▼女装小説
コラム HOME女装小説 > Powder パウダー (3P)

Powder パウダー
3P
←前のページ 次のページ→

0

3・

 美容室で髪を切るのは、この街へ来てからはじめてのことだった。
「え、じゃあ、チラシを受け取られて、その足で来ていただけたんですか」
「はい、さっき、そこの角で」
図書館からの帰り、信号待ちの間に渡されたチラシには、資生堂のマークに似た、蔓植物が絡まったデザインが描かれていた。駅前で若い男女が声をあげているチェーン店とは違って、チラシを配っていたのが白いカットソーに水色フレアスカートで日傘をさした女性だったのと、パソコン制作したらしい1000円割引券がホチキスでとめてあるものの、基本料金はカット4,000円と、さして割安ではないのが逆に決め手となった。
「あそこで配ってくれていたの、友達なんです。今日だけお願いして」
 開店して二ヶ月のそのサロンは、アジア雑貨店とブティックのテナントが入ったビルの二階にあるが、隣の学習塾の建物で看板が見づらいこともあって、顧客の獲得に苦戦しているらしい。若葉も何度か前を通ることはあってが、わざわざ見上げたことはなかった。
「では、10センチくらい、短くということですね」
 東北っぽいイントネーションが混じった美容師の女性は、髪をこそぐように鋏をスライドさせながら、もうちょっと切りますか、まだ切りますか、と何度も確認してくる。

 美容室へ来る前、図書館で返却してきたのは、何年か前に「ラスト数行で驚愕・前代未聞のどんでん返し。二度読むことをおすすめします」という手書きポップを書店で見たミステリーで、図書館でも三人予約中だったのを7週間待って、ようやく手にして読んだものだった。
借りたのはこのまえの雨の日だった。その日のうちに二度読み終えた。ラスト二行に評判どおり「驚愕のどんでん返し」はあったが、大満足、というよりはむしろ、もっと痛快ですっきりするミステリーを読みたくなる始末で、例えるならば、キンキンに冷えているはずの冷蔵庫のビールがまだぬるかった時のような気分だった。
でも、ピンと来ないのは、その本だけではなかった。ここのところ若葉は、どの本を読んでも、さほど面白く思えないし、次の本を借りるのも億劫になっていた。
浴室の窓から二軒となりのアパートを覗くことが、毎日の習慣になってからだろうか。若葉の生活はどこか、間の抜けたものになっていた。
以前なら手近な服を洗濯順に着ていたし、日が落ちる夕方以降はノーメイクでも平気だったのに、今ではああでもない、こうでもないと鏡の前で迷ってしまう。出かけたら出かけたで無駄にうろついて、それで何もないと、損をした気分になってしまう。 
でも、それが楽しくないかといえば、逆だった。

「もしかして、○○○○に似てるって言われません?」
 ブローしながら、色白の美容師が鏡越しに訪ねてきた。映画やドラマでよく姿を見る、歌舞伎俳優の娘でもある女優の名前だった。
「え、それは、ないです」
「そうですかぁ。横顔なんて、そっくりですけど」
年に五日くらい、若葉には「奇跡の日」がある。寝不足でもニキビができていても口内炎が腫れていても、体調に関らず美しく見えてしまう日が年に五回ほどあるのに気付いたのは、中学生くらいからだろうか。科学的には証明できないし、あくまで「そう見える」ということなのだが、あながちひとりよがりの勘違いとも言い切れないのは、「奇跡の日」には実際、駅や街中で視線を感じたり(男性のみならず同性からも、というのがリアルだと思う)、見ず知らずの人に(例えば食事に行った先の店員や喫茶店で隣り合わせた婦人に)「おきれいですね」だの、女優のだれそれに似ていると言われること数多だった。普段の若葉は世間からそのような扱いを受けることは、ほとんどない(最大限で「肌がきれいですね」だ)。
今日がその、奇跡の5日のうちの一日だった。
さっき、図書館のトイレに入った時、蛍光灯のもとで見た若葉の肌は透き通り、頬は桜色で、瞳が潤んでいた。
もっとも、元々地味な顔立ちなので、奇跡と言ってもグラビアの表紙を飾る美女ばりにはならない。が、おろしたての石鹸みたいな清潔感があって、竹久夢二の絵のモデル風なのだ。そんな奇跡の日が年に365日続くのが真正の美女なのだろうとは思う。
これとは逆に、不遇の日というのが、若葉には年に20日ほどある。顔のある部分が肥大して見えたり尖って見えたり、顔色がさえなかったり髪がパサついていたり、これも、体調がすこぶる快調でも関係なく起こる現象だった。そんな日は外出する気にもなれない。全身が映るミラーの前でテルテル坊主のような格好をさせられる美容室へ行くのは絶対に無理だし、気になる相手とのデートなど、憤死ものだった。
 この日、若葉が飛び込みで美容室へやって来たのも、シャンプー・カットに加えて、トリートメントを頼んだのも、気まぐれや気分転換だけではなく、久しぶりに訪れた奇跡の日を堪能するためだった。

 美容室の外階段を下りる途中で、交差点にたたずむ矢内原の姿を見つけた時、一階ブティックのショーウィンドウで全身チェックをしてから早足で追いかけたのは、やはり奇跡の日の勢いかもしれない。
矢内原の行き先は、後を追う途中で分かった。その通りの先には、若葉がこの街に越してきた当初、よく足を運んだスターバックスがあった。

 店内で声をかけると、矢内原は怪訝な顔をして、それから徐々に笑顔になったが、不発の線香花火のように尻すぼみだった。
 あの日以来、この人は『Blanco』を避けて、わざわざここまで来ていたのだろうか。若葉の胃のあたりで、蛇口から水がぽたり、と落ちる感覚がした時、矢内原が「ああ」と声を出した。
「こないだは、どうも。なんだか、雰囲気が変わられて。なかなか、女の人は、奥深いですね」
 
矢内原は窮屈そうに足を何度か組みなおして、エスプレッソを口にしている。コーヒーの香りより、先ほど美容室でつけてもらったヘアワックスのにおいの方が際立っているような気が、若葉にはしていた。
「や、越してきて間もない街で、突然呼ばれると心臓に悪いです。誰だろう、こんな場所で、って」
「あ、それ分かります」
「だから、よかった。あなたで」
 八重歯を覗かせると、やはり年齢不詳だった。外で見た時、矢内原のボタンダウンはベビーピンクだったが、店内の灯りの加減なのか今はサーモン色をしている。
 
「この店、天井が高くて悪くないんだけど、僕は椅子を引く音が苦手で。さっきから結構、気になるな」
「ああ、黒板にチョークの音みたいな」
「それ、想像するだけでダメ」
「図書館の閲覧室の椅子、ご存知ですか、あれ、脚にテニスボールをはかせているから座ったり立ったりして椅子を引いても、無音なんですよ」
「椅子の脚に、テニスボール?」
「穴を開けて、靴下みたいにはかせているんです。あれ、軟式用なのかなぁ」
「うそ。今度、見に行ってみよ」
「おじさんばっかりですよ。定年後の人なのか、リストラなのか分かんないですけど、寝ている人もいるし、まぁ、時間つぶしなのかなぁ。家にいるよりクーラー代の節約になりますしね」
 口にしながら、まずい話題になったと若葉は後悔していた。たて直しをはかって、話題を変えなければ。
「そういえば、こないだ、そちらのアパートに引越しのトラック、来てましたよね。どんな方が越してきたんですか?」
 また、後悔した。これでは矢内原がアパートの住人だと知っていることになってしまう。
「あ、ごめんなさい。実は私、すぐそばのハイツに住んでいるので、お姿を見かけたものですから」
 けれど、矢内原はあっさり答えた。
「ああ、お隣ですか、学生さんのようですよ。専門学校かなにか。音楽の」
「やっぱり。うちの部屋までベースの音、聞こえてきますよ。近いと、うるさくないですか」
「今のところ、とくには」
「どのお宅か分かんないですけど、毎朝近所で般若心経も聞こえません?」
「どうだったかなぁ・・」
 矢内原は柔らかい笑顔を見せたが、途中であくびをかみ殺していた。口に当てた手首を返して、腕時計を見ようとする。その時、若葉の中で、なにかがはじけた。
「ご存知ですか、あの、ベーシストさんのお部屋」
「は、なんでしょう」
「あすこに、昔、すごい人が住んでいたんです」
「隣の部屋に?」
「ええ、その人がね、」
若葉が言葉を切ったのは、もったいぶってというより、どう表現しようか迷ってのことだった。自分が突然何を話そうとしているのか、行き先も分からないままだった。口を開きかけては、また止まり、15秒ほど経って、ようやく思い当たる言葉があった。
「そう、スーパーマンみたいな人だったんですよ」
「スーパーマン、ですか?」
矢内原は、足を組みなおして上半身を若葉の方へ向き直した。

**********

 その部屋に独りで暮している70過ぎとおぼしき男性を、はじめ、若葉は連れ合いをなくした年金生活者だろう、と見ていた。ハンチングをかぶってアスコットタイをつけた、地味だが清潔感あるスタイルの老人だった。頻繁に姿を見かけたわけではないが、病院の待合室で仲間と話して午前中を過ごしたり、開店前から百貨店入り口で待って、エアコンのきいた場所のベンチで半日過ごすような、街でよく目にする老人のひとりだろうと思っていた。
 おや、と思ったのは、老人男性宅の庭で、エプロン姿の女性が洗濯物を干しているのを目撃してからだった。華やいだ雰囲気の人だな、と思っていたら、別の日には、また違った様子の女性が鉢植えの手入れをしている。娘や親戚など、何人かが交替で身の回りの世話しているようだったが、老人といずれかの女性のツーショットは庭でも外でも見たことがなかった。
そんなある日、駅前のドラッグストアで若葉は老人男性に声をかけられた。店員や他の女性客には目もくれず、若葉に向かって巻尺が戻るように、すーっと、老人は近付いてきたのだった。
「あなたと同じ年頃の孫娘に化粧品を買ってやりたいのです。どれを選んでよいか私にはとんと分かりません。あなたの目利きで選んでいただけませんか」
 あなた、という言葉が、「貴女」という文字で耳に入ってくるような、ソフトな話し方だった。
若葉は老人に付き合って、ファンデーションやチーク、アイシャドウなどを選び、基礎化粧品やヘアケア製品も見繕った。二万円を渡され、あなたの買い物の分もご一緒にどうぞ、と言われたので会計も引き受けた。
店を出ると、向かいの喫茶店でのお茶に誘われた。相手の年齢を考えると、ナンパには思えなかったし、そもそも警戒心など起こすのが場違いに思える紳士的な態度だった。
若葉は、老人宅の近くに住んでいることと、何人かの女性を見かけたことを告げた。あの中に、件のお孫さんがいたのではありませんか、と。
 すると老人が顔色を変えた。
「貴女、見たんですか」
 あまりに目を見開くので、まずいことを口にした(あれは親戚の女性ではなく、秘めた女性関係かもしれない)と胃が縮む思いがしたが、怒っているというのでもないらしい。
「貴女、あれを見てどう思いになられましたか」
 ものは相談だが、というような物言いだった。
「女性の貴女から見て、彼女らはどうでしたか」
 記憶を頼りに、どなたも女性らしくて、物腰がしとやかだったと無難にこたえると、「他に、気づいたことは」と続けて訊かれた。その顔があまりに真剣なので、「きれいでした、とっても」と若葉がこたえると、ようやく老人はホッとした顔になり、こう打ち明けたのだった。
「あれは、全部私ですよ」と。

 それからふた月ほどして、老人の部屋に、別の住人が引っ越してきたのを若葉は知った。
大家の女性に尋ねると、老人男性は部屋を引き払ったという話だった。彼はアパートの一室を趣味の部屋として借りていただけで、自宅は別にあったという。
少し経って、あの老人はどこかの資産家だったらしい、あるいは「その筋」の上の方の人だったんじゃないか、などと、近所の飲食店で常連とマスターが話しているのを聞いた。部屋を明け渡す時に、引越し業者ではなく、スーツ姿の人が何人かで荷物を運び出していた様子だとか、国産の高級セダンやベンツが停まっていたという話もしていた。
「あの分じゃ、葬儀も大きなホールか寺でやったんじゃないの。急に死んじゃったから、あれだろうね、周囲の人間が後処理をしに来てたんだろうね」
 それで、老人が亡くなったらしい、ということも知ったのだった。

**********

「基本的には通信販売で女性用の衣類を入手していたらしいんですけど、化粧品はバリエーションが多すぎて、いまひとつどれを使っていいか分からなかったみたいで。それで私に声をかけたんですって」
矢内原は、ドリンク受け取りコーナーで若葉が背後から声をかけた時ほどは目立った反応を見せなかった。
「そんなに驚かないんですね。ていうか、引かないんですね」
「うーん、まぁ、そういう趣味の話は、まったく聞かないというわけじゃないので。そんな人が実際に身近にいたら、たぶん驚きますけど、でも、分からなくはないかもしれない」
 顎を指先でかすかに引っ掻くような仕草をするだけだった。
「矢内原さん、大人ですね」
「ていうか、僕、海外含めてゲイの友人も大勢いるんで。それより、さっきの、スーパーマンっていう例え、いいですね、クールで」
 落ち着いた口調で、ゲイ、などと言われて、一瞬、言葉につまってしまった。
「ですよね、普段は公の顔があって、家庭での顔があって。でも、アパートの一室で、別人になって時間を過ごしていたんですからね」
「そういう人が、隣に・・・ねぇ」
「ええ、つい、この間まで」
3P
←前のページ 次のページ→