▼女装小説
コラム HOME女装小説 > Powder パウダー (1P)

Powder パウダー
1P
次のページ→

0

1・

 マスターが二人分に取り分けてくれたプリンは、縦半分に切断されても直立している。
若葉はもう、何口か食べているのだが、今日は全然味がしない。熱のある日に食べている、あの感じだ。
隣の男は、いまだに、プリンの皿を引き寄せようともしない。

 10分ほど前、カウンターに案内されてプリンとカフェオレを注文した若葉の隣に、新たに入ってきた男性客が座って、プリンとアメリカンを注文した。
 その数分の差が、二人の明暗を分けた。
「あ、ごめんなさい。プリン、終わっちゃいました」とマスターが男に告げるのと、バイト店員が若葉の前にプリンの皿を置くのは、ほんの十数秒違いだった。
この店では何種かケーキを揃えているが、ダントツ人気は自家製プリンだ。ないと分かると、「今日はやめとくわ」と出て行く客もいる。若葉はプリンが売り切れと言われ、食べる気もなかったカレーを頼んだことがある。失恋を癒すために好きでもない男と寝るような感覚、のような。とにかく、そのくらい、がっかりするということだ。
だから、若葉の前にプリンが運ばれてきた時、カウンター周辺の空気が固まったのはまぎれもない事実だと思う。隣の男は不自然に首をひねって顔を背けていたし、マスターやバイト店員は知らん顔を決め込むし、若葉はひとり、悪者にされた気分だった。
「半分、いかがですか」
隣の男にそう呼びかけ、有無を言わせず「そうしましょう」と押し切ったのは、だから親切心というより、一種の逆切れ現象だったのかもしれない。
ところが譲ったら譲ったで、気まずさの質が変わっただけだった。そのせいでプリンの味もしない。いっそ、一刻も早く自分の前から消し去りたい。
その時、「いただきます」という、控えめな声がして、スプーンが皿に触れる音が横から聞こえた。

「え、探偵バイト?何それ」
マスターが突然、素っ頓狂な声を出した。口調とは裏腹に、大判のふきんで皿を拭く手は止まらない。
「もー、浮気、不倫調査オンリー。ほっとんどがクロ。やんなっちゃうよぉ」
話題の発信源は、カウンターの末席にいる作業着姿の年配男性で、常連組のひとりだ。
「秘め事を暴いて、家庭が壊れて、それで誰が幸せになるんかねぇ」
 マスターの返事を待たずに、常連男性は喋り続ける。
「まぁ、そういう人はもう、別れる覚悟が出来てて証拠掴む段階だとこっちは思うじゃない。けど、ごちゃごちゃやってて、結局別れないんだよね。だったら最初っから知らん顔して済ましてりゃいいのにね。10万払うんなら温泉なり行きゃいいじゃない。ねぇ」
 最後のねぇ、で、探偵バイトの常連が、若葉の隣の男に相槌を求めてきたらしい。
「僕、つけられたことありますよ、探偵に」
そう言って、男はプリンをすくった。
「あちゃー。おたくイイ男だから、そりゃ女が放っておかないわ。きれーな手しちゃって、これ、貴族の手だわ」
 若葉は俯き加減に、ひたすらプリンの山に挑んでいた。教師に当てられぬように、気配を消す生徒の気分で。
「でも、尾行してるのバレてるようじゃぁ、探偵失格じゃないのかなぁ」
マスターが扇風機みたいに笑顔を振りまく。
「あっ、やだなぁ。プリンのそばで不倫の話なんて、てかぁーっ。プリン、不倫。なんつって」
 探偵の声に、はは、と枯れた笑いを返した隣の男に倣って、若葉も微弱に笑っておいた。でもそれもまた、男や探偵、マスターへの媚のようで、無視すればよかったと落ち込んだ。

**********
 
 その夜、外で、ボンボボン、と音がするのに気付いたのは八時過ぎだった。
窓を開けても、オレンジがかった半月と、はす向かいの一家の団欒風景が見えるだけだった。
 花火大会はこの夏この地域の海で6つ開催されるようだが、海岸は一直線ではなく、入り組んでいるのでそれぞれの花火は、ちゃんとその海岸付近まで行かないと地形が邪魔をして見えないらしい。
 若葉は、花火の音が聞こえなければむなしくないのに、と思い、そのついでに、人生における「20代」も花火大会の夜に似ていると思った。
 その最中なのに、どうにもならない、というところが。それを楽しむには、ひとりではむなしい、というところが。
若葉は今年、28になる。

 口寂しくなって、コンビニで酎ハイでも買おうと出かけたら、駅前の大通りが歩行者天国になっていた。
 浴衣姿のカップルや家族連れが海岸方面に歩く後姿があり、早々に引き上げて駅方向へ帰る流れもあった。その場からでも花火は一部ではあるが、ちゃんと見えた。
「こんばんは」
 屋台を遠巻きに見ながらその場をうろついていたら、声をかけられた。
「さきほどは、どうも」
 プリンを、と言われて、喫茶店で見た紺色のチェックのシャツだと思い出した。
「さっきは、いい大人の男がプリンを頼んで、売り切れてしょげているのを、救ってもらって」
 男は、矢内原です、と名乗った。
「ジャコメッティの友人でモデルにもなったヤナイハライサクと同じです。親戚じゃないんですけど」
 そう続けて言われたのだが、若葉は曖昧に笑うしかなかった。
喫茶店で隣にいた時には見えなかったが、矢内原はシャツの下に、ロバのワンポイントが入ったTシャツを着ていた。それで八重歯を覗かせて笑うので、さっき見積もったよりうんと若いようにも思えるし、でも落ち着いた声はやっぱり三十代のそれではないかとも思う。
「あ、あれいいなぁ」矢内原は屋台に視線をスライドさせて、ジーンズの尻ポケットから財布を出している。
「あなたもどうですか、よかったら」
 
*********

 プリンのお礼に、ということで、矢内原のおごりで唐揚げ串と生ビールを手に、歩道ガードにもたれて並んで花火を見ることになった。
祭りの夜のような賑わいの中、若葉も心安い気分になっていたが、話したのはせいぜい、美容室で交わす程度の無難なものだ。
「もともとこちらが地元ですか」と訊かれて、「今日はお仕事、お休みですか」と訊き返す、そんな具合に。
矢内原はこの街に越してきてひと月余りの、フリーのデザイナーということだった。そう聞いてみると、なんでもなさげな眼鏡フレームも腕時計もジーンズも、量産品にはない風合いがあるように見えた。
薬指に光るものがないのも、若葉は確認済みだった。

「例えばあんな花柄、とか」
 矢内原は前を歩く女性のスカートを示した。一部に熱狂的なファンを持つフリルたっぷりの、乙女チックブランドのものだった。
「あれ、描いたんですか?」
「あれは違うけど、あそこの商品の中には、僕のもあります」
他にも、外で自分のデザインしたものを見つけたりもするという。
「バッグとかタオルとか、あと、なんだっけ。一時期は目にしない日の方が少なかったなぁ」
うちの子供はやんちゃでしてねぇ、とこぼす父親のような顔だった。
たとえばホテルで行われる記者会見(芸能人の離婚会見でも、映画の記者発表でも)をテレビで見るときなど、内容ではなくて背後の壁紙に目が行くという。高速バスや観光バス、新幹線の座席、カーテンの柄なども、もしや自分がてがけたものでは、という思いで眺める習性が矢内原にはあるらしい。
「人に教えると最初は『へーすごいネ』と言ってもらえるんだけど、数を重ねると『はい、出ました。〈あれ僕の〉発言』とあしらわれるんですよね。でも見つけた以上は『僕のだ』と声に出さずにはいられない。犬が電柱を見つけたらにおいをかがずにいられないようなものですかね」
 他にも、自分のデザインかどうか確かめようと、バッグを持った女性を追いかけて気味悪がられたとか、逆にモーションをかけたと勘違いされて迫られて困った、という話を、矢内原は苦笑まじりに披露した。
「じゃあ、今はこちらでお仕事を?東京まで出たりもするんですか」
 そう尋ねると、一拍、間ができた。
「ちょっとした事情で、今は充電っていうか、あ、二尺玉」
矢内原の横顔が、赤くなったり黄色に染まったりして、フィナーレを迎えた花火の乱れ打ちだった。

 人の群れが海岸から引き上げて来るのをしおに、若葉は矢内原と別れた。
二人分のゴミを捨てる時も、自販機でアクエリアスを買う間も、紺色チェックのシャツは、人ごみの中で一部しか見えなくなっても、そこだけ発光しているように若葉の視界から消えなかった。矢内原が郵便局横の角を曲がるのも、はっきり見えた。
20メートルほど手前まで追いついた時、矢内原は寺の境内へ入るところだった。若葉もよく通り抜けてショートカットするコースだ。境内では砂利が響くので、若葉は外から回り道をして、寺を出た橋のあたりで背中を見つけるつもりだった。ところが、角を曲がって橋を見通せる道に出た時、矢内原の姿はなかった。
その先のY字路にも、人影はない。
よもやの場合、口にするつもりだった「うちも、こっちなんですよ」のセリフ。相手を見失った今は無用となったが、若葉の部屋は事実、そこから目と鼻の先だった。
Y字路の角に建つ木造アパートから右手へ、一軒家と茶道具専門店を挟んだハイツ『メゾン・ド・谷』へと、若葉は帰っていった。

*********

 蛇口から出る湯の温度が一定になったのを確認すると、若葉は浴室の電気を一旦消し、換気用小窓から外を眺めてみた。ベランダからは通りを挟んだ民家の並びと川向こうの寺の樫や椎の木が見えるが、浴室の小窓からは隣家の屋根越しにY字路、カーブミラーと角の木造アパートを見下ろす格好になる。
アパート一階角部屋の庭には、バスタオルが干したままだった。
以前換気扇の掃除中にも、ポールスミスらしきトランクスやアースカラーのタオルが干してあるのを目にして、へぇ、あの部屋に、と注目したことがあった。部屋の真上には「夜泣き・かんむしご相談 前田薬局」と入居者募集の錆びた看板が年中かかっているので、そのギャップはインパクト大だ。不動産屋で資料を見せられたので知っているが、寿荘は付近で一番安いと評判の、風呂なしアパートだった。
 湯を止めてからもう一度覗くと、アパートの庭で動く影があった。目を凝らす間もなく、人影はすぐに部屋の中に消えて、物干しのタオルがなくなっていた。
うす闇に立つ中肉中背のシルエット、腕の動きに、既視感を覚えたのは入浴中のことだった。湯気に包まれながら、若葉はさっき追いかけた後姿を思い出していた。

 あの部屋でもうひとつ、洗濯物以外に記憶していたのは、既製品のカーテンがついていないことだった。白っぽい布が幕のように留めてあるのだが、布は網戸にした半間分にしかついおらず、すりガラスが半分むき出しになっている。若葉にしても同じようなもので、買ってきたインド綿の生地を断ち切りのまま、カーテンレールにピンチで留めているだけだ。

 花火を見ながら話を聞いていた時は、海岸や美術館をぶらつくのがもっかの楽しみだとか、普段はパスタを茹でるかバケットにチーズやアンチョビを載せる程度の調理以外は、コンビニで出来合いの弁当や寿司パックを買う食生活だ、などというのを、気ままな三十代独り暮らしの悠々自適話だと聞いていた。ところがあの部屋の住人として彼をあてはめてみると、「今は充電中」という言葉に、さっきは感じなかった重みとウェットさが出てくるのだった。
 仕事を休んでいるだけなのか、それとも別のことを始めるつもりなのだろうか。
例えば、デザイナーとして、あまりの忙しさにプライヴェートも失うほどだったとか。流行の最先端を意識し続ける仕事に、ある種の疲労を覚えたとか。それとも華やかな世界や人間関係から逃れて、骨休めしたいのか。
 喫茶店でも、花火を見ていた間も、矢内原にはその世代の男が持つ脂っけのようなものがあまりなかった。
力の抜けた物腰は大人の余裕に見えたが、ぎらぎらしていないのは、ひょっとして生きることへの執着が薄いせいだったりして。
布団の中で延長紐を引いて、暗闇に目が慣れて天井の紙の張り合わせ部分がくっきり見えても、若葉は目を閉じずにそんなことを考えていた。
1P
次のページ→