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結婚何年目だったか、さえらの誕生日に、バラ売りの洋菓子をいくつかと、通勤途中に買ったハンカチを、家にあった手ごろな袋に入れて渡したことがあった。それが宝飾店の袋だったために、さえらは中味をフライングして予測して、涙ぐんでしまった。その分、宝飾店とは関係のない品への失望は大きかったらしく、しばらく口をきいてくれなかった。
翌週、好きなものを買えばいいからと、デパートに誘い、ゆっくり選ぶ時間が必要だろうと、僕は書店やCDショップをぶらついて待ったのだが、カードで勝手に買って構わないと言っておいたのに、さえらは結局なにも買わなかった。帰りにどこかで食事でも、と思ったが、遅めのランチが胃にもたれていて、結局どこへも寄らずに家に帰った。帰りの地下鉄では互いに無言で、寝る前になって冷蔵庫を覗いている僕を一瞥したさえらの顔は能面のようだった。
さえらの笑顔を見た、一番あたらしい記憶は、なんだろう。
「今日の布団、気持ちいいな。なにかしたの」
そう言ったある晩の、得意げな顔。羽毛布団はベランダで干さずともふわふわにさせるコツがあるのだと言っていたような。そして何か、布団からいい匂いがして心地よい眠りに落ちたような。
さえらが家を出てからというもの、羽毛布団は湿気て重く、こわばった感触だった。
僕は真夜の最新ブログ(後藤さえらに触れたものではなかったが)に久しぶりに書き込んだ。
Posted by 僕も後藤さんの同級生です
真夜さん
こんなことを尋ねてぶしつけかもしれないのですが、Rというのは、いったい、どんな場所なのでしょう。そこでレースやフリルの服に身を包むって言うのは?原点は後藤さんのスカート、というのは?
僕には想像もつかないのです。
真夜からは30分もしないうちに、コメントへの返事が載っていた。
Posted by真夜
「僕も・・・」さん、ごぶさたですねっ。
さて、お尋ねの件です。
女装している時は真夜という女性だけど、普段は男。至って普通だよん。
今、付き合っている彼女は一応いるけど、その子はなんていうか、大雑把なところがあって、ファッションやメイクなんかもね、細かい部分ではちょっと、どうかなって思う部分もあって(これ内緒)。もちろん彼女のことは大好きだし、相性もいいから仲良くやっていけたらとは思ってる。でも、あるじゃない。女だって、彼氏や夫がいても、「いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれたら」なんていう願望がさ。
それと似たようなもので、理想の女性像っていうか、こんな人がいいなっていうのを体現してみる感じっていうのかな。
女子には、着るものと髪型を変えて王子様に見初められたら人生が変わるっていうシンデレラ信仰が根強いようだけど、でも、私は、シンデレラっていうか、別の誰かになってみたかったんだよね。そのイメージが後藤さん。後藤さんはこの世の中をどんな風に見ているのかなって。
ほんと、最初にRで変身したときは、ひとつの転生の機会だったわけよ。
現に俺には誕生日がふたつあって、つまり6月18日は真夜になった日なんだけど。
「僕も・・・」さんにもおすすめだよ。
そしたらあなたも、後藤さんのことを、もう一度好きになると思うよ。
週末の午後、妻のさえらが注文していた掃除道具(ドイツ製らしい)がクロネコ便で届いた。休日は昼過ぎまで寝ていて、起きてしばらくしたら昼を食べに出る、という僕の行動を了解していて、ちょうどいい時間帯を指定して送ったらしい。
ありがとう。今、届きました。すごくかっちょいいデザインですね(^^)。
そう送ってから、すぐに、携帯メールから石田としてメールを送った。
後藤さん、何度もメールしてすいません。
休日の午後はいつも、洗濯してから出かけて、昼メシを食べて帰ってきたら、DVD観て途中で昼寝。夕方になって、洗濯機の中味を思い出す→猛反省、というパターンなもので、今日は洗濯が終わるまで出かけない作戦(笑)なのです。でも決して暇つぶしじゃないので、お許しを。
後藤さんの休日は、どんなですか? 石田
返事はそれから数時間後、蕎麦処でかき揚げそばを食べ終わって、レジで釣銭を待っている途中に届いた。
休日は、いろいろですね。仕事したり、散歩したり。昔は、週末は混むから買い物に行くのは嫌いだったけど、今は逆に週末を感じるために人ごみにまぎれにいくかもしれない。石田君の休日のパターン、私の知っている人のそれにそっくりです。後藤
さえらは、もしかしたら送り主が本当は僕だと気付いているのかもしれない、という気がして、僕は「自分色」を消すために、また真夜のブログから引用することにした。
ところで、後藤さんの、「さえら」という名前って、フランス語で〈ここかしこ〉というんでしたっけ?
後藤さんはテストの点も上位だったし、リレーの選手に選ばれる子たちの次くらいに足も速かったけど、でもなによりファッションがぴか一でしたね。
中学の時、スーパーで見かけた後藤さんは、アイロンのきちんとあたった白いスモックブラウスに、デニム素材のピンタックロングスカートをはいて、足元はくるぶし丈の黒スウェードのブーツというスタイルで、すごいおしゃれでした。女の子の洋服には無駄なものがたくさんついているけれど、ああいうレースやフリル、柔かな素材って洗濯にもろくてアイロンがけも厄介だし手入れに手間がかかるものだよね。でも、その手間の分、女の子は幸せを感じているんだろうなって、思う。それって開けるのに手間がかかるプレゼントにわくわくするようなものかなって。
シワになっても洗いっぱなしも気にならないゴワゴワジーンズをはく男には苦労もない分、楽しみもなくて、そっけなく渡される現金みたいな?ものっていうか。後藤さんは今も、おしゃれなんでしょうね。石田
石田君は、驚異の記憶力だね。私の知っている人で、まったく何事にも無関心なのか、とんちんかんなことばっかり言う人がいるけど。今の私は、無印良品と手作り(自分で縫うの)ワンピースがほとんどです。でも、石田君にそこまでほめてもらったら、ちょっとお洋服に久しぶりに興味がでてきた、かも、しれません。後藤
そうですよ、どんどんかわいい服を着てください。それにしても、手作りするなんてすごいですね。ワンピースといえば、昔、後藤さんの服のリボンを引っ張って、驚かせてしまったことがありましたね。糸がほつれて変なことになったんだよね。あの時はこわがらせてごめん。石田
そう送ってから、そのエピソードは真夜のブログではなく、さえらから聞いた情報だったと思い出した。しまった、と思う一方で、どこかでバレても構わないという開き直り(なのか希望か分からないが)があった。
さえらから、翌日こんなメールが届いた。
昔、観覧車に、男の人と乗った事があったんだけどね。大きな観覧車じゃなくて、デパートの上の錆びた小さな観覧車。あの日は最低な思い出だけど、相手はどうかなぁって、今も思い出すことがあるの。ごめん、石田君にこんなこと書いても迷惑だろうけど、ひとりごと(笑)
安普請の赤い観覧車に乗った話は、夫婦の間で今まで、一度として振り返ったことはなかった。
封印、とまでは言わないが、格好悪い思い出だった。同窓会で再会して写真を送ってから、さえらから「ごはんでも」と電話があって、幼なじみの延長みたいなノリで会うようになって三度目で、あの日、ひょんなことからオープンしたばかりの観覧車に乗ろうという流れになった。
日本最大級の観覧車の乗り場に長蛇の列が出来ているのを見て、今度にしようかと諦めかけたさえらの手を引いて、僕はファッションビルの屋上にある、おもちゃみたいな観覧車へと連れて行った。
営業終了時間がせまっており、乗り場入り口で係員がチェーンをかけようとしていたが、なんとか滑り込んだ。券売機で万冊が使えず、千円札を二枚、さえらに出してもらった。
滑稽なほど必死だった。とにかく、どうしても観覧車に乗りたかった。観覧車に乗る話が出てから、僕の頭にはひとつの事しかなかった。
空中の個室で、さえらの肩に腕を回して、できるならば抱擁したかった。
地上では絶対にできないし、それを逃したら、二人はそのまま〈よいお友達路線〉を突っ走るはずだった。
だから観覧車が上昇しはじめてから、隣に並んで座っていたさえらが向かいに移動した時、冷や水を浴びせられた気分になった。こうして座らないと安定が悪いし、どちらを向いても同じような景色だから、と顔を背けて言うさえら。一周する間、僕らは付近のビルの、切手サイズに見える窓の中で働く人やビールの広告看板、色褪せたトリコロールカラーのビニール屋根、民家の物干し台で揺れているバスタオルの柄などを見ながら、ほぼ無言で過ごした。その後は食事もせずに別れたのだった。
へぇ、観覧車か。僕の友達もそんな話をしていたことがあるなぁ。なんか、好きな女の子と乗って、一歩近付きたいと思っていたのに、実際には手もつなげなかったらしくて、しょげたらしいよ。石田
あの日、実は歯の矯正のブラケットが、口内炎にあたって痛くてしょうがなかったの。前日に歯医者さんでつけたんだよね。歯の内側に金属のフックをつけてゴムを引っ掛けていて、口の中でクレーンみたいに引っ張っていたし、前歯は金属のワイヤーが通っていて、食べ物はつまりやすいし、口は閉じにくいし。でも、見られたくないし。だから、なんか挙動不審だったと思う。相手の人には悪いことしたなぁ。でも、あの日、行かなかったら、その人とのその後がなかったわけだし、それに、あの矯正のおかげで歯並びがマシになって、長年のコンプレックスが解消したわけだから。
あの日のさえらの強張った口元が、別バージョンの光景として甦ってきた。
歯並びがマシ。長年のコンプレックス。
初めて聞く言葉が、真実味を持って僕に響いた。小さくて愛らしい雰囲気だったが、さえらは特筆すべき美少女でもなかったし、学年のアイドルではなかった。
でも、男子から見て、さえらが天使のようだったのは事実だ。少なくとも石田と僕にはそうだった。現実的な恋愛や性の対象だった女子らとは違って、さえらは砂糖菓子でできた女の子のイメージそのものだった。
小中学校時代のさえらの、口に手を当てて笑うしぐさが、その日、新たなニュアンスを帯びて上書き保存されることになった。
その後、真夜のブログには、次第にいろんな書き込みが載るようになっていた。
「Rのこと教えてください!!わたしも興味あります!」というものや、「真夜さんの写真をアップしてほしいな。キュートな真夜さんを見てみたいよぉー」というもの、その他、後藤さえらをイメージしたイラストを描いてみたという人もいたし、無関係な広告貼り付けもあった。
その中に、こんなコメントがあった。
Posted by チョコラ
はじめまして真夜さん。チョコラ(♀)と申します。
この前わたし、二十数年生きてきて人生初のショートカットにしてみて、劇的に「人が変わったちゃった」んですよね。なんていうか、さっぱりして男の子になった気分。自転車乗って立ちこぎしたり、一人でラーメン食べたり、ジーパンばっかりはいちゃってて。でも、変なもので出先で髪の長い素敵なお姉さんとか制服の子を見て、ついうっとりしちゃって。ああ、いいなぁあのなびく髪、アップにした後れ毛が色っぽいなぁ、ゆるいパーマがかわいいわぁ、とか、憧れまくりで・・・。「きれいなお姉さんは好きですか」のCMにも頷いちゃうくらいで(笑)。なんか、がらでもないけど、洋館風の喫茶店でしっとり、本でも読みたくなっちゃったのです。俯き加減で文庫のページをめくっているわたしの、頬から肩先ににかかる髪がさらさら揺れている、みたいな感じ、いいなぁって。
今日、東急百貨店の前の露店でウィッグを売っていたんです。遠巻きにしか見てないけど(店員さんが結構年配の男性だったので、近付きにくくて)、結構今のウィッグってよく出来てるんですね、すごく自然なの。色もいいし、毛先がカールしてたりとか。なんか、黄色くてもじゃもじゃの、角つけたら完璧鬼の頭(笑)っていう奇天烈なのも一個だけあったけど、ほとんどがリアルな今風の素敵なのばっかりだったから、家に帰って来てから、やっぱり一個欲しいかもって、思い始めてるんです。
このブログを読み始めて、途中で真夜さんが♂だと知ってから、興味本位で読んでた部分もあったんだけど、今、小坊主みたいな外見になってみて、「あ、分かるぅ!」って、叫びたい気分です。真夜さんのかわいくてふわふわした女の子世界への思いとか、大共感だし。
やっぱり、明日、ウィッグ買いにいってきまーす。そんでもって私も思いっきり女の子に変身しようと思いまーす。真夜さんもどんどん素敵になってね。
女装フォトサロンRのHPを見つけて、予約の電話を入れたのは、それを見てから、10分もしないうちのことだった。
妻は、駅前でバイトをはじめたらしい。
突然電話があって報告を受けたのは四日前だ。
勤務先は、駅付近半径100メートルにバターとバニラのにおいを振りまいている焼き菓子チェーン店の、はす向かいのクッキー専門店だという。
「三つ編みのお人形さんが着ているような」(とは妻の説明だ)エプロンとワンピースが制服らしい。白いレースの帽子も被っているという。
「考えてみたら、昔からそこの制服、可愛いなとは思っていたの。でもまさか、この年で自分が着て働くとはね。すっごい狭い場所に二人で立ってるの。暇な時は向かいのお客さんを見たりしてる。そうそう、意外と年配の男の人がクッキー買って行くのよ、これが」
妻はとにかくよく喋った。
「バイト先の先輩に、今、さえぽんって呼ばれ方してる。ひと回り下の人たちによ。わたし、あだ名で呼ばれるの、生まれてはじめてかもしれない」
赤毛のアン風ファッションに身を包み、高校生と並んでクッキーを売っている妻のことを、石田に話したいという思いと、自分だけの秘密にしたいという思いがマーブル模様になった。
妻は今、雑貨製作+バイトで稼いだ額に見合う、最小限の部屋に暮しているという。「部屋っていうか、作業場だけど」などと断りをいれるわりに、夫婦の家に戻る気配は今のところ微塵もなさそうだ。だからといって妻から離婚話が出るわけでもない。
長電話だったにも関わらず、妻の口からは最後まで石田の話はでなかった。僕もしなかった。
石田と真夜の関係、真夜の正体について僕がそうしたように、妻は石田を名乗るメールについて、検証も追及もしないつもりだろうか。
とりあえず、後藤さえら専用の携帯は、まだ解約していない。
インターフォンを押すのを躊躇していると、内側から扉が開いた。
出会い頭に顔を合わせて驚いていたが、スタッフらしきその女性は、
「○○○○さんですね」
と親しみの持てる笑顔で言った。気のおけない友達を迎えるような空気だ。
その名前でじかに呼ばれたのは、それがはじめてだった。
案外、すんなりと返事もできたし、落ち着いていた。
「お待ちしておりました。さぁ、どうぞ」
あれこれいろんな思いがよぎったのは一瞬のことで、足を踏み入れたときから僕はその世界に引き込まれていた。
その日が、僕の、もうひとつの誕生日になった。
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