▼女装小説
L' oiseau bleu
作:カゴメ

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土塊の色をした石畳の続く、人ふたり程度がどうにか通れる程度の細い路地の両脇には
近代的な建築技術とは無縁の、剥き出しの煉瓦と木製の窓板に遮られた建物が続いてい
た。 そのいずれもが三階以上のおそらくは住宅で、あれほど照りつけていた陽光に混
じる夏の匂いは薄れ、ところどころひび割れた壁の間から除く、その名を誰からも知ら
れることの無い雑草は弱々しい隙間風に揺れている。
日陰ということもあり、私の両脚は時間の感覚を失いながら歩み続けてきたことへの抗
議を始めたようで、その活動を停止する。 気だるい空気に包み込まれた静寂が、目指
すべき道の遠さを物語る。 というより、指標、あるいはそれを定めるための情報すら
持ち合わせがないのだ。 私は、肩にはひどくなじんでいるようだが見覚えは無いハン
ドバッグを下ろし、その中身を確認する。 アイボリーのソフトケースに入った化粧品
やハンカチに、どのくらいの価値があるのか解らないお札と小銭の入った財布(カード
の類は一切入っていない、あれば少しは事態を好転させる糸口にもなりそうなものだが)
といった、多分私くらいの女の子にとってはごくありふれた物しか見当たらない。 水
色のブックカバーに覆われた文庫本が一冊あることに気づき、その中身に目を走らせて
見る。 『礎に生まれる曙と暁』と題されたそれは、粗筋(あらすじ)を見るに神と悪魔
の戦いに巻き込まれる高校生の女の子が、様々な出会いと別れを経て成長し、やがて世
界を変革する力を手に入れて……という流れの物語が平易な、というよりは他人に見ら
れたら恥ずかしくなる文章と漫画のような挿絵で書き出されている。
「私、こんなの好きだったの?」
忘れているということは、ときに便利なこともある。 きっと何かの気の迷いだろう。

瞬間、背後の風が止み、静寂を微かな足音がかき消した。 広げた荷物を慌ててかき集
め、乱暴にハンドバッグに放り込む。 石畳を乾いた音を響かせて歩く、紺色の地に赤
い十字架をあしらったネクタイをなびかせ、体格より少し小さめにみえるスクール鞄を
抱えた女の子がほんの一瞬、私のすぐ脇を抜けてゆく。
「人、いたんだ……。 こんなところ、歩いてくれてる……話、できるのかな」
膝のすぐ下まであるグレーのプリーツスカートを揺らし、長めにはみ出させた、少しだ
け皺の残るブラウスの背中が少し汗ばんで見える。 長い髪に手櫛を通しながら早足で
歩いてゆくその姿は、すぐに路地の出口に差し込む陽光にかき消されてゆく。
「――この辺の学校の生徒なのかな」

『気づいたときには』、私はこの場所から北西に続く細い路地を、橋を5本渡り歩いた
先の煤けた街並みに立ち尽くしていた。 何時からそうしていたのか、何故其処にいた
のかはわからない。 眠りからの目覚めとも、遮られていた視界が突然開けたような感
覚とも違う異様さに朦朧とする意識のなかで、目に焼きついて離れない光景……植物園
の一面に広がる薔薇たちのなかで風を受けて、鳴り続ける銀色の鐘の音だけが私にとっ
ての僅かな指針たりえたのだ。 その植物園がこの街のどこかにあるのか、それすら不
確かなままに。 世界から隔絶された私の意識からは、人から情報を得るという概念そ
のものが欠落していた。 この街には、人はごく普通にいて、けれど私のなかには存在
し得なかったのだ。

――私は彼女のあとを追いかけていた。 私にとって、最初に存在した人間を。

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