ったのか。
自分のままで他人になって、何をしたのか。
与えられた情報は少なく、想像の余地があるだけ面白そうだ。少なくとも私が今日まで
生きてきたなかで、初めて出会うタイプの人間だ。いや、本当はお母さんもお姉ちゃん
も、茜も岡崎さんも石井君なんかもそれぞれに全く違う人間なのだが。
それでも私の思考は、一之瀬を中心に回り始める。本当に書くなら、もっと彼のことを
知らなければならない。根幹となる事実に色づけをするならともかく、思い込みで何か
を書くことなど出来るはずもない。
何しろ、もう一度大学のキャンパス内で偶然にでも彼に再び会えるかどうかもわからな
いのだ。

               ※   ※   ※

学部が違うと、サークルや部活が同じでない限りなかなか接点を持てないものだ。『エ
ウレカ』を辞めてしまった一之瀬がその後、どこかのサークルに入ったという話は聞け
なかったし、経済学部のサークル仲間もそう頻繁に会うわけではないからメールアドレ
スさえ知らないということだった。
「何、一之瀬がどうかしたの? この前言われたこと気にしてる?」
変な勘ぐりをされるかもしれないと思ったが、茜はこちらの話に付き合ってくれた。ま
さか彼が女装をしているなどとは、言えるはずも無いが。
「まあね。なんか変な奴だったなあ、って思って」
「そうそう、変な奴! 確かに課題のネタにはなるかもしれないけどさ。私はシズカの
こと書こうと思ってたんだけど」
目を見つめられて、思わず背筋にむずがゆい震えが走る。
「えっ、私なんか何も書くこと無いと思うけど」
キャンパスの中庭は、いくつかのサークルが占有しているスペースがある。今日のよう
に天気の良い昼下がりにはそこで、持ち込んだ弁当などを食べている姿が見られるのだ。
私と茜はといえば、学食でランチを食べたばかりで持て余す午後の休み時間を『エウレ
カ』の誰かが持ち込んだベンチを間借りしている。
「そうかなあ、気付いてないと思うけどシズカって結構クラスの男連中に――」
ふと中庭を挟んで反対側の校舎入り口に、誰かが立っているのが見えた。その背格好は
一之瀬のものに他ならない。手にはノートらしきものを持っていて、辺りを見回しなが
ら時々何かをメモしている。
「ごめん、私ちょっと」その場をあとにしようとすると半分眠そうにしていた茜は、机
に突っ伏して昼寝を始めてしまった。

「何、きょろきょろしてるの」
「リサーチだよ。女の人が、普段どんな服を着てるのかをさ」
彼の手元のノートを見ると、汚い走り書きの文字で『薄手のパーカーにインナーは白の
Tシャツ、シフォンのプリーツスカートに足元はスニーカー』などと、辺りを通りがかっ
た女の子の服装が大雑把に書きとめられている。ところどころに平仮名が混じっている
あたり、相当急いでメモしているようだ。
「この前言ったこと、気にしてたわけ?」
「おかげさまで。僕、高校男子校だったから」言い訳になっていないことを不満そうに
つぶやいた一之瀬がおかしくて、吹き出してしまう。
「あはは、それだったらすぐ近くに絶好のモデルがいるのになあ」その場で一回転して
みせて、気に入っているアイボリーのボレロを翻す。
「えっと、それって」シャープペンの手が止まり、一之瀬はこちらを振り返る。
「黙ってたけど、メイクもなんか不自然だったし。それに女はね、服装に合わせてカバ
ンから靴からアクセから、色々揃えるの大変なんだよ?」
何を言い出しているのかと思う自分を、ある確かな計算を持っている自分が見ているの
がわかる。これが彼の言う非日常的空間の話なのだろうか。
「だからさ、私が一之瀬君に女の子の服装とかそういうの、一通りレクチャーしてあげ
る。その代わり、こっちもお願いしたいことがあるんだけど」
「金なら無いけど?」
「そうじゃなくて。私、課題で身近な人を題材に小説を書かないといけないの。で、そ
の主人公に」
「まさか、僕を?」気色ばんだ表情で答えられる。やはり、女装をしていますなどと書
かれるのには抵抗があるのだろう。
「そうだねえ……いっそ、一之瀬君を女の子として書いてみるとか。うん、なんとなく
面白そう。というわけで、どう? この取引」
「どうもこうも、ついこの前会ったばっかりじゃないか。僕は、えっと……名前だって
知らないのに」
そう言われて私は、自己紹介すら彼にしていなかったことを思い出した。
「そっか、そうだったね。私は」
いや別に、と立ち去ろうとする彼の右肩を捕まえてなかば強引に振り向かせる。
「聞いてよ。私は相葉(あいば)シズカ、日本文学科の二年。サークルはシーズンスポー
ツ系の『フラジャイル』。誕生日は八月三十一日で」
「わかった、わかったって。でも、僕をモデルに小説を書くって言ったってどうするの?」
「それはこれから一之瀬君を研究してから決める。いきなり空を歩くとか、女装したり
とか面白いじゃない?」
午後の暖かな陽だまりのなか、昼寝から覚めたらしい茜がこちらへ駆け寄ってくる。そ
ろそろ休み時間が終わるはずだ。私は一之瀬の持っていたノートのページに自分のメー
ルアドレスを走り書きした。

「ちょっとシズカ、何であんなのと一緒にいたの?」
茜はさすがに戸惑いを隠しきれないといったふうで問いかけてくる。
「言ってたじゃない。小説のネタにするには面白いって」
答えながら私の頭の中には、女の子の姿に着替えた一之瀬がさながらバージンロードの
花嫁のように優雅にかつ軽やかに空を歩く姿が浮かんでいて、頬がゆるむのが抑えられ
なかった。

               ※   ※   ※

週末になって初めて、一之瀬からメールが届いた。そこには、S区まで服を買いに行く
から(男物とのことだった)、この前の話が本当なら一緒に来てほしいと書かれていた。
幸いにも予定の無かった私は承諾する旨の返信をして、クローゼットに並ぶ服を部屋の
床に一通り広げてみる。
なにしろこれも、女の子の普段着というものをレクチャーする一環なのだ。だから特別
凝った服装をする必要はないが、かといってあまりにラフなスタイルというのも気後れ
する。女友達同士で出かけるなら尚更(なおさら)おしゃれもするが、キャンパスを離れ
た場所で会う以上は……。
あれこれと迷い続けてチェックのショートパンツに重ね着のカットソーを合わせて、帽
子でアレンジを加えることに決めた頃には眠気がこみあげてきて、いつものように部屋
の電灯をつけたままベッドへと倒れこんだ。

男の服はどれも大体似たり寄ったりだなあ、と思う。
一之瀬は着てきたジャケットとそう変わらないシルエットの上着を一枚買うのに、十分
ほど店内に陳列されているものを見て回っていた。正直なところ、女の目から見れば服
装じたいより小物にこだわって欲しいところだが、指先や首元にシルバーを輝かせてい
る彼の姿もそれはそれでおかしなものだ。彼自身もそういったことはわかっているらし
く、だからこそバリエーションが多岐にわたる女物は選ぶのが大変だと言う。
「そもそも一之瀬君、どんなタイプの女の子になりたいの? 例えば大人っぽい感じと
か、可愛いのとか」
昼下がりになったので休日の混みあった街並みを眺められるオープンカフェのテラスで
ランチにした。軽食程度しか出ないので一之瀬には不満かもしれないとも思ったが、意
外にもアラビアータとコーヒーのセットで満足しているようだ。
「いきなりそんなこと言われてもなあ。まあ、僕と同じ年くらいの女の子に見えれば良
いかな」
「何歳だっけ?」
「十九。来月で二十歳」
そう言われて、彼が自分よりひとつ年下だったことに気付かされる。もっとも外見の印
象は若く、と言うより幼く見えるのでその開きは随分あるようにも感じるのだが。
「ふうん。それじゃ、ちょっと真面目で大人しいイメージの女子大生、ってところで攻
めてみようか」
私は一之瀬を先導するように、若い人々ばかりが目立つS駅近辺から続く街並みを歩き
始めた。路面に安物のアクセサリを並べている外国人、目の痛くなるようなピンクの上
着と金髪の女の子と彼女たちに連なって歩くそれこそギラギラとしたシルバーの指輪を
輝かせる男。ショップの入り口から流れる派手な音楽と昼なお眩しい電飾。騒音。人波
にさえぎられて進めない車。お互いに無関心で、それでいて主張しあう様々な要素が渾
然一体となって、街という正体不明な空気のなかに飲み込まれている。
通学で通り過ぎるだけ、たまに寄り道する程度だがこの気ぜわしい雰囲気にはいつもの
ことながらついて行けないものだ。目ぼしいショップを眺めてはその度に一之瀬に服を
合わせてみたり、靴を試し履きさせてもらう。店のほうも慣れたもので、女の服を手に
取っている一之瀬になんら警戒心を示す様子も無い。

「とりあえず、こういうの見て研究したほうが良いんじゃないかな。形から入るのも、
悪くないと思うよ」
別れ際に私は、家から持参した女性向けファッション誌を渡した。「今日でわかったで
しょ、女の服装は男の想像以上に難しいって。その上メイクもカバン選びもあるんだか
ら」
「うん、ありがとう。色々勉強になった」疲れた表情で肩を落としている一之瀬はそれ
でも満足そうなので、私も一安心だ。今日のところは小説の主人公にするほど、彼の内
面に近づけなかったことは残念だったが。
「良かったら、またこういう機会もってくれない? いまいち研究不足だったんだよね、
一之瀬君のこと」
「解剖とかじゃなかったら、良いよ」
彼なりのジョークのつもりなのだろうが、それで逆に思考が冷静になった。
……こんな時間を、私がまた持つことになるなんて。
けどそれには胸をかきむしられるような不愉快さは無く、むしろ楽しみにさえ感じられ
るのだった。

               ※   ※   ※

梅雨の只中なので、昼休みには茜に『エウレカ』のサークル室へ連れて行かれる。専用
の部屋と言うわけではなく中庭を見下ろせる空き教室のひとつに複数のサークルが集まっ
ているのだ。煙草臭く、所々が灰色にくすんでいる。窓を打ち付ける雨がゆるやかな滝
のように流れてゆく。
「ちょっとちょっとシズカさん。最近の君の行動に複数の目撃例があるのですがねえ」
流行っている刑事ドラマの口調を真似て、向かいに座る茜が言った。「ずばり最近、一
之瀬の奴と一緒にいるそうじゃありませんか。正直に言えば、唐辛子ご飯二杯で済ませ
てあげますぞ」
「前に言ったでしょ、課題に協力してもらったって。それから色々話すようになったの、
映画のこととか、好きなミュージシャンのこととかね。あんたや石田君たちと話すのと
同じだよ」
その石田君はと言えば、相変わらず岡崎さんを追い掛け回すのに忙しいらしくサークル
室には顔を見せていない。
「そうなんだ。二人は何時ごろからお付き合いし始めたのか、って聞こうと思ったんだ
けどねえ」腕組みをしてうなる茜は肩透かしを食って呆れているのか。けれど少なくと
も、恋人同士などと他人から見られるようなものは何も無いはずだ。
一応は真面目に指導を重ねたことで彼の女装はある程度見られるものになっていた。もっ
ともそんな姿を大っぴらに公開するわけには行かないから、適当な空き教室や部室など
のスペースを確保するのには手間取っていたが。
でも、もし彼が女装の技術を一通り身につけたらどうするのだろう?
まさか大学内をその格好で歩き回るわけではないだろうし、そもそもの目的は彼にとっ
ての『空の歩き方』だ。その意味はいまだに理解できないが。

茜に答えたことには嘘がある。
私と一之瀬は女装の絡むことを除くいわゆる雑談のようなことはさほどしていないのだ。
むしろ、一緒にいること自体学部が違うせいもありそう多くは無い。私たちふたりの接
点だった事柄のうちひとつは課題の小説を提出することで途切れた。もっともかなりの
やっつけで書いたものでしかなく、評価も提出したこと自体に対するもの以上ではなかっ
たが。
そしてもうひとつ。彼が私に相談しなくても自分で思いのままに着飾ることが出来たと
き、この関係はどう変わるのだろう。完全に離れ離れになってしまうのか。
そもそも私自身、どうしたいのか。どうあるべきなのか。冷静に分析しようとすればす
るほど混乱が増すだけだったので、あえて考えないようにしていた。
この世界には見えない闇と見える闇とがあって、私がかつて巻き込まれた(能動的に参
加した?)『戦争』は後者である。そのことは今なお私に夜の帳を恐れさせ、眠るとき
でも部屋中の電灯をつけっぱなしにしておくこととなったのだが、彼がいることでその
闇にほんの少し光が届くのを感じた。それは家族とも友達とも違う、彼との間だけにあ
る特別な空気だろうか。
自分でも忘れかけていたような時間を持つことが許される、その事実が安らぎを与えて
くれるのだ。
人を傷つけたことのある私にも。

「で、このジャケットを羽織る感じでオッケーかな。撮ってみる?」
最近は一之瀬の女装を写真撮影している。後から見返して反省材料にするためと、もう
ひとつは私が単に撮影そのものにはまりこんでしまったからだ。ポーズについては女性
向け雑誌を手本にしている。はじめのうちこそ照れのあった一之瀬も、回数をこなすこ
とに硬さが取れてそれなりに見えてくるのだから不思議なものだ。
雨のせいで窓の外は薄暗く、早めに帰らなければと考えていた私は、震えだした指先に
思わずシャッターを止めてしまった。
「ん、どうかした? 服装、気に入らないとか」こちらの様子がおかしいと感づいたの
か、一之瀬は靴音を響かせて駆け寄ってきた。
「ごめん、ちょっと別のこと考えてただけ……」な、何だろう。答える私の声が自分の
ものではないかのように遠く、息苦しさに胸は圧迫される。
怯えている? 何に? まだ夜には早いのに! 何が? どうして? 何かが壊れたよ
うに、たどたどしい言葉は私の意志を待たない。
「一之瀬君、もし一之瀬君が女装、完璧に出来るようになっても……今のままでいてく
れる? 赤の他人になったりしない?」
戸惑った表情の一之瀬は、揺らめいて見える。
「私、多分何か勘違いしてる。自分でそれはわかってる。でも、一之瀬君と……これか
らもずっと一緒にいたいの。そう思うのって、迷惑?」
何を言ってるの? 意識が身体から急速に引き剥がされていくのを感じる。空気の中へ
溶け込んでいく私は、ひたすら指先で顔を拭う私を見下ろしている。そしてその距離は
どんどん遠ざかってゆく。けれど一之瀬の胸に飛び込んだ私と、それを優しく抱え込ん
だ彼の姿だけははっきりと見えるのだ。

私は今、空を歩いてる!
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