▼女装小説
僕は私に恋をする 〜少女A´〜
作: カゴメ
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美容室を謳うだけあって鏡は至るところにあり、窓辺に無造作に置かれた姿見の傍へ歩
み寄った。足取りが重いのは、履き慣れないロングブーツのせいだけだろうか。
先端がカールした、肩から背中にかけた茶色がかった髪。
黒いタートルネックのカットソーの首元には、人指し指ほどの大きさのロザリオが輝い
ている。グレーを基調としたチェックのワンピースのスカートの両端をつまんで、直立
不動の状態からぎこちなく膝を折る姿を忠実に映し出している鏡を前に、幾重にも丁寧
なメイクが施された表情が戸惑いに歪んだ。
「ご満足、いただけませんでしたか?」背後から多香子(たかこ)さんのハスキーな声が
響く。
ちょっとしたショップ並みに陳列されていた服のなかから即座に的確なコーディネート
を選び出し、一時間近くもの間鏡台の前を右往左往しながらファンデーションやマスカ
ラ、口紅といった化粧品を、さながら美術家がキャンバスを彩るが如く扱っていた彼女
に手落ちがあったとは思えない。むしろその仕事ぶりを持て余しているのはこちらのほ
うで、たとえるなら大きすぎる能力を与えられた漫画のヒーローが、敵と戦う際に勢い
余ってビルを壊したり、一般の人間を巻き添えにするような居心地の悪さが感じられる。
その辺りを要約して、簡単に違和感を覚えていることだけを告げると多香子さんは口元
に微笑を浮かべ、「初めは皆さん、そう仰います」と柔らかに答えた。声そのものは澄
んだ美声とは言い難いものの、その口調にはさすがに接客のプロとしての余裕さえ感じ
られる。
「普段着てらっしゃるお洋服だって、最初はどこかぎこちなくて窮屈なものでしょう?
着慣れさえすれば、それはあなたをより魅力的に見せられる筈ですよ」

そういうものなのだろうかと、生まれて初めて女の子の服を着た僕は漠然と考えた。

「少しだけ、外に出てみませんか?」多香子さんは僕の思考を断ち切るように、華やか
な笑顔を見せた。「外っていっても、このビルの屋上にあがるだけですから、他の人に
会ったりすることはありませんよ」
水道水のタンクやエアコンのダクト、配管などが剥き出しになった場所を女装して歩く
光景を想像して返答に詰まったが、彼女は僕の返事を待たずして背中を押すように出入
り口のドアから薄暗い廊下へと促された。
ここまで来たら、何をしても同じというところか。
「すいません、靴に慣れなくて……ゆっくりしか歩けないみたいです」
冷たく、乾いた空気の流れるなかをことさら強調したいわけでもないヒールの音を響か
せながら、そんなことを口にした。
「パンプスなら、男性の靴に近いんですけどね。この季節のファッションは、ブーツが
主流ですから」普段、街を歩く女の子の服装などにいちいち関心を払わない(というよ
りも、男のファッションにすら興味を持っていない)僕にとって、それはひどく新鮮味
のある言葉にも聞こえた。そして最上階の8階から降りてくるエレベーターを待つ間に、
頭の中でつい一日前に会った――春(はる)希(き)菜穂子(なおこ)の服装を思いだしてみ
ることにした。

言われてみれば確かに菜穂子は、ブーツを履いていた。膝のすぐ下まである、黒のロン
グブーツだ。白いボレロジャケットにチェック柄のショートパンツを合わせていて、長
い手足を強調するようなスタイルだった筈だ。潤いを宿した厚めの唇は苦い笑みを浮か
べ、セルフレームの眼鏡の向こうの、日頃は鋭さと揺るがない自信を秘めた瞳が、困れ
ばいいのか、軽く笑って流せばいいのか、いずれにしろ僕の(菜穂子にしてみれば)突
然の言葉に対する態度を決めかねているようだった。
「ごめん、ヒロ。君のことは、やっぱり幼馴染以上には考えられない」
近所の幼馴染といっても、彼女が隣町の大学へ通うようになり、僕がそのあとを追うよ
うに受験勉強に追われるようになってからは会うことは無くなっていた。かつての記憶
では、菜穂子は髪型をよくポニーテールにしていたように思う。

                ※   ※   ※

菜穂子は子供の頃、僕を含めた子供たちのリーダーだった。
快活で、身長も男子より高く、彼らを連れまわしてはよく遊水地の公園でサッカーや野
球に興じていたし、その一方で危険な遊びや子供の集団ではありがちな喧嘩や、いじめ
に対しては厳しく、困ったり悩んでいたりする相手には親身になって相談に乗っている
姿も見かけられた。
そして中学校に入って時期が過ぎると、男子と女子との間に男子と女子の間にどれだけ
一緒に居ても埋めようの無い、大人になる為の準備ともいえる溝が生まれ始めた。心情
的に相手を嫌ったり、物理的な距離をおこうという行為ではなく、性別の差異を徐々に
意識せざるを得ない変化が緩やかに訪れ始めていたのだ。その差異に戸惑いを感じ始め
た者は次第に異性とは距離をおこうとし、『男にしかわからない話』『女同士でなけれ
ばできない話』が集団で居ても増えてきた。
その一方で、成熟を迎える過程で芽生える異性への関心が高まりを見せ、中学を卒業す
る頃には子供の頃とは違う距離の縮め方をするものも現れた。自分をかえりみても例外
ではなく、小学校4年のときにこの街に転校してきて初めて出会ったときから中学まで
の時間を共有し、高校は別々になったものの近所で見かけるたびに大人の女性へと変貌
してゆく姿に、菜穂子への友情の入り混じった思慕が恋愛感情に昇華するのはある意味、
必然といえた。
それまで告げる事ができなかった思いを伝えるために、彼女と同じ城崎(しろさき)大学
に入学するために1年の予備校生活を余儀なくされたのだ。

かつて束ねていた髪は左右に流し、吹き抜ける春風にそれを弦楽器を奏でるかのように
揺らしていた。少しの間の沈黙は、ほんの僅かにでも受け入れるべきか、断るべきかを
迷ってくれたものだと信じたい。子供の頃から好き嫌いははっきりしていて、駄目なも
のには即座に拒否の姿勢を見せていた菜穂子のことだ。
「でもヒロにだって、すぐに素敵な彼女が出来るよ。昔から大人しくて優しかったし。
私のことなんかさっさと忘れてさ」その言葉を最後まで聞くことなく、僕は菜穂子を呼
び出した公園の入り口から脱兎の如く駆け出していた。

遅咲きの桜が徐々に花をつけ始めている公園内を、どう走ったのだろう。自分でも正確
な位置は掴めないような雑木林にほど近いあたりで、僕は足を止めた。受験勉強にかま
けた運動不足が崇り息は絶え絶えで、ところどころ土がむき出しになっている芝生のう
えに身を崩す。コートやジーパンに芝や泥が付くことはわかりきっていたが、菜穂子と
よく遊んだ子供の頃はそんなことは気にもとめなかった筈だ。見上げる空は雲ひとつな
く青い。
忘れられない。受験勉強のさなか一年以上も、いやそれ以前から抱え続けてきた思いを、
たった一日のうちに忘れることなど出来るわけがない。潤む視界をごまかすかのように
叫び声をあげる。
すると芝生の向こうから、鳥の羽音が響くのが聞こえた。鳩の群れだ。街中でも普通に
目にする、キジバトの類が空へ羽ばたいてゆく。
「あーあ、逃げちゃった……」
それに次いで、ぼやくような女性の声が聞こえた。僕が悪いのだろうか?
そう思って身体を起こすと、芝生の端に据え付けられた木製のベンチから、一人の女性
が立ち上がった。サテン地らしい光沢を放った白いブラウスにパンツ、グレーのカーデ
ィガンをベルトでルーズに束ねている。巻き髪をなびかせながら、ゆっくりとこちらに
歩み寄ってくるその女性は、僕を見下ろす位置にまで近づいてきた。
「せっかく食事をあげてたのに……驚かさないで下さい」アイラインとシャドウがきつ
めなせいか彫りの深い印象を受ける顔立ちに怒りの表情こそ浮かんでいないが、鳩が逃
げ去ったことは心底残念そうだ。見るとその右手には、屋台のたい焼き屋などがくれそ
うな白い紙袋が握られている。
「その袋の中身、ばら撒いておけばきっとまた寄ってきますよ」僕もまた、ゆっくりと
立ち上がる。細身の長身と端正に整った小さな顔は気品すら感じさせる、いわゆる美人
顔だ。そしてそんな美人が、平日の昼間(社会人なら春休みなどはないはずだ)から公
園で鳩に餌をやる光景というのも、想像以上に絵にならないものだと思う。妙齢の女性
の振る舞いとしては、何かがずれている。ところが彼女は、そんな僕の思案など何処吹
く風といったふうで再びベンチに座り、どこからともなく集まってきた鳩の群れに向か
って袋の中身を撒き始めた。

「なんて、様にならない」独り言を呟き、その姿を暫く眺めてみる。
するとその女性は不意に、「自分を消してしまいたい、そう思ってはいませんか?」そ
んな言葉を口にした。
「背負いきれない重い荷物とか、押しつぶされそうな苦しみから少しでも解放されたい、
とは思いませんか?」
僕に向かって言ってるのだろうか?周囲を見渡してみるが、僕と彼女の間には誰もいな
い。危険を感じて、足早にその場を立ち去ろうとする。
「失った恋の痛みは新たな恋でしか癒せないと言います。過去にこだわりぬいて自分を
虐める必要はありません。お望みでしたら、あなたが今一度、前を見て進むためのお手
伝いをさせていただきます」恋、という単語に思わず足が止まる。
「ふざけないで下さいっ」声が裏返るほどに荒くなったのは、怒りに恐怖心が勝ったた
めだ。「一体あなた、何なんですか。怪しい集会?それとも出会い系?どっちも間にあ
ってますから」
「出会い系……まあ、ある意味出会い系とも言えますけど」逃げ出したい感情は変わら
ないけれど、その柔らかな口調は話している内容に反してひどく安心感を覚える。眠り
に落ちる直前の、抜けていく力の心地よさにも似ている。それが後ずさろうとする足を
硬直させ、目の前の女性の唇の動きを注視させる。
「私どもが提供する出会いとは、あなた自身……正しくは、もうひとりのあなたとの出
会いです」
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