▼女装小説
L' oiseau bleu
作:カゴメ
第一回『traverse』


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 覚えているだけで、三本目の橋を渡り終えた。 どれも茨(いばら)のように刺々しい
黒い鉄柵のついた、赤茶けた煉瓦づくりの眼鏡橋で、その緩やかな坂の下を流れる川で
は時折吹き付ける風に揺れる水面が、乱反射する陽射しを細切れにするようにその雫を
撒き散らしていた。 柵の切れ間から腕を伸ばして、2メートル程度下の薄い青を見つ
める。 落ちたところで怪我をするわけでもないけど、その冷たい輝きに触れて、火照
る両頬を癒せるほどでもない。 
徒労の対価として額に浮かぶ汗を拭おうとしてハンドバッグからハンカチを取り出す。
 薄いピンクの地に蝶の刺繍が浮かぶ、安手のそれに見覚えは当然、無い。 しかし、
今は私がそれの所有者『だった』ことだけは理解できる。 布切れ一枚に自らのルーツ
を求めるなんて笑うよりほかないけれど、そんなものでも信じることができなければ、
琥珀のように霞がかった記憶の、僅かな彩りに過ぎない不確かな光景なんて、進むべき
道標にすることはとても出来ない。 むせ返りそうなほどの蒸した大気の、安らぎをま
るで感じない抱擁に、首筋から滴る濡れた感触を、指先で確かめる。
……夏、なんだっけ。
出所不明の焦燥(しょうそう)を忘れる為に、思わずそう口にする。 私がこの世界に生
れ落ちてから、何度目かは思い出せないけれど。 両手で耳を塞ぎ瞳を閉じると、空虚
であることが当然の胸の奥に、新たな焦燥が去来する。 けれどそれは、心の中で暴れ
回るような痛みじゃなくて、願い事を空に捧げるような、解き放ちたくてたまらない高
揚感だ。 それは思い出す、ということを久しく忘れて――或いはその手段さえ失った
かもしれない私にとって、喜びと呼ぶほかない。
「私は、忘れてる。 でも、知らないわけじゃない……」自分の言葉が、可笑しくて、
頼もしくて仕方が無い。 空から落ちて来そうなほどに焼け付く陽射しを、煤けたよう
な、どこか古びた陰影の多い町並みを撫でるような風のそよぎを、この身体のどこかが
思い出として留めてくれている。 そして仄かに重なる潮の香りが、海までの短い距離
を知らせてくれる。 人の皮膚感覚というものは、もしかすると頭脳とは違うところで
より多くの知識を蓄積、活用できるのかもしれない。 安易な考えなのは承知だけど、
今は縋りたくなるし、どうでもいい事だとしても、発見は足を前に進める原動力になる。
 
目を閉じて、聞こえるはずの無い、しかし未だ鮮明に響いている鐘の音の残響に耳を澄
ます。 その白銀の音色に、私は導かれているのかもしれない。

……いや、きっと私はそこを目指しているんだと、何処まで強く信じることが出来るだ
ろうか。
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